第七章(04) 私は……オリヴィア
ミラーカが進む先、緑の木々の向こうに、暗闇が見えてきた。洞窟だ。パウとメオリは自然と足を止め、言葉なく見合う。
恐らくあそこに。と、よくみれば、洞窟の前に人影があった。
一人の若い女だった。籠を提げて、その質素な服装から、このあたりの人間だろうと予測できる。
すぐに動いたのはメオリだった。
「すみません、あなたは? ここは、危ないですよ――」
そう小さく声をかけながら寄れば、女が振り返った。急に声をかけられて驚いたのか、彼女は目を大きく開いて、
「来ないで!」
次の瞬間には、鋭く叫んだのだった。
彼女の様子は明らかにおかしかった。
「俺達は……旅の魔術師だ」
パウが説明するものの、女は全く聞く耳を持たず、洞窟の傍に転がっていた長い枝を手に取ればぶんと振った。
「来ないで! あっちに行って!」
思わずパウとメオリは一歩退く。安易に魔法で傷つけるわけにもいかなかった。彼女が何者であるのかわからない。
「ここにいる」
と、彼女の背後を見れば、いつの間にかミラーカが回っていて、洞窟の方を見てふわふわと羽ばたいている。
とすると、この女はもしかして操られているのか――パウは女と睨みあいながら考える。グレゴが人を操る、すでにゼフタルクで見てきたではないか。
それにしても、やはり木の枝を構える女の様子は妙だった。ひどく怯えた様子で、困惑している。
「……その人達は、きっと、悪い人達じゃ、ないわ」
不意に聞きなれない声がした。少したどたどしくも思わるその声は、不気味な響きを纏っていたものの、どうしてか悪意は感じられなかった。
羽ばたいていたミラーカがはっとしたように一瞬羽を止めて、木の葉のように落ちていく。我に返ったのか、パウの肩へ戻ってくる。
「オリヴィア!」
女が振り返り、洞窟へ叫ぶ。
洞窟の闇が揺らいだ。陽の光が柔らかに差す外に、巨大な何かが這い出てくる。
近くの鳥が羽ばたいて逃げる。茂みに隠れていた兎も走り出し、ところが彼らは、距離を置いたところで、洞窟から現れた闇を見つめる。
「……グレゴ」
気付かないうちに、パウはそれを見上げて呟いていた。
現れたのは、カマキリに似た巨大な何かだった。獣のような口と、巨大な黒曜石のような瞳のある頭。鎌になった前足一対。腹にあたる部分を見れば、桃色を帯びていた。
間違いなくグレゴ――それも恐らく、共食いをし進化したグレゴだった。
ところが。
「こんにちは、私は……オリヴィア」
彼女は名乗る。それは何かの真似ではなく、自身の意思で。
巨大なカマキリは、パウの肩にとまる青い蝶を見据えていた。
「あなたも、なのね」
* * *
「この子はサリタ。近くの、アニスト村の子で、友達、なの」
オリヴィア、と名乗った進化したグレゴは、最初に木の枝で威嚇してきた女をそう紹介した。サリタはパウとメオリを警戒したままで、未だに木の枝を持っている。
一方、パウとメオリも警戒したままだった。目の前にいるのはグレゴで間違いがなかった。風が吹けば木漏れ日が揺れ、鳥の鳴き声が運ばれてくる。獣の足音も聞こえ、森の中は温かく穏やかだった。だがグレゴの漆黒と、その巨大な口は紛れもなくそこにある。あたかも奇妙な夢にも思える。いい夢なのか、悪夢なのかもわからない、奇妙すぎる夢だ。
「あなた達は……?」
カマキリに似たグレゴは、その複眼で二人の魔術師を見下ろす。どうしたらいいのかわからないパウに代わってメオリが前に出た。
「私は……メオリ。こっちはパウと、ミラーカ……」
けれども彼女も、まるで言葉が通じるのかどうか試すかのように戸惑っている。
「お前は……グレゴ、なのか?」
「グレゴ……?」
オリヴィアは首を傾げる。獲物を狙っての動きではなく、まさに人間のような仕草だった。尋ねるようにサリタを見るが、サリタも頭を横に振る。
「よくは、わからないわ……でも、なんだか懐かしい気がする……」
「一体……一体どういうことなんだ?」
メオリはパウへと、半ば叫ぶように尋ねる。しかしパウにもよくわかってはいなく――否、反射的に考えることを否定してしまって、顔を青ざめさせていた。
