第七章 霖雨の花畑

第七章(01) あいして、いた、のに

 青い花畑は風に揺れ、海を思わせた。よく晴れた空の下、まるで雨上がりのように青色は輝いている。

「嘘……来ないで……」

 その美しい景色の隅、震えて立っていたのは、一人の女だった。大きく開かれた茶色の瞳からは、恐怖にじわりと涙がこぼれる。

 瞳に映るは、巨大な影。茶色の毛皮。がっしりとした四肢。うなり声が漏れる、牙のある口。

 巨大な熊が、彼女を睨みつけていた。

 ――森に熊が出るとは聞いていた。だから森を抜けて花畑へ向かうのなら、気をつけろと村で言われていた。

 最近では「巨大蠅」も出た、なんて噂も村周辺にはあったが、それもきっと熊だろうと考えられ、とにかく外に出るならば、村からあまり離れるなと、彼女は言われていたのだ。

「ひっ」

 彼女が声を漏らせば、熊はぴくりと動く。その瞬間、女は背を向けて走り出してしまった。子鹿のように震えていた細い足をなんとか動かし、質素なワンピースの裾を翻させる。茶色の長い髪が乱れようとも気にしている暇はない。

 走り出した彼女の背を見て、熊も走り出す。その巨体からは考えられないほどの速度で距離を縮める。

 背後に熊の息遣いを感じて、女が思わず振り返る。そのとたん、足がついにもつれてしまって、彼女は尻餅をついてしまった。提げていた編み籠を落としてしまい、森で採った茸や実が転がり出る。摘み集めた青い花もはらりとこぼれる。

 女に熊の大きく濃い影がかかる。青空が闇に包まれたかのようだった。

 しかし次の瞬間響いたのは、彼女の悲鳴ではなく。

 ――それは奇妙で、ひどく耳障りな音だった。あたかも枯れ井戸の深淵から響いてくる虚しい音のようで、しかし何千もの羽虫の蠢きを伴ったかのような音。声。

 女の目の前を、熊の影よりもさらに濃い影が横切り熊をさらった。縁に淡い桃色を帯びているが、漆黒と合わさり毒々しさを思わせるその巨大な影。ひっくり返った熊が、まるで泣き叫ぶ赤子のようにもがいていた。

 ばきり、と鈍い音が響けば、熊はがくがくと震えて、やがて動かなくなる。そして漂うのは鉄に似た臭い。ぐちゃぐちゃという不快な咀嚼音。ぽつぽつと青い花が咲いていた草地に、赤黒い液体が飛び散る。

 女は尻餅をついたまま、動けずにいた。やがて我に返り、震えながら起き上がろうとするものの、ままならず、再び尻餅をついてしまって「あっ」と声を漏らす。

 蠢くようにして熊に食らいついていた巨大な影が、振り返る。

 黒い影の正体は、虫のような巨大な怪物だった。口こそ、まるで獣のような形で牙もあるものの、大きな双眸と背にある薄い羽はまさしく虫のもの。胴と後方二対の足は細く、紡錘形の腹は先に桃色を帯びていて、まるで尾のようにも見える。そして前にある一対の足は、鎌になっていた。いまは血と、自身の唾液にまみれて輝いている。

 カマキリに似た、巨大な何か。振り返って女へと進むその背後、骨も砕かれ喰い散らかされた熊の死体が転がっていた。鎌や口からひたひたと血が滴る中、女は未だに動けない。ただ声ももう絞り出せず、恐ろしい何かが目の前に迫ってくるのを待つことしかできなかったのだ。

 そして今度は、カマキリの巨大な影が女に覆い被さる。鎌から落ちた血が、彼女のワンピースに染みを作った。その血は女が身につけていたペンダントにも滴る。白い石が、赤色にまみれる。

 それでも、ペンダントの石は輝いていたのだ。

 その輝きに貫かれたかのようにして、カマキリが身体を上げた。鎌を震えながら動かし、もの言いたげに、涎を垂らしながらも口をぱくぱく動かす。

 異変に気付いた女は、それでも逃げられず、瞬きをしてカマキリを見上げていた。

「――ゥゥウア、ア、あ」

 やがて。

「ア、あ、し、しら、つ、き……」

 まるで長いこと言葉を話していなかったものの、いま、ようやく言葉を紡ごうとするかのように。

「しら、つきの……ぺんだん、と……」

 声は人間のものではなかった。まさにその風貌にふさわしい、奇妙で恐ろしい声だった。

 それでも、カマキリは人の言葉を発したのだった。

「あいして、いた、のに」

 カマキリはまるで人間であるかのように頭を振り、女から離れ、背を向けてしまった。

「けっこんしき……あした、だった……!」

 不気味な旋律のような嗚咽が青空の下に響いた。風が吹けば、青い花弁が無邪気に漂う。

 カマキリの巨大な複眼から、黒い液体が漏れ出ていた。草地に滴れば、じゅう、と音がして青草は瞬く間に溶けて漆黒のどろどろした何かに変わり果てる。腐敗臭がにじみ出る。

 そこにいたのは、もはや恐ろしい何かではなかった。慟哭し、震える何かだった。

 女はようやく立ち上がる。彼女はまだ逃げなかった。あたかも人間のように悲痛に泣き叫ぶカマキリを見つめていた。

 彼女の胸元で、ペンダントが輝く。ついていた血が流れ落ちれば、美しい白色が太陽の光により輝いた。

 ――そのペンダントは「白月のペンダント」と呼ばれるものだった。フィオロスの『白の花弁』地方、その一部のある風習で扱われる。

 結婚式を前にした女が身に着けるペンダントであり、晴れて式を迎えた日、表面に金の紋様を刻むことによって結ばれたことを示すものだった。

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