第九章 蝶が見た夢
第九章(01) 先程の魔術師達と対立しているというのなら
歪な悲鳴は、身の毛がよだつほどのもので、しかし確かに弱っていた。
腐臭のする黒い血の海、巨大な蠅が暴れ狂っている。羽を破かれ、脚の何本かも切り落とされ、転がっている。いまだ起き上がろうと、もがいている。
「全く……しつこい奴だ」
『風切りの春雷』騎士団、その隊長であるネトナは、腐ったような血の臭いもその黒さに汚れることも厭わず、グレゴの血の海の中に立っていた。巨大な剣を片手で振り下ろせば、熊以上に大きな蠅の身体に、深い一筋をいれる。吹き出した漆黒の血が青空まで飛び散る。
この怪物の正体が、元は人間だったとしても。
こうして傷つけ、捕まえなくてはいけなかった。
「――うわっ、まだ再生するよ、こいつ!」
戦場となったのは、広い草原だった。グレゴから少し離れたところ、騎士団の副隊長であるエヴゼイが顔をしかめる。そして大きく手を振って仲間に指示を出せば、奇妙な魔法道具を担いだ騎士団員一人が前に出る。
彼が担いでいる魔法道具は、大砲に少し似ていた。グレゴへ狙いを定めれば、魔法道具からは、流星のような光が発砲される。グレゴの身体に命中する、めり込む。
撃ち出したのは、魔法薬だった。グレゴの漆黒の巨躯に突き刺さり、魔法が展開する。作用する――暴れもがいていたグレゴの動きが、緩やかになる。
「もう一発入れておこうか~!」
エヴゼイが声を響かせれば、二発目の魔法薬が放たれる。怪物の短い悲鳴が上がって、ようやく醜悪な姿をしたそれは、眠るように動きを止めた。
「――パウに魔法薬を複製してもらっていなければ、どうなっていたか」
それからしばらくして、グレゴは騎士団に捕獲された。動きを止めた巨大蝿は、しかし死ぬことはない。
「こちらの被害は、どれくらいだ?」
グレゴが台車に載せられていく様を眺めていたネトナは、自身の騎士団へ振り返る。先程の戦いで怪我をした者達が、手当てを受けていた。
「以前よりは多くありません! 激しい戦いでしたが……なんとか」
治療にあたっていた仲間の一人が答える。それを受けて、ネトナは再び、グレゴへと視線を向けた――エヴゼイがグレゴを載せる仲間に、指示を出している。
確かに激しい戦いであったが、怪我人がそういなかったというのは、幸いだと、ネトナは思う。
……パウが複製したグレゴ鎮静魔法薬があっての、成果だと言える。
捕獲したのなら、急いで動かなくてはならない。なにせ自分達は、このグレゴを『遠き日の霜』の手に渡らないようにするのが目的なのだから。
ここに残ったままでは、いずれ奴らが来るだろう。その前に移動し、パウ達と合流しなくてはならない――。
あれが終わったら、エヴゼイに彼らと連絡を取らせるか。そう思った時だった。
不意に、辺りが暗くなった。空に雲がかかったというよりも、影そのものが、この辺り一帯にのしかかって来たかのように。
反射的にネトナは身構えたが、襲われたのは――グレゴを扱っていた騎士団員達だった。
――空から光が降って来る。稲妻にも似た、激しい光。騎士団員達が衝撃に吹き飛ばされる。エヴゼイの姿もそこにあって、地面に転がる。
考えるよりも先に、ネトナは走り出していた。直感で察した、何が狙われているのか。
グレゴだ。
「くそっ」
駆け出したネトナだが、目の前に光り輝く半透明の壁が現れたために、退かなくてはならなかった。
――光の壁の中、グレゴの周りに、見慣れない者の姿がある。グレゴを取り囲み、手を伸ばし、魔法陣を出現させている。それを見守る、黒髪の男の姿もある。
魔法陣に囲まれたグレゴの姿が不意に消える。続いて、囲んでいた者達も、一人一人、姿を消していく。
「ユニヴェルソだ……!」
エヴゼイの悔しさを滲ませた声が聞こえた。
上空に浮かぶ、巨大な影。その正体は彼の言う通り、巨大魔力翼船だった。
「――プラシド様、彼らはどうします?」
魔法の壁の内側、一人が、黒髪の男に尋ねる。プラシドと呼ばれ彼は辺りを見回して、
「奴らには消えてもらう。それから――例の魔術師と青い蝶を探し出せ」
