16 クッションは犠牲になったのだ
「君が、僕を救ってくれたから」
君は、覚えていないだろうけど。
苦しげに彼は吐露する。
私は身体を離して彼の顔を見つめるけれど、悲しげに笑うその真意は読み取れなかった。
「困らせてごめんね。君が狼男を憎んでいるって知ってたのに、僕はこんな卑怯なやり方しかできない。――でも、君を助けたいのは本当なんだ。君があまりにも真っ直ぐだから、僕は心配で堪らない。君が傷つくぐらいなら僕の好意を利用すればいいんだ」
「――そんなのおかしいよ! 私が覚えていないような理由で私に尽くすなんて!」
理由もわからずに、そんなに強い感情をぶつけられれば、ぶつられた方は恐怖を感じてしまう。純粋な好意としては受け止めきれない。
私を助ける代わりに、一生を獣人として満月に怯えて生きるなんて誰にもさせたくない。真っ直ぐで危ういのは君の方じゃないか。
「僕も、そう思う」
泣きそうな顔でそう言って、優しく抱きしめるから私は言葉に詰まってしまった。そんなのおかしいと、私はアルファルドの好意を全否定したのに、それでも彼は諦めようとしない。
「君はもう充分、私を助けてくれたよ? 凍死しそうになったところを助けてくれたじゃない。それであいこでいいじゃないか」
私が救った? 私が何をしたって言うんだ? それは、狼男になっても構わないと言えるほどのことなの?
「説明してよ」
彼の肩に額を当てたまま呟く。
少しの沈黙の後、アルファルドは話し始めた。
「……君はお母様を失ったばかりで、心に深い傷を負っていた。自分の心を守るために忘れたことを無理矢理に思い出せば、つらいことも思い出してしまうよ?」
アルファルドは私の髪を撫でて額の左端、髪の生え際に小さく残った傷痕を指でなぞった。普段は髪に隠れているため、その傷があることを知っているのは、当時を知る人だけだ。――私たちはその頃に会っているのか。
傷のことで思い出せるのは、狼男が吐いた呪いの言葉。
『やっと見つけた。君こそ俺の番に相応しい。君を迎えに来たんだ。隠れても無駄だ。君のにおいを覚えてしまったから。――もうどこへも逃げられない』
血塗れの手がこちらに伸びて来て頭を押さえつけられ、噛まれそうになったところで父さんが助けに来てくれた。記憶を埋め尽くすのは銃弾に撃ち抜かれた瞬間、私を見て嗤ったあの男の顔と、血のにおい。
その事件の後からか、私は自分に向けられた興味や好意が怖い。熱心に慕ってくれるアルファルドをどこか怖いと感じてしまうのも、そのせいだと思う。
何年経ってもあの声に苛まれている。あの狼男はもうこの世に居ないのに。
私はまだ、あの声から逃げられない。
「いつかまた、オクシタニアにおいで。君の準備ができてからでいい。みんな、君に会いたがっているから」
アルファルドの言う、“みんな”が誰を指しているのかわからないことが心苦しい。
私は君の故郷に行ったことがあるの? だから何度もオクシタニアに招待してくれたの? 手紙では散々断ったけれど、理由がわかった今は、少しだけ心が揺れている。いつかは、向き合わなければいけないことだ。
迷う私にアルファルドが更に魅力的な後押しをする。
「それに、前に贈った桃、美味しかったでしょう?」
昔、私が風邪で寝込んだ時に桃を贈ってくれたことがある。本当に美味しかったから、いつもより丁重にお礼状を書いたことを覚えている。
急にそんな話をするからおかしくなって笑ってしまった。
「すごく美味しかった。あんなに甘いのは初めて食べた」
「ふふっ用意しておくから遊びにおいで。――結婚したらいつでも食べれるんだけどなぁ……」
そう言って額に口付けされた。
一応反省しているみたいだし、落ち込んでいるみたいだから、今まで大人しく彼の腕の中に収まっていたけれど、……調子に乗ってるな?
私はアルファルドの腕から抜け出て、距離を置いてベンチに座った。名残惜しそうにこちらに伸ばしてくる手を叩きおとす。
「いきなり押し倒して噛めとか言うケダモノと結婚は無理だわ」
「転校してきて一ヶ月で、学年二位の剣士に決闘を申し込んじゃうような野獣と添い遂げられるのは、僕しかいないと思うなぁ」
「どっちが野獣だ! ……えっ、ヒースで学年二位なのか」
一位はもっと強いの? 決闘までいかなくても手合わせしてみたいな。そう思案する私の横で、アルファルドが露骨に表情を曇らせる。
「……なんで、アイツを愛称で呼んでるの? 僕の方が強いのに!」
「だって、そう呼んでって言われたから……」
強いから愛称で呼んでいるわけじゃないんだけど……って君がヒースより強い? まさか。
「酷い。僕という者がありながら他の男を愛称で呼ぶなんて……やっぱり無理矢理にでも噛んでもらうしか……」
両手で顔を覆って大げさに嘆きつつ、不穏な呟きを零すので、私はなんだか面倒になって折れた。
「わかった。エリーがアルって呼んでたから私もそうする」
と答えると、ぱぁっと笑顔になって抱きつかれそうになったので手近にあったクッションを身代わりにした。
「君、まさか歴代の彼女に対してもそういう感じだったの? 流石に引かれない?」
歴代の彼女が何人居たかは知らないけど、私への執着でコレなら恋人に対してはもっと酷いのでは? だからフラれたのでは? フラれた前提だけど。
アルはスッと真顔になって抱きしめていたクッション握りしめる。なんかメリメリいってるけど大丈夫? それ破れない?
「……誰がそんなこと言ったの? 事実無根だよ」
あっ……これは。
エメラルドグリーンの瞳がすうっと細まり、浮かべた笑顔は凶悪な程に晴れやかだった。
ヒース、逃げて。全力で。
「…………なるほど。やっぱりアイツ殺す。二度殺す」
***
深夜の闘技場のステージにひとりの男が佇んでいた。天窓から降り注ぐ月明かりが、男の赤銅色の髪をより赤く鮮明に染める。
月光のスポットライトの下、ステージ中央には踏み砕かれたタイルと、飛び散った血痕が生々しく残っていた。明日の午前中には全て綺麗に清掃修復されてしまうので、彼が現れるならばこの夜しかないとフィリアスは考えたのだった。
「――来たか」
果たして、彼は現れた。
上下とも黒ずくめで黒いフードを目深に被り黒いマスクで口元を覆う姿は影そのものだった。
「最初に尋ねるが、今回の一件にお前は関わっていないな?」
フィリアスの問いに、影はその場に跪き血痕を愛おしそうに指でなぞる。
「俺がセリアルカを傷付ける訳がない」
マスクの下から聞こえた声は、深い水底からふつふつと湧き出すような静かな怒りに満ちていた。
「犯人に目星は?」
「まだだ。女子更衣室は香水の臭いで鼻が曲がりそうだった。あれでは痕跡が辿れない。……だが必ず見つけ出す」
「……犯人は同類だと思っているのか?」
同類。その言葉が気に入らなかったのか、影はゆっくりと顔を上げた。
「もしそうなら、俺がそいつを八つ裂きにしても文句は言わせない。これが俺たちの仕事だから」
フードの奥から金色の双眸が覗く。狂気に見開かれた目は、フィリアスを含む全ての人間の介入を拒絶していた。
「人間の中で生きるのなら人間の法に則って裁かねばならない。勘違いするな。逸れ狼を狩るだけがお前の仕事じゃない。人間の中で懸命に生きようとしている者を守ることも大事な仕事だろう?」
例えば、セリアルカのような。
影は俯いて納得いかなそうに首を振る。
「何かわかったら報告しろ」
そう告げて、フィリアスは闘技場を後にした。
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