孤独な星の狼
55 アルファルド(1)
生まれた時から、二つの人生を生きてきた。
ルシオン・セシルは、千年前の魔族との戦争において、天狼のルシオンと呼ばれた大英雄だった。僕のミドルネームは、ルシオンのような偉大な戦士になれという願いを込めて付けられたものだ。
同じ名を付けられたからなのか、あるいは同じ四人兄弟の末っ子として生まれたからなのか。僕とルシオンの境遇は正反対にも拘らず、何かを見る度に記憶を刺激され、僕の精神は頻繁に現在と千年前を行き来する。
寝ても覚めても続く日常に精神は磨り減り、幼い自我は曖昧になっていった。
もし夢の中で見る記憶が幸福なものだったなら、こうも歪んだりはしなかっただろう。
今ここに居る自分が、どちらかわからない。
今がいつだかわからない。
ここが何処だかわからない。
自分を取り巻く全てが敵に見えた。
事実、ルシオンの記憶ではそうだった。
祖父が妻を眷族にしなかったために、父親は人間の血を濃く引いて人間として生まれた。彼は人間の女性と結婚し、二人の間には、ルシオンを含めて四人の子が生まれた。
その中で、末の子として生まれたルシオンだけが先祖返りして狼男として生まれたのだった。ルシオンは、生まれながらの
ルシオンを取り上げた産婆は気を失って、母親は『化け物を産んだ!』と泣き叫んだという。
家族はおろか、使用人たちからも放置され、与えられた食事は腐りかけて酷い臭いのするものや、虫が湧いたものばかり。いつも空腹と酷い腹痛に悩まされていた。
伸ばし放題の髪と爪、風呂に入ったこともなく、悪臭を放つぼろぼろの布を巻き付け寒さを凌ぐ。
五歳になってもまともに言葉を話すことができなかった。
ルシオンの世界は悪意と暴力に満ちていて、その世界で生き抜くために、家族と人間への憎しみを燃やし続けた。
眠る度にそんな光景を見せられて、僕の精神は壊れる寸前だった。
――いや、きっとその時に一度壊れたのだろう。
ある日、父が長い出張から帰ってくると、嗅いだことのない素晴らしい香りがした。その元を辿って父の鞄をひっくり返すと、中から金色の狼のぬいぐるみが出てきた。
僕はそれを奪って部屋に引っ込んで、抱きしめているうちに、いつの間にか眠っていたようだった。
翌朝、アルファルドは生まれて初めて、ルシオンの夢を見ることなく、幸福なアルファルドのまま目を覚ました。
清潔なシーツに焼きたてのパンの良い匂い。
すれ違う使用人たちが皆、優しい声を掛けてくる。
ぬいぐるみを抱いたままダイニングに現れた僕に、母が子供用の椅子を二つ用意して、僕の隣にぬいぐるみを座らせてくれた。
彼のためにお皿とスプーンまで用意してくれたので、お礼を言ったら泣かれてしまった。初めて、僕が母を母と認識した日だった。
不思議なことに、ぬいぐるみの彼が来てからはルシオンの夢を見なかった。
彼が何故、父の鞄に潜んでいたかといえば、父の友人の子が、いたずらで父の荷物に紛れ込ませたらしい。そう聞かされてから僕は、まだ見ぬその子のことで頭がいっぱいになった。
父にいたずらを仕掛けるなんて、どんな子だろう? この香りは、その子の香りなんだろうか?
見たこともない極彩色の花と南国の熟れた果実を思わせる甘い甘い香り。胸をきつく締め付ける、泣き出したくなるような切なく懐かしい香り。
それが、月光花の香りと知るのはもう少し後のことだ。
それまでの遅れを取り戻すように、僕は色んなことを学び吸収した。その傍らにはいつも必ず、ぬいぐるみの彼が居てくれた。言葉を覚えてからは、ずっと彼に語りかけていた記憶がある。
誰もが僕を生きる
――なんて幸福な世界。アルファルドの世界は光で溢れている。
この時間が続けば良いと誰もが思っていただろう。
けれど、そうやって昼も夜も無く、方々にぬいぐるみを連れ回せば当然くたびれて汚れてきてしまう。
良かれと思っての事だったのだろう。僕が目を離した隙にぬいぐるみを洗濯されてしまい、あの素晴らしい香りはすっかり消えて、洗濯石鹸のにおいしかしなくなってしまった。
その夜から、僕はまたルシオンの悪夢に魘された。
眠れば悪夢を見る。だから眠らない。お腹いっぱいになったら眠くなる。だから食べない。
一度穏やかな生活を知ってしまったからこそ、前よりも酷い絶望に叩き落とされた。
僕以上に母の絶望は大きかったように思う。見違える程に穏やかになった幼い息子が、また自分を拒絶するようになってしまったのだから。
どんどん痩せて衰弱していく僕を見て、父は苦渋の決断をした。
『
生贄? そうかもしれない。
彼女は小さないたずらがこんな大事になって返ってくるなんて、思いもしなかっただろう。……こんなバケモノの花嫁にされるなんて。
だが、家族を守るための父のその決断を、誰が責められただろう?
月神の御印が過去の夢を繰り返し見せてアルファルドを苦しめるのは、ルシオンから千年の間、一度も月女神を一族に迎え入れることができなかったからだ。
幸い今代の月女神には娘が生まれた。彼女を手に入れれば月神の怒りは収まるだろう。
月女神は獲物を追ってどこまでも旅をする狩猟の女神。夫婦となっても、ひとつの場所に留まることができない性質。捕まえなければ、すぐに遠くへ逃げてしまう。次に逢えるのは何代後になるかわからない。――失敗は許されない。
月神は月女神を待ち望んでいる。
月を愛し、月に酔い、月に哭き、月に狂う月神は、森の外の血で満ちた月女神の器を心待ちにしている。
欲しいものを手に入れるためならば、手段を選ばない獣の神。そんなモノの意思が、まだあの森には確かに存在していて、容赦無く僕らを突き動かす。
御印は祝福で呪い。加護を得る代償に、少しずつ侵食されて、いつか人でなくなるのかもしれない。
その日、僕は早朝に目が覚めた。
前日までベッドから動けないぐらい衰弱していたのに、不思議と身体は軽く、自力で立ち上がって歩くことができた。
寝汗でベタベタする身体を洗って身支度を整えてから、ぬいぐるみの彼を連れて部屋を出ると、廊下をバタバタと使用人が駆けて行く。城内は静まり返っているのに、何故かいつもより騒がしい気がした。
誘われるように城のエントランスに向かうと、そこでようやく騒ぎの原因を知ることになる。
「すまないな。こんな朝早くに押し掛けて」
聞き覚えの無い声に、僕は咄嗟に物陰に隠れた。この城に客が来るのは初めてのことだ。でも、誰が来たのかすぐにわかった。あれからずっと渇望していた香りがしたから。
「構わないさ。……むしろ遅いぐらいだ」
「この子をよろしく頼むよ」
「ああ、任せてくれ。――こんにちは。セラ。おじさんのことを覚えているかな?」
「…………パパのお友達」
「うん。覚えていてくれたんだね。嬉しいよ。パパがお仕事に行っている間、ここで一緒に待っていようね」
「……」
僕は廊下にあった花瓶から白いバラを一本抜き取ってエントランスに降りた。僕の足音に、白い狼のぬいぐるみを抱いた黒髪の女の子が、ゆっくりとこちらを振り返る。
彼女の青みがかった灰色の瞳に映った瞬間、僕は誰に教えられたわけでもなく自然と彼女の前に片膝を着いて、金の狼のぬいぐるみに持たせたバラを差し出していた。
「ようこそ。オクシタニアへ」
はにかみながら微笑む君の顔を、ぬいぐるみの陰から覗き見た時、僕は失くした半身を見つけたかのような安心感に包まれた。
君が居る方が現実。僕はルシオンじゃない。迷ったら君の香りのする方に帰ってくればいい。君の隣に居る僕が
――君が、僕を悪夢から救ってくれたんだよ。セラ。
――――――――――
白い薔薇「純潔」「深い尊敬」「私はあなたにふさわしい」
一本の薔薇「一目惚れ」「あなたしかいない」
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