25 怒らせてはいけない人
手足が指先から冷えていくような感覚を覚えた。
カーテンを締め切り、朝日を追い出した薄暗い医務室は凍えるように寒い。
「殺された……? 誰に? どうして?」
返答は無い。これはアリバイの確認ということだよね?
冷たく澄んだ北の空を思わせるフィリアスの瞳は、薄闇の中でも理知的な光を失わず、こちらの一挙手一投足をつぶさに観察している。少しの虚偽もひとつの欺瞞も許さない。そんな冷徹さを秘めていた。
「私たちはあの後、部屋に戻って掃除したりお風呂に入ったりして、消灯後に遊びに来たアンジェリカと三人で朝方までお茶を飲みながらお話していたわ。心配ならアンジェリカにも聞いてみて」
絶句する私に代わり、エリーが答えた。
「途中で外出した者は?」
「いません。バスルームに行った人はいるけど、部屋の外には出ていません」
「朝方までと言ったが、そんなに長時間話すようなことがあったのか?」
眉を顰めるフィリアスに、隣に座るエリーの膝に置かれた手がぎゅっと握り締められたのを見た。私もフィリアスの尋問のような言い方に反発を覚えるも、エリーの方が先に臨戦態勢に入ってしまったらしい。
「恋バナというものは長くなるものなのです。女同士のお喋りの内容を詮索するものではありませんよ」
にこやかな笑顔、穏やかな口調ながらも、ただならぬ気配を漂わせるエリーに、フィリアスも負けじと貼り付けたような営業用の笑みを浮かべて応戦する。
「俺は君の考えることなら、どんなことでも知りたいと思うのだが、俺にも話せないようなことなのだろうか?」
「ええ、そうです。殿方にはとてもお聞かせできない内容ですわ。うふふふ……」
戦神と魔神が睨み合う絵画を彷彿とさせるこの状況。どうすんだこれ……? と後ろにいる筈のアルを振り返ると、彼もまたうんざりした表情で静かに二人のやり取りを見つめていた。
助けを求める私の視線に気がついて、私の隣にどすんと腰掛けた。
「……話の内容はともかく、私たちは朝まで一緒に居たよ。第一、あの人を殺す動機が無いし。捕まえたら安心しちゃって、今まで忘れていたよ。それに……」
と、隣のアルの顔を見る。目が合うと彼はにっこり笑った。
「どうせまた私の影に使い魔を忍ばせて、監視してたんじゃないの?」
「監視だなんて。危ない目に遭わないように見守っていただけだよ」
アルが自分の膝をぽんぽん叩くと、私の影からずるりと魔狼が這い出してアルの膝に前足を乗せた。アルが頭を撫でると、くーんと鳴いて嬉しそうに尻尾をぱたぱた振る。
魔物だと知らなかったら犬だと思うぐらいに、よく懐いているけど、いったい何匹飼っているんだろう……。
「……エリーの言っていた通り、朝まで部屋に居たってさ」
ってやっぱり監視してたんじゃないか!
ストーカー男に監視されているのは、危ない目じゃないのか? と問い詰めたかったけれど、話の腰を折りそうだったのでやめた。
魔狼の報告をアルが通訳すると、フィリアスはあっさり引き下がった。最初に言っていた通り、疑っていたわけではないのだろう。
「そうか。確認とはいえ不快な思いをさせてすまなかった。――当事者である君たちも何があったのか知りたいだろう。これから話すことは朝食前に話すには少々過激な内容だが……二人とも大丈夫かい?」
フィリアスがエリーの手を握り心配そうに顔を覗き込むと、エリーはぐっと眉根を寄せて頷いた。それを見て少し逡巡した後、フィリアスは話し始めた。
「魔力抑制装置付きの手錠で手足を拘束された状態で、馬車で移送中に襲撃を受けたらしい。護送していた騎士たちは五人。皆何らかの魔法により昏倒させられ、気が付いた時には、犯人だけが惨殺されていた。現場の様子を見た者によれば、大型の獣に食い殺されたように身体を引き裂かれ顔もわからぬ程に潰され、酷い有り様だったそうだ」
それで、狼女の私を疑ったのか。たしかに状況から考えて獣人の犯行のように思える。でもそれなら、大型の魔獣を使い魔にしているアルも怪しいのでは?
私の疑惑の視線に気付いたアルは、膝を占領している魔狼を庇うように抱きしめて顔を顰める。
「まさか僕らを疑ってる?」
「獣人が怪しいのなら魔物だって怪しいでしょう? その主人はもっと怪しい。君ならやろうと思えばできたんじゃない?」
正体のわからない人間っぽいものをあんなに迷い無くぶった斬るには、どれだけの研鑽を積んだのだろう?
アルは目を細めて、なるほどと相槌を打つ。
「――僕の狼は優秀だからね。喰い殺せと命じれば骨の一片も残さないよ。まぁ、僕が犯人なら君に疑いが掛かるようなヘマはしないよ。殺すつもりなら捕まえずにそうした」
アルは事も無げに言ってのける。
彼の思考の中に当然のように殺すという選択肢があることが、少し悲しいと思った。
あの時、アルはあの男を制圧していた。殺すつもりなら、その時に襲われたなどと言って正当防衛を装って殺すこともできただろう。でもそうはしなかった。そうする必要も動機も無いからだ。
アルは少し拗ねたように抱きしめる狼の背中に頬を寄せた。狼の赤い目が非難するように私を見る。
「……ごめん。これは八つ当たりだった」
自分が関わった人が死ぬのは初めてじゃないのに、胸の奥が騒めいて収まらない。でもだからといって当たっていいわけがない。釈然としない思いを持て余しているのは私だけじゃないのに。
「君は優しいね。命を狙ってきた名前も知らない人間のために怒るなんて」
そんなんじゃない。私がガキなだけだよ。
膝の上で硬く組んだ私の指を、温かい大きな手が包んだ。
「……これからは、日が落ちたら寮を出ないこと。なるべくひとりにならないこと。不自由だろうが、犯人が捕まるまでは充分に警戒して欲しい。特にエリー、俺もセリアルカも別の科だから常に側には居られない。気は進まないが……アルファルド」
フィリアスに指示されて、アルはやれやれと肩を竦めた。
ここ最近の出来事で、フィリアスとアルの関係性が少し見えてきた気がする。アルはフィリアスの言葉には大人しく従っているように見える。
ただの友人関係ではなく、おそらくは主従。
『――お隣のオクシタニアのセシル伯爵なんて、千年前から王家に仕える由緒正しいお家柄』と、アンも言っていた。
王子の隠密あるいは護衛といったところだろうか。
だから使い魔を使役し影に帯刀したり、温室を自室にしていたりと、ある程度の自由が認められているのかもしれない。
「そう睨まなくてもいいよ。安心して。僕はセラにしか興味無いから」
喜んでいいのかわからないセリフを吐いて口笛で合図すると、アルの影からクリーム色の大きな魔狼が出てきた。魔狼はエリーの足元にぴたりと寄り添って床に伏せる。
「名前はリラ。女の子だ」
「わぁもふもふね。触っても大丈夫かしら?」
アルが頷いたので、エリーが頭を撫でるとリラは気持ち良さそうに目を細めた。
「これからは、俺が君を護衛する。目の届かない所は今まで通りセリアルカとリラに頼む」
「よろこんで引き受けるけど……大丈夫なの?」
今まで目立たないようにお互いに関わらないようにしていたけど、方針を転換するらしい。
私の問いに、フィリアスは腕を組み直して不敵な笑顔で顎を撫でた。
「――どこのクソ野郎の仕業だか知らないが、誰を敵に回したのか思い知るべきだろう?」
「う、うん?」
「この人こっちが素だから……」
戸惑う私にアルが苦笑しながら囁いた。
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