温室の狼

15 赤い牙

 木漏れ日のような暖かな光が頬の傷を撫でる。ちょっと、くすぐったい。今はもう痛みを感じないけれど、傷は結構深かったみたいだ。獣人は人間より回復力が高いとはいえ、目立つ場所だし痕が残ったら、父さんがびっくりしてしまうだろう。

 以前、バラの棘で指を引っ掻いた時、アルファルドに治してもらったことがあるので、今回も大人しく頼ることにした。


 握り締めた手の甲を、オリオンが励ますように舐めるので、大丈夫だよとモフモフした頭を撫でた。オリオンは悲しげにきゅーんと鳴きながらすんすん鼻を鳴らして私の膝に顎を乗せる。ずしりとした重みを感じながら、オリオンの背中を撫でていると不思議に心が落ち着いてきた。


 やがて、アルファルドの手が私の頬から離れたので、ゆっくり目を開けると、相変わらず険しい表情のアルファルドは、私の頬に薬を塗って大げさなガーゼを貼り付けた。


「……これも樹の魔法?」


 じとっとした半眼で聞けば、彼はガーゼを貼った上から頬を押さえる。


「そうだよ。しばらくは鏡を見る度に反省するといい」


「私は何も間違ったことはしてない。みんなに心配をかけたのは申し訳ないと思うけど……」


 冷静になれなかったのは事実で、そこはしっかり反省する。でも……。

 理不尽に他者を傷付ける者を許すなんて無理。剣は騎士の命だ。自分の命の危機に、黙って泣いていろとでも言うの?

 ガーゼを剥がそうとする私の手をアルファルドが強く掴んだ。苛ついているのか、いつもの彼とは別人のようだ。


「魔法で治した所は傷が開きやすいんだ。二、三日はそのままだ。いいね?」


 そう言って、血の付いたガーゼやコットンを屑籠に投げ捨てる。その不貞腐れた態度に、私もせっかく冷えてきた頭がまた沸騰しそうになる。

 私の膝に顎を乗せていたオリオンは、不穏な気配を察知したようで、耳をぺたんとしてアルファルドと私の顔を交互に見比べて不安そうにくーんと鳴く。


「……戻れ、オリオン」


 アルファルドが命じると、オリオンは慰めるように私の頬に顔を擦り寄せて、アルファルドの影の中に溶けるように帰った。

 気まずい。帰りたい。でも、アルファルドはまだ解放してくれない。


「君は何も間違ったことはしていないと言うけれど、君がただの人間だったらそうだろう。僕だってそもそもこんなに君に惹かれたりはしなかった」


 アルファルドは私の隣に腰掛けて、ネクタイを取って、首元から胸にかけてのシャツのボタンを外す。


「あれだけ大勢の前で血を流して大丈夫だと思ったの? いくら薬で抑えたって、血を流したら意味が無い。狼男は鼻が利く。君の正体がバレたかもしれないんだよ?」


『この学院には俺が知っているだけで四人の狼男がいる』


 フィリアスの声が脳裏をよぎる。

 ――四人も、居るんだ。


「それ、は……」


「考えもしなかった。って顔だね? そうやって隙だらけだからこういうことになる」


 肩を掴まれた瞬間、ベンチに押し倒されて視界がぐるりと回る。私は何が起きたのかわからずに目を瞬いた。唇が重なりそうになって、咄嗟に手で彼の口を塞ぐ。


「な、これ、どういうつもりだ?」


 裏返った私の声は、追い詰められた子犬みたいに頼りない。

 私たちは今すごく真面目な話をしていた筈で、私は懇々とお説教されていた筈で。まさかそのタイミングで、こんな男みたいな狼女に欲情しないでしょう?

 彼は鬱陶しそうに私の手を掴んでベンチに抑えつけて、混乱する私の耳朶に口付ける。


「噛んで。今すぐ」


 耳元で囁かれた言葉に、私は思考停止した。


「………………は?」


 自分のシャツを捲って首筋を曝しながら彼は言う。


「さぁ早く」


「いや、ちょっと待って! 自分が何を言ってるかわかってる!?」


 健康的で血色の良い美青年の首筋がすぐ目の前にあるけれど、私は吸血鬼ではないし、そういう趣味は無い。

 噛み癖の無い善良で躾のできた狼なのであってですね、こういうのは対応に困るわけです。


「僕を君の眷族にしろと言っている」


「わかってるけどわかってない! 私が噛んだら君は狼男になるんだよ!?」


「僕はもう何年も前からそう願っている。君に噛まれるということは、君がつがいに選ぶということ。……セラはずるい。フィリアスとエルミーナに本当のことを言わなかったね?」


 混乱に乗じて私の太腿を這う彼の指を払い退けると、私は彼の胸を押して身体から引き剥がした。


「本当のこと? 私は正直に話したし、二人は私の思いをわかってくれた」


 テーブルの上の鋏に手を伸ばした私を押さえつけてアルファルドは嗤う。「セラはずるい」と繰り返す。現実を突き付けるように、憐れむように、でもどこか楽しくてたまらないというように。


「噛み付いて赤い牙が抜ければ、フェロモンの分泌が減る。君は狼男に狙われにくくなる。知らなかったなんて言わないで? 君のお父様が僕と早く婚約させたかったのは、君の牙を抜きたかったからだ。もっと早くにそうするべきだった。君が嫌がったりしなければ……」


 母さんは殺されずに済んだとでも言いたいのか?

 心が、体温が急激に冷えていくのを感じた。


 もちろん、牙が抜ければフェロモンが収まるのは知っていた。でも、私は結婚する気も番を選ぶ気も無いから、その線はないと思っていた。

 アルファルドは、フィリアスが知ったら合理的に考えて、私に婚約者を噛めと命じるだろうと思っているのかもしれない。そこにはフィリアスが持つ誠実な優しさも、私の希望も全く斟酌されていない。

 本来は、一生を添い遂げる相手を一族に迎え入れるための厳格な儀式を、ただの手段と捉えている。


 怒りよりも嫌悪が勝って吐き気がした。


「……だからね、今しよう? そうすれば君は狼男に狙われなくなるし、僕は名実共に君の婚約者になれるわけだし?」


「……」


 口では私のためと歌いながら、自分の目的を果たすためなら手段を選ばない。平気で私の心の傷に踏み入ってくる。怒りの次は嫌悪。嫌悪の次には……悲しみが来た。


 ――あの、手紙の中の優しいアルファルドはどこへ行ってしまったのだろう?


 私に会わなければ、アルファルドは優しいままでいられたのかもしれない。私の――狼女の――存在が、アルファルドの心を歪めたのかもしれない。


 言葉を失い抵抗をやめた私を、アルファルドは不思議そうに見つめる。私の頬を両手で包み、心を探るように目を覗き込んだ。

 そんなことで私の心が見える? もし見えるのなら、私自身にもわからないこの思いの名前を教えて。


「違う。そんな目で見ないで。僕は、ただ……」


 きっと私の目の中には失望に似た何かが見えたのだろう。アルファルドの見開かれた瞳は落ち着きなく揺れて、叱られた子供のように萎縮している。


「そんなに狼男になりたいの?」


 私は緩慢な動作でベンチから起き上がって、彼を見据える。その胸ぐらを掴んで引き寄せると、彼の首に腕を回して鎖骨に顔を埋めた。


「狼男になるのが目的じゃない! 君は誤解している!」


 彼の腕が背中に回って、強く抱きしめられるのを感じた。アルファルドの心は歪んでいる。でもその根底には、どうしようもない執着があるように思う。それを好意と呼んでいいかどうかは、私には分からない。


「……牙が抜ければ、君は他の男を選べない。僕には君が必要なんだ。優しい君は、君のせいで狼男になった僕を見捨てないでしょう?」


「それは買いかぶりすぎだと思う。……どうして、私なの?」


 ずっと思っていた疑問を口にした。私は指で彼の首筋をなぞり頚動脈の位置を探った。

 お望み通り噛んでやろうと思っていた。続く彼の言葉を聞くまでは。

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