――言葉の直後に、いくつもの電撃が騎士団に降り注いだ。蛇のように騎士団員達を捕らえ、悲鳴を上げさせる。稲妻が相手では、剣で対抗しようにもできない。
「我々を、甘く見てもらっては困る!」
雷撃を避けて、ネトナは魔法の壁に向かって剣を振るった。しかしその剣をもっても、壁を砕くことができず、再び迫ってきた雷を避けるためその場を飛び退くほかなかった。
「教えてもらおう、パウという魔術師と、蝶型グレゴはどこにいる?」
魔法の壁の中、プラシドが目を鋭くさせる。
――けれども、まるで我に返ったかのように、その目が大きく見開かれる。
空が更に暗くなった。激しい風が吹く。人間こそ、その風は飛ばさなかったが、あたかも喰らうかのように稲光を巻き込み、蹴散らす。
見上げて、ネトナは隻眼を丸くした。焦りに汗が一筋流れた。
自体は、最悪の状態に陥ったかもしれない、そう考えて。
――ユニヴェルソとは違う、別の魔力翼船が、はるか上空に浮かんでいた。
あれも敵の船なのか。ネトナは歯ぎしりをしていた。剣を握る手に、力が入る。
どうするべきか。ここでグレゴを横取りされ、こいつらに逃げられるのは困る。だがいまの魔法で、仲間はいったい、何人倒れた? 勝算はどれくらい残っている? 立ち向かったとして、どこまでやれる?
やらなくてはいけないことがあるのは、十分にわかっている。だが状況を見て撤退の指示を出さなくてはいけないのも、隊長の使命の一つでもあった。
ところが。
「――悠長にしてはいられなくなったな」
声が聞こえたかと思えば、光の壁の中、残っていた魔術師達全員の姿が消えた。続いて光も消える。
掴むものも何もなく、捕まえることもできない。ネトナがユニヴェルソ号を睨み上げれば、その巨大な紡錘形の姿は明滅し、揺らめいていた。やがて、消えてしまう。上空に、青空が戻って来る。気配も何も、残されていない。
逃げられた、と思うものの、そちらに気を向ける余裕はまだなかった。
後からやって来た魔力翼船が、こちらに近付いてきている。
「お前達、剣を握れるか!」
ネトナが声を響かせれば、無傷の者何人かが剣を握り直した。心許ない数ではあるが――いまの襲撃で倒れた仲間を助けつつ逃げるには、足止めが必要だ。もう簡単には逃げきれない。
プラシドの様子からして、どうやら彼は、あの船から逃げたらしい。とすると、あの船は彼ら『遠き日の霜』の船ではないのだろうか。そう考えるものの、ネトナは船を睨んで離さない。あの正体不明の船が味方であると、決まったわけではない。
魔力翼船が近付くにつれ、影が濃くなる、大きくなる。
「隊長……あれ……」
やがて一人か気付いて、怖気に剣の切っ先を降ろしてしまった。
――迫ってきていたのは、ただの魔力翼船ではなかった。ただの魔力翼船にしては、大きすぎる。巨大すぎる。
その翼、その船体の装飾――色こそ違うが、ユニヴェルソ号によく似ていた。
デューの傑作、巨大魔力翼船ユニヴェルソ号は、双子の魔力翼船。
片割れの船の名を、ディアスティム号という。
『――あなた方が、巨大蠅を退治して回っているという、騎士団ですか』
空から声が降ってきた。決して轟くようなものではなく、頭の中だけに響くような、だがその場にいた全員に聞こえる声だった。
『ユニヴェルソに隙ができたために、攻めようと思いましたが……なるほど、奴らは、あなた達に気を取られていたのですね……結局、逃げられてしまいましたが』
女の声だった。ネトナが空に声を轟かせる。
「何者だ! 奴らの仲間ではないのか!」
『ああごめんなさい、申し遅れましたね……私はカーテレイン』
ゆっくりと、魔力翼船が着地体勢に入る。
『そちらには、怪我人が多くいるようですね。治療いたします。そしてあなた達がグレゴを捕獲する騎士団であり……先程の魔術師達と対立しているというのなら、私達と一緒に来てください。そして、知っていることを教えてほしいのです。彼らについて、グレゴと呼ばれる怪物について……私達はいままで、逃げ延び、立て直すだけで、精一杯でしたから』
――アニスト村が怪物によって燃え上がる、二日前の出来事だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます