56 アルファルド(2)

 手を繋いでいればどこまでも行ける気がした。セラは口数が少なく俯いてばかりだったけれど、彼女の手を引いて森を案内するのは最高に楽しい時間だった。


 絵本の中の月女神ルーネは銀髪だったけれど、僕の女神は黒髪だ。きっとあの絵本を描いた人は、月女神に会ったことが無いのだろう。本当の月女神は僕だけが知っている。それはとても甘美で重大な秘密のように思えた。


 当時はまだ長かったセラの黒髪に映えるように、毎朝色とりどりの花を摘んで花冠を作った。

 満月の夜に咲く月光花の香りに誘われて、月女神は空から降りてくる。きっと、セラも花が好きな筈。

 セラが最初に見せてくれた、あの笑顔が恋しかったから、喜びそうなことは何でもしてあげたかった。


 髪に花冠を。指にシロツメクサの指輪を。セラはその度に恥ずかしそうに頬を染めて目を伏せるので、なかなか視線が合わない。

 そんな彼女の仕種の全てが愛おしくて、何度『結婚しよう』と言ったかわからない。その頃のセラはまだスレてなかったので、『正気か?』とは言われなかったけど、困った顔をして黙り込んでしまうのが可愛かった。


 だから僕はセラの星が瞬く夜空のような瞳を覗き込んでは、言葉をひとつも聴き逃すまいと耳を澄ませた。そうしてじっと待っていれば、セラは必ず返事をしてくれるから。


 答えるまでに時間がかかるのは、慎重に言葉を選んでいるからだ。セラは、何を言えば僕を怒らせないかを必死に考えているようだった。

 口を開き、言いかけては口をつぐみ、でも何か答えなきゃと懸命に言葉を紡ぐ。それがどんな答えだって、僕は怒ったりしないのに。


 僕は、セラをこんなにも深く傷付けた人間が憎い。でも同時にほんの少しだけ羨ましいとも思った。

 僕はまだセラの心の内に入れてもらえないのに、最悪の形であれ、セラの心に居座り続けるそいつらに激しく嫉妬したのだ。


 僕自身もまだ現実いまに慣れてきたばかりで、上手く話せなかったから、沈黙は少しも苦じゃなかった。それに、どうしても何か伝えたくなった時は、僕らには奥の手がある。


 獣化して心に直接語りかければ、言葉にならない小さな思いが伝わる。『体力と魔力を大量に消費するから、子供のうちは満月の夜以外の獣化はダメ!』と父からきつく言われていたので、それは二人だけの秘密だった。


 そうして毎日手を繋いで森を探検するうちに少しずつ会話が増えていき、笑顔が溢れるようになった。

 都会育ちのセラは見るもの全てが新鮮なようで、色んなものに興味を持って『あれはなぁに? これはなぁに?』と聞いてくれる。僕はそんな彼女の疑問に答えられることが誇らしかった。


 優しい、宝物のような時間はあっという間に過ぎて行く。




 セラがオクシタニアに来てから三ヶ月が経った頃、セラの父親が迎えに来た。


 あの人が一歩森に入った時から、森は上を下への大騒ぎになった。月女神ルーネ御印みしるしを持つ当代の月女神の器、エリオット・リーネ。あの人の来訪に月神セシェルは歓喜し、冬が始まったばかりの森は真夏のように青々しく茂り、季節外れの花が乱れ咲いた。


 どこから聞きつけたのか、月女神の姿を一目見ようと、領内から人や動物たちが集まってきて静かな森は突然の大賑わい。終いには月女神の加護を得ようと森の幸を奉納する者まで現れる熱い歓迎ぶり。そんな騒ぎを、僕は冷めた目で見つめていた。


 あの人の何もかもが気に入らなかった。セラと同じ黒髪も、鋭く賢そうな灰色の瞳も、話しかける声も、セラが懐いていることも、大人であることも全て。

『セラとずっと一緒にいたい。どうか連れて行かないで』そんな僕の切なる願いを、ただの我儘として流した。何よりもそれが許せなかった。


 あいつが月女神なわけがない。僕の月女神はセリアルカだけだ。


 冬なのに色鮮やかで明る過ぎる森は、セラと引き離される僕の悲しみなどお構い無しにお祭り騒ぎ。ここは僕の森なのに。僕の知らないどこか遠い場所のようだ。森の主は僕なのに。


 父親の姿を見た瞬間、僕の手を離し嬉しそうにあの人の元に駆けていくセラ。その後ろ姿に、脳が揺れるような衝撃を受けた。足元から世界が崩れていく感覚。君は僕の世界の中心なのに。

 居場所を奪われた焦燥に、僕は必死でセラを繋ぎとめようとした。


 ――行かないで。ここでずっと一緒に暮らそう。


「でも、わたしがいないとパパがひとりぼっちになってしまうもの」


 ――君が居なくなったら、僕がひとりぼっちになるよ。


「アルには、おじさまとおばさまとお兄さんたちがいるでしょう?」


 ――君が居ないと、僕はダメになってしまうよ。きっとまたあの悪夢を見る生活に戻ってしまう。お父さんと離れるのが嫌なら、君のお父さんも一緒に森に住めばいいじゃないか。


「森は楽しいけれど、パパとお家に帰りたいの」


 ――ここは君の家だよ。僕は君を家族だと思っているよ。


「おじさまもおばさまも大好きだよ。でも、わたしのパパはパパだけだもの」


 ――……僕は? 僕のことは好きじゃないの?


「好きだよ。でも……」


 ――それならどうして!!!


 声を荒げてから、ハッとする。セラの怯えた表情に、ようやく繋いだ心が離れて行くのを感じた。

 怒っているわけじゃないんだ。君を傷付けるつもりは無いんだ。ただ側に居て欲しいと伝えることが、どうしてこんなにも難しいのか。


 僕のただならぬ様子に、危険を感じたのだろう。リーネ親娘は予定を早めて、逃げるように森を出ようとした。

 次に会う約束を取りつけられず、さよならも言えずに二人を見送った僕は、到底別れを受け入れることなどできず、実力行使に出た。


 森の道を倒木で封鎖し、木を退けるのに右往左往している間に馬を逃した。ただ、相手は大人の狼男だ。その程度では挫けない。諦めて戻って来ればいいのに、僕から逃げようとするから、もっと強硬な手段に出るしかなかった。




 ところで、セラが知っている月の神話と、僕が知る神話は少し違う。


 僕が知る神話では、月光花のロープで月女神を捕らえた月神は、月女神の背中の黒い翼を毟り荊の檻に閉じ込めた。

『空に帰りたい』と泣く月女神ために、月神は千の花を咲かせる。

『千の花を咲かせるご褒美に、千の口づけを。わたしに愛を誓ってくれるなら、あなたを空に帰してあげよう』

 その取引は成立することなく、月女神ルーネ太陽神クリアネルによって空に連れ戻されてしまう。


 僕はセラを荊の檻に閉じ込めたりしない。今までと同じように、ただ側に居てくれればいい。

 でも、それさえも嫌だと言うのなら、神話と同じように世界中の植物を枯らしてしまおうか。そうすれば、きっとセラは振り向いてくれる……。




 昼過ぎから降り始めた季節外れの大雨が夜の森を洗う。僕は雨音に紛れて城を抜け出し、真夜中の森を裸足で歩いた。

 迷路のような森の中、次々に降りかかる災難に、そろそろ脱出を諦めた頃だろう。ようやく二人を追い詰めた。後は優しく手を差し伸べるだけ。


 戻っておいで、セラ。森の外には君を傷付けるものしかないじゃないか。


 地滑りによって森と外界を隔てる渓谷の道が閉ざされ、二人は夜明けまで馬車の中で過ごすことにしたようだ。

 真夜中の森にぼんやりと灯るランプの光。僕は馬車の中の二人に気付かれないようにそっと中を窺った。


 降りしきる雨の音。暖かな光の中、父親の膝に頭を乗せて幸せそうに眠るセラの姿を目にした瞬間、僕の小さな世界は崩れ去った。


 君の居る方が現実。君の側に居るのは僕。ならば、君が怯えて逃げていくこの僕は誰だ?


 服に染み込む冷たい雨。寒さにかじかんで、じんじんと痛む指先。頬を伝う雨だけが生温かく、耳奥で降り続ける雨が溜まって、胸の中にドス黒い濁流が渦巻く。

 雨音が、耳について離れない。


 ――あいつさえ居なければ。


 もう、僕を止めるものは何もなかった。




***




 慣れない杖をつきながら、『ほんの少し散歩に行ってくる』といった軽い調子でふらりと出掛けたあの人は、全ての問題を解決して、出て行った時と同様にふらりと帰ってきた。迎えに出た僕を見るなり意地悪そうにニヤリと口角を上げる顔は、悔しいほどセラの得意顔にそっくりだった。


「この悪ガキめ。何が天狼だ。とんでもない狂犬じゃないか」


 謝罪を述べようとする僕を制して、乱暴に僕の頭を撫でる。


「謝罪は必要ないぞ少年。悪かったなんて微塵も思っていないだろうさ。……ああ、今のは嫌味じゃないよ。そう怒るなって」


 別に怒ってはいない。ただその大人の余裕を振りかざすところが大嫌いなだけだ。


「……君の身の内に棲む天狼は、これからも君に囁き続けるだろう。飼いならせるかどうかは君次第だよ」


 その言葉の意味を今も考えている。

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