59 合流

「……遅いよ。兄さん」


 ナイフは男の腕を傷付けることなく、煉瓦の壁にめり込み突き刺さった。壁に磔になったまま失神している男を下ろして振り返れば、腕を組んで難しい顔の兄が居た。


「刺してたら、どうする気だったの?」


 我ながら無茶苦茶な事を言っている自覚はあったが、胸の内に渦巻く何かを言葉にして吐き出さなければ耐えられなかった。

 だが、兄さんは大して気にした様子もなく、片眉をきゅっと上げて肩を竦める。


「流石にそこまで馬鹿ではないと思ってな」


「……結構本気だったよ?」


 いっそのこと、『血の匂いに酔って醜態を晒すなんて、自制が足りない!』と一発ぶん殴られた方がさっぱりするかもしれないと自嘲気味に投げた言葉だったが、兄は取り合わない。そんな甘えは許さない。


「だが、お前はやらなかった。――よく思い留まったな」


 詰られるより余程きつい。

 自他共に厳しい兄が、思いがけずそんな優しい声をかけるものだから、胸が詰まって視界が滲んだ。

 高揚していた気分が一気に萎み、強い倦怠感となって全身に重くのしかかる。やらかした事に後悔は無いけれど、この反動には毎度最悪な気分にさせられる。


「別に。……セラの尻尾を切ろうとしたのは、こいつじゃないって思い出しただけだし」


 ヴェガ兄さんは僕の頭を乱暴にガシガシと撫でて背中を力強くバシッと叩くと、気を失った男の前にしゃがんで治療魔法をかけ始めた。

 兄の部下と思しき第五騎士団の黒の制服の男が二人、路地に駆け込んで来て惨状を見渡し「うわぁ〜……」「生きてる?」などとぶつくさ言いながら手分けして治療を開始する。


「そいつら、獣人女性誘拐事件に関わっているみたいなんだ。セラの血と牙を売り飛ばすとかほざいてた」


 しゃがんでもデカい兄さんの背中に投げ掛けると、しばしの沈黙の後に「そうか」と一言溢した。高い壁に囲まれた袋小路は、兄の怒気が重く満ちて一層息苦しく感じる。


 僕の報告が聞こえたのだろう、治療を手伝う二人の騎士は露骨に顔をしかめていた。第五騎士団の獣人は牙が抜けた妻帯者が殆どだと聞く。妻子を思って嫌な気分になったのだろう。


 応急処置をしている間に、黒服の騎士が更に四人応援に駆けつけ、治療が終わった者から順に連行していった。


「まったく……今日は留置場が大盛況だな」


 治療を終えた兄さんは誘拐犯たちを見送りながら、咥え煙草でモソモソとボヤく。

 フィリアスとエルミーナを狙った暗殺者に、セラを狙った誘拐犯と、凶悪犯ばかりが詰め込まれた牢屋を想像して、僕は思わず噴き出した。


 半壊した煉瓦の壁に寄りかかって座り、見上げた空に紫煙がゆらゆらと昇って行く。

 不意に膝の上に重みを感じて下を向くと、オリオンがのっしりと前足と顎を乗せて膝を占拠していた。心配してくれているのか、ちらちらと顔色を窺うように見上げてくる。


 セラなら『モフモフセラピーだ!』などと言って抱きつくかもしれない。僕も遠慮無く抱き締めて背中に顔を埋めた。……のだが。


「…………くさいな」


 いつにも増して鼻にツンと来る獣臭に抗議すると、当のオリオンは何故か得意気に頭をぐりぐりと押し付けてきた。嫌がらせか。

 そういえば、さっき『魔物もどき』を食ったとか言ってたから、この酷い臭いはそのせいかな?


 魔狼は雑食だ。

 影の中に住み着き、いつの間にか増えていて宿主の知らない内に魔力を喰い尽くし、動けなくなったところで肉を喰らう恐ろしい魔物。


 宿主にするのは魔力が高く質が良いもので、人間、魔族、竜、魔物と種族を問わない。魔力を与えられる内は良きパートナーとして飼い犬の如く懐くという。

 主従契約を結んでいる場合は、自分の魔力を与えるか他に『餌』を用意しなければならない。


 我がセシル一族で最初に魔狼シリウスと契約したルシオンは、僕と同様に月神セシェル御印みしるしを持ち、生まれもった魔力は人の何倍も有った。

 それに当時は魔族との戦争中で『餌』にうってつけな魔族の屍肉を沢山用意できた。ルシオンが魔族と戦い続けた本当の理由は、世のため人のためではなく『兄弟』を養うためだった。


 魔族が去り、魔物が滅多に現れない、この平和な時代に魔狼を飼うのは本来はとても危険な事だ。

 だが、オリオンを含むセシル家所縁の魔狼たちは飼われている自覚が無いらしい。千年の歴史を遡っても、セシル家の者が喰われたという話は聞いたことが無い。


 僕らを『兄弟』と呼んで、時には兄のように教え支えてくれる魔狼は、僕らにとって良きパートナーであり、大事な家族の一員なのだ。


「……帰ったら、めちゃくちゃ洗ってやるから覚悟しろよ」


「ウゥー」


 不満げに唸るオリオンを宥めながら背中を撫でていると、突然ぴくりと狼の耳が立って膝から起き上がった。


「アル! やっと見つけた!」


 その声に、僕は弾かれたように立ち上がる。狭い路地から姿を現した彼女は雲間から差す光明のようで、僕は眩しさに目を瞬いた。


「セラ……? どうしてここに?」


 セラは答えず、真っ直ぐに僕の目の前まで来ると、両腕を僕の首の裏に回して首筋に顔を埋めた。背伸びする彼女の背中を支えて少し屈むと、ぎゅっときつく抱き締められた。


 腕の中でしっとりと香る瑞々しい月光花の香りを肺いっぱいに吸い込む。痺れるような熱い波が胸に込み上げて、乾いてささくれ立った心をゆっくりと満たしていく。

 いつもなら彼女の首筋に牙を立てたくて仕方がないのに、今は不思議とその甘い香りに心が落ち着いた。


 そういえば、こんな風にセラから抱き締められるのは初めてだ。少し感動している自分に呆れる。こうして甘えてもらう事を望んでいた筈なのに、いざとなったらどう対処して良いのかわからない。

 僕はセラの背中をさすり、ただ抱き締め返すことしかできなかった。


「……ごめんね。アル」


 セラは顔を伏せたまま囁く。何も言わずに置いていったから不安にさせてしまったのだろうか。こめかみに口付けて艶やかな黒髪を撫でると、またふわりと甘い香りが漂う。


「どうして君が謝るの?」


「……だって、これは私の喧嘩なのに、君に肩代わりさせてしまったから」


「なんだ、そんなことか。――むしろ僕が謝らないとだ」


 腕を緩め、怪訝そうに僕の顔を上げるセラ。潤んだまんまるの目がキラキラと輝いて、夏の星空のようだ。


「君だって、アイツらを三十発ぐらい殴りたかっただろう? 僕が君の分までボコボコにしてしまったからね」


 ぽかんとしている隙に額に口付けて腕の中にしまい込む。


「ごめんね。半殺しにしておいたから許してね」


「半殺しって……何したの?」


「アレが半殺し……?」


「さすがは狂犬中の狂犬ねー。こわぁーい」


 訝しげなセラの後ろで派手なカップルがヒソヒソと話している事に気が付いた。いや、実際はもっと早くに気が付いていたけれど、セラの香りを堪能するのに忙しかった。

 派手な赤毛女ことアンジェリカと目が合うと、勝ち誇ったようにふふんと鼻で笑われた。


「あーら、感動の再会はもうお終い? ふふふ、せいぜい私たちに感謝することね! セシル兄弟!」


 おーほほほと高笑いしながらビシッと指さされたので、隣の派手な黒髪大男ことライルに目線で説明を求めると、こちらはやや疲れたように渋い顔をしていた。


「君を探している途中で再会して、事情を話したらライルが手伝ってくれたんだ」


「事情?」


 セラは僕の腕をするりと抜けて、隣で休憩中の兄さんに向き直った。


「ヴェガ兄さん。会ってほしい人がいます。……こちらへ」


 アンジェリカとライルの後ろに隠れていた小柄な人影が、兄さんの前に進み出てフードを下ろした。

 赤みがかった金色の巻き毛が陽光に鈍く輝き、青の瞳は不安げに揺れる。泣いた後なのか幼顔はやつれて、眼の周りは少し腫れていた。


 僕や兄さんの嗅覚を誤魔化して近付ける人物といえば、一人しか思い浮かばない。

 ――ラヴィア・ラッセル。レナリス・フォーサイスと共に学院から逃亡した筈の彼女が、何故まだこんな所にいるのだろう?

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