けれども。全てを受け止めると、決めたから。
胸中で滲み出た恐怖が消えていく。
――グレゴとは、元は人間だ。
彼らは人の姿から怪物の姿にされてしまった者達だ――自分の研究の成果によって。
「……オリヴィアと言ったが、その名前は?」
パウは巨大な影を見上げる。対してオリヴィアは、
「私の、名前よ。こんな姿に、なる前の……ああ、私は、元々人間だったの」
「……記憶が、あるのか」
やはり、そういうことなのだ。
彼女はミラーカと同じ。人間だった頃の記憶や心を取り戻したグレゴだ。
パウの言葉に、オリヴィアはまるで手で口を覆うかのような仕草を見せた。しばらくの間固まって、やがて気付いたかのようにサリタを見れば。
「サリタ、そろそろ帰らないと、じゃない?」
「えっ、でもオリヴィア、この人達……」
「大丈夫よ、ほら、だって、いまだって。それよりも……あなた、早く帰らないと、みんなが心配してしまう、わ」
そう言われたものの、サリタはパウとメオリを睨みつけて、そしてまたオリヴィアにごねるように言い返す。対して、オリヴィアは大丈夫だから、と繰り返すのだった。
オリヴィアとサリタのやりとりはしばらく続いた。魔術師二人の目には、そのやりとりは喧嘩をしているというよりも、仲がいいからこそ衝突しているように見えた。
「サリタ……ごめんなさい。あなたは、早く帰ったほうが、いいわ。それに、私は、この人達と、少し話がしたいから……」
やがてオリヴィアが懇願すれば、ようやくサリタは納得したようだった。
「オリヴィアに何かしたら、許さないからね! 騎士団や傭兵に悪者だって言ってやるんだから!」
サリタの胸元で、白い石のついたペンダントが跳ねる。そうして、ようやく彼女は去っていったのだった。
「……ごめんなさい、あの子、私を心配している、だけで……でも、聞かれたくない話かも、と思って」
ほどなくして、改めてオリヴィアは二人の魔術師と、青い蝶を見下ろす。
「あなた達は、私について、何か知っているみたい、ね」
「……お前が元人間だったことも、芋虫の姿だったが蠅の姿になったことも……」
パウが唇を舐めて答えれば、サリタはわずかに身を低くした。
「芋虫と……蠅……少しだけ、憶えてるわ……あまり思い出したくない……」
「思い出したくないことは思い出さなくていい」
メオリが凛とした声で言い放つ。オリヴィアは静かに頷いた。メオリは続ける。
「ただ、どうして蠅からいまの……その、失礼かもしれないけれど、そのカマキリみたいな姿になったのか教えてほしい……共食いをすると進化するって、パウから聞いたけど」
「大きな蠅、を食べたのは憶えてる……その後、身体がおかしくなった、ことも……」
「食べた蠅は、一匹?」
問いにオリヴィアは頷く。次はパウが尋ねる。
「その時に……記憶も戻ったのか?」
その質問には、オリヴィアは頭を横に振った。
「私が、私に戻ったのは、サリタに出会ってからよ……あの子の『白月のペンダント』を見てから……」
そのペンダントについて、パウはよく知らなかった。と、今度はオリヴィアが尋ねる番だった。
オリヴィアは鎌をゆっくりおいて、巨大な複眼に、どこか柔らかさを宿しながら言ったのだった。
「あなた達は、もしかして、私を退治しに来た……?」
パウとメオリは、すぐに答えられなかった。
そのつもりできた。そのために来たのだ。
しかし彼女は、こうも話し、こうも心を持ち――紛れもなく「元人間」だったのだ。
「蝿の頃に、ひどいことを、いくつもしたから」
答えられずにいたものの、サリタは見抜く。するとミラーカがふわりと舞い上がって。
「あなたを食べにきた」
「――待ってくれ! 私には……私には、何が正しいのかわからない……」
ミラーカを制するかのように、メオリが叫ぶ。幸い、ミラーカにその意思はなかったらしく、ただパウの周りをふわふわと羽ばたいていた。
パウにも、どうしたらいいのかわからなかった。
彼女はグレゴで。けれども記憶と人の心を取り戻していて。
姿は紛れもなく怪物だが、ミラーカと同じだ……。
「お前は、もう人を襲う気はないのか?」
とりあえずは確認してみる。もし無害なら、それでいいのではないだろうか。
しかし、ミラーカは許すだろうか。
力を求めてグレゴを喰らう彼女は、オリヴィアを見逃すだろうか。
「ないわ」
オリヴィアの答えは。
「……でも、してきた。どうしようもなく、してきた」
漆黒のカマキリの身体が震える。まるで泣いているかのようだった。だがやがて止まり、
「けれども、あなた達は、私を迎えに来た、のね……よかった」
変わらず不気味な声だったが、深い安堵が溶け込んだその声は、光を前にしたようだった。
風が吹いて、木の葉を舞い上がらせる。静かな森は、どこまでも穏やかだった。
「私達は、共食いによって、死ねる、のかしら。もしその子が私に、死を与えられるというのなら、私は喜んで、食べてもらうわ」
オリヴィアは、決して鎌でミラーカを指さすようなことはしなかった。
「死にたくても、死ねないの。だから……私は、終わりにしたいの」
ただ非常に落ち着いて、そして心穏やかに、青い光を見据える。
「……いまは私でいられる。でも……不安、なの、また忘れるんじゃないかって」
しかしオリヴィアのその言葉は、自ら死を選ぶ、そのことに違いなかった。
そして自分達が彼女を殺すということでもあり、パウはさらに困惑していた。
「それで……それでいいのか!」
「ええ……いますぐ、じゃないわ。サリタの結婚を、見届けてからに、してほしいの」
そういう意味で尋ねたわけではなかったが、不意にそんなことを言われてしまえば、パウはきょとんとしてしまう。
結婚式を、見届けてから?
「あの子のペンダントを見て、心を取り戻したの」
巨大なカマキリは、彼女の去ってしまった向こうを見つめる。のどかな村が、木々の隙間から見えた。
「私も……結婚式を、前にしていたから……あの子の、結婚式を挙げた証のペンダントを、見たい」
カマキリに表情はない。どこまでもそれは怪物の顔だった。
だが、確かにオリヴィアはその時、微笑んでいた。
「きっと、それで、報われるから」
そこにいるのは、間違いなく、一人の女だった。
――ぴい、と甲高い声がする。シトラの声だ。そして草木を分けて進む足音が。
「なんでこんなところに移動してんだよ……ちょっと寂しくなっただろ」
アーゼだった。サリタがいなくなった後、シトラを元の待機場所に送って、アーゼが戻り次第ここに案内するよう、メオリが指示を出していたのだ。
オリヴィアの姿を見て、すぐさまアーゼが剣を抜いた。しかし同時に、パウとメオリが制する。
「落ち着け……このグレゴは……攻撃してこない」
「オリヴィアっていうんだ、人間の頃の記憶があるみたいなんだ」
「……えっ? ええ?」
アーゼはひどく不可解だという顔を浮かべる。最初、自分もこんな顔をしていたのだろうと、パウはふと思ってしまった。仕方がない、まさかそんなグレゴがいるなんて、自分も想像していなかったのだから。
「こんにちは……オリヴィア、です」
オリヴィアは淑女のように名乗り、かすかに身をかがめた。その姿にまるでスカートの裾を持って挨拶する女を彷彿させたが、オリヴィアは自らの鎌が武器であると知っているらしく、腕を一つも動かさなかった。そうして敵意がないことを伝える。
アーゼは口をぽかんと開けて彼女を見上げていた。
「アーゼだ……お前は、いいグレゴなのか? いや、なんか、悪い言い方をしたな……」
――次の瞬間、申し訳なさそうな顔をしたアーゼの顔が、凍りついた。瞳を大きく開いて、何かを見つめる。
「……あなた、は」
同時に、オリヴィアも何かに気付いたかのようにアーゼを見つめて、
「い、いえ……何でも、ない、わ」
つと顔をそらしたものの、アーゼは何かを見つめたままだった。
そうしてパウも、ようやく気付く。アーゼが見ているものについて、ちらりと見えたオリヴィアの背に、何かがあることについて。
――肉に埋まり、また覆われつつあるようだが、剣の柄らしきものが、そこに見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます