第五章(10) 知らない!


 * * *


 空の青色は、海の青色とはまた違う。その中を、まるで巨大な魚のように進む影が見えてきた。

「見えてきた……!」

 メオリの後ろ、シトラに乗ったアーゼは、横から頭を出す。その声に呼応するように、四足の鳥の獣は、翼を大きく羽ばたかせぐんと進む。

「よしよし、追いついた……けど、ここからどうしたものか……」

 不意にメオリが険しい顔をする。パウを乗せた船はもう目の前にある、明るい顔をするべきだというのに彼女が急に悩み始めたものだから、アーゼは首を傾げる。

「何か問題があるのか? あの船に乗り込んで、パウを見つければいいだけの話だろ?」

「……簡単に侵入できたらな」

 巨大な魔力翼船ユニヴェルソ号。魔法陣の翼は、風を纏って先を泳いでいる。

「ユニヴェルソはただの魔力翼船じゃない。技術の結晶だ、あらゆることに備えて、あらゆる技術が詰まってるって師匠が言ってた……あれは、魔力の盾に覆われているんだ、外からの攻撃に備えて。そして外敵を侵入させないために」

「このシトラじゃ、入れないってことか?」

「なんでこんな話をしてるのか、あんたはわからないのか?」

 シトラは魔力翼船から一定の距離を保ったまま、飛び続ける。

「……ま、入れなくはないけど。でも侵入できたとしても、あの船は敵陣だ、どこかにいるパウを急いで見つけ出さなくちゃいけないし、素早く脱出しなくちゃいけない……何より、ベラーがいるんだろう、あの船」

 グレゴの話こそ、アーゼは部分的にしかメオリに話さなかった。残りはパウ本人が話すべきことだとして。けれども、今日、パウに何が起きたのかについては全て話していた。

「どんな魔術師も、ベラーを相手にしたくない。その中でも特に私みたいな使い魔を使役する魔術師にとって、奴のあの黒い水晶は恐怖でしかない……そもそもそれ以前に、ベラー以外の魔術師も乗ってるはずだ……」

 隠密に侵入するのは不可能だと、メオリは気付いていた。魔力の盾があってもなくても、あの船に忍び込むには、船体に穴をあけて入る必要があるだろう――外壁を攻撃されたのならば、相手はすぐに気付くはずだ。

 パウがあの船のどこにいるのか、それがわかっていたのなら。そこへの最短ルートとなる穴をあけてパウを救出、素早く脱出できるのだが。

「――お、おい! 待て!」

 唐突にアーゼが慌てたような声を上げた。とっさにメオリが振り返れば、アーゼのポケットから、青い蝶が抜け出そうとしていた。ついにするりと抜け出して、煽られるようにしてぶわりと宙に舞い上がる。

「ちょっと!」

 メオリの声は悲鳴に変わる。ここは空。しかもシトラに乗って空を飛んでいる中だ。離れてしまった青い蝶は、宙に置いていかれる。

 ところがその次の瞬間――世界が凍りついた。

 まるで時間の流れが凝り固まってしまったかのようで、メオリとアーゼは息を呑んだ。風が止む。空の青色が失われる。魔力翼船も白黒と化す。音も温度も消え失せ、まるで世界は白黒の絵画となる。

 その中で、色を纏ったものがたった一つ。

「あそこ」