58 「寄越せよ」

 誰かが落とした煙草の紙箱を拾い、期待を込めて開けるも中は空っぽ。僕は瞬間的に湧き上がる怒りを抑えられずに煉瓦の壁を殴りつけた。

 唸る風。鈍重な音を立てて拳が壁を貫く。

 期待した程の発散にはならず苛ついて腕を引き抜くと、風穴から向こう側の民家が見えたが幸い住人は留守のようだった。


 濃い血の臭いに酔って、今にも沸騰しそうな頭を振る。思考の断片がガラガラとシャッフルされるように入り乱れては、目の奥に小さな痛みを残して砕けた。


 兄さんはまだだろうか?

 そろそろヒースが通報している頃だろう。コイツらを獣人女性誘拐事件の重要参考人として突き出せば、僕の仕事は終わり。セラの元に帰れる。


 終わる。終わりだ。終わりにするんだ。

 ――――本当に?


 高揚感、浮遊感に自然と頬が緩んで、虚ろな笑みが溢れる。

 こんな顔をセラに見られるわけにはいかない。セラの前では美しい月神セシェルで居なくてはならない。

 両手で顔を覆って隠すも、笑いが止まらない。まだ、終われない。


「うう……セ、ラ……くく、ふふふ……」


 衝動を紛らわせようと懸命に思考を巡らせ、順序立てて積み上げるも即座に瓦解する。目の奥に明滅する赤い光が平衡感覚を狂わせて、ぐらぐらと世界が揺れる。僕は堪らず、その場に膝を着いた。

 全身を熱い血が駆け巡り、狂気が濁流となって理性を押し流さんとする。昏い水のイメージは雨の記憶を呼ぶ。


 また、記憶の森に冷たい雨が降る。


『なぜ? どうしてこんなことをするの!?』


 朦朧とする意識の中、僅かに一滴、澄んだ雫がぽつんと落ちる。顔を上げたその先に、震えながら僕を睨みつけるあの夜の少女の幻を見た。


「君を傷付け、悲しませたからだ」


 掠れた声で言い訳がましい言葉を吐き、懐古と哀願に伸ばした僕の手を、君が取ることは決して無い。


『ひどい……ひどいよ。血がたくさん……死んじゃうよ』


「どうせコイツらは、獣人女を拐って売り飛ばしていたクズ野郎共じゃないか。君だって死ねばいいって思っているでしょう?」


『ちがう! わたしはこんなこと、おねがいしてない!』


「……そうだね。君は何も悪くない。全部僕が勝手にやったことだ。何も心配いらないよ」


『ねぇ、どうして笑っているの? ……アルも、わるい狼なの?』


「どうしてそんな目で僕を見るの? 僕は……」


 潤んだ瞳から大粒の涙を零して、僕の答えを待たずに幻は霧散する。

 あの問いに、僕は何と答えるべきだったのだろう? 君の前では善き狼で在ろうとした。だけど今もこの胸に渦巻くこれは私怨に他ならない。君のためと謳いながら、自分の鬱憤を晴らしているに過ぎない。


『君の中の悪いヒュドラは、勇者セリアルカが退治したんだ。だからもう二度と出てくるんじゃないぞ!』


 優しいセラ。君はそう言って僕を赦してくれたのに。僕はまた君の信頼を裏切ろうとしている。

 君のために手を汚す事を厭わない僕は、きっと君にとって悪い狼なのだろう。そして、僕は君がその事実に深く傷付けばいいと思っている。――二度と忘れられないぐらいに深く。


 顔を覆っていた手を下ろし、目を瞑り大きく息を吸う。バラバラになっていた思考がカチリとはまったのを感じる。ただ、そうして組み上がったパズルはとても歪な形をしていた。

 ――ああ、そうだ。もっと早く認めれば良かった。


 病み上がりの朝のように、意識は明瞭なのに身体が酷く重い。振り向けば、袋小路の出口を塞ぐ黒い木に登り、逃げようとする傷痕の男の姿があった。


『生きて帰れると思うな』と言っていたくせに……。

 呆れて首を振ると黒い木も僕を真似て、その太い幹を震わせて男を振り落とした。僕は地面に叩きつけられ咳込む男の髪を掴んで、袋小路の奥まで引きずり風穴の空いた煉瓦の壁に放った。


「……その傷は僕が貰う筈のものだった」


 僕を見上げる男の目に恐怖が浮かぶ。

 噛み痕のついた右腕を慌てて背中に隠すがもう遅い。


「僕より弱いくせに。セラがお前を選ぶ筈がない。頭ではわかっているんだ。……でも」


 甘噛みするのは親愛の証。赤い牙の痕は求愛の証。


「お前が妬ましいよ。セラの心にその後の人生を変えるような深い傷を付けて。あの娘は未だに誰も噛めない。誰も選べなくなってしまった」


 不公平じゃないか。

 君を噛もうとした狼男、君を迫害した人間共、君はそんな奴らばかりを心の中に留めて、僕を蔑み閉め出す。

 僕は誰かが落としたナイフを拾う。握った柄がギリっと軋んだ。


「羨ましい。消えない傷……忘れられない痛み……それは、僕が貰う筈だったのに……」


 傷付けたいわけじゃない。でも傷付けることが避けられないのならいっそのこと、誰よりも深く君の心を抉りたい。

 左腕の御印みしるしが血のように赤い光を放つと、僕の足元から黒い木の根が飛び出し、男の身体を煉瓦の壁に縫い付けた。


「――寄越せよ。お前には相応しくない」


「やめ、やめろ! やめてくれ……!」


 ガタガタと震え、見開いた目から涙を零して懇願する男を前に、笑いがこみ上げる。


「ははははッ! セラもそうやって、やめてって懇願しただろう? その時お前らはどうしたんだ? やめてあげたか!? やめるわけないよなぁ。……だって、こんなに楽しいんだから!!」


 振り上げたナイフが陽光を鈍く反射する。刃こぼれして錆が浮いた刃では、そう簡単には切り落とせないだろう。何度も、何度も何度も刺すことになる。

 風を切って振り下ろされたナイフに、男の絶叫が路地に響いた。




 ***




 店の外に飛び出した私は、目抜き通りを噴水のある中央広場の方に向かって走った。噴水の縁に上って高い所からアルの姿を探したが、広場を中心に蜘蛛の巣のように伸びるどの道筋にも、彼の姿は見当たらなかった。

 一体どこまで連れて行ったんだ? それに、先程の不気味な地鳴りは何だろう?

 不安と焦りばかりが募っていく。


 彼のにおいの痕跡を辿ろうとしても、人通りが多過ぎて紛れてしまう。狼姿で地面を嗅ぎ回れるならともかく……そう消沈した時、はたと気がついた。

 そうだ、狼だ!


「……ディアナ。ディアナお願い」


 その場にしゃがんで石畳に映る影を撫でると、影の中から真紅の双眸が見つめ返す。ずるりと影から這い出た魔狼ディアナは私の頬を舐めて、目の前にちょこんとお座りした。


「ディアナ、君のご主人様は今どこにいる?」


 ふわふわした首回りをモフモフと撫でながら尋ねると、ディアナは鼻を高く上げてスンと鳴らした。キョロキョロと首を巡らして……ぴたりと動きを止める。


「ディアナ?」


 みるみるうちに耳が垂れてしょんぼりと俯いた彼女はきゅーんと悲しげに鳴く。使い魔が主人の居場所がわからないなんて事があるのか? それとも……。


「どうしたの? アルはどこ?」


 落ち着けるように抱き締めて背中を撫でるが、ディアナは母を呼ぶ子犬のように鳴くのをやめない。私に何かを伝えようとしているのに、理解できないことが歯痒い。

 モゾモゾと身動いで私の腕から抜け出したディアナは、なんとなく私の追及を嫌がっているような気がする。


 両の頰を撫でて正面からディアナの目を見つめると、くーんと寂しそうに鳴いて影の中に逃げ込んでしまった。

 わからないんじゃない。教えたくないんだ。

 おそらく、アルが『来るな』と言っているのだろう。ディアナは命令に従っているだけだ。


「どうしよう……一度戻った方がいいのかな」


 ディアナにも逃げられて急に心細くなってしまった私は、途方に暮れて噴水の縁に腰掛けた。背中に心地良い冷んやりとした水音。いつか二人で見た雪の舞う湖を思い出す。

『僕がどんな人間なのか知ったら、きっと君は僕から逃げて行くと思うよ』

 君はそう言ったけれど、私は逃げなかったじゃないか。だからもっと、私を信頼してくれてもいいのに。


 今はここに居ない彼に思いを馳せた時、不意に視線を感じて顔を上げる。

 雑踏の向こう、店舗の陰からこちらを見つめる黒いフードの人物が居た。私と目が合った瞬間、身を翻して逃げ出す。周囲の建物から目測するに身長は低い。子供か女性……? まさか。


「ラヴィア、なのか?」


 急いでその人物がいた店角に行くと、ほんのりと甘ったるい香水のにおいが、店と店の間の細く昏い路地の向こうに続いていた。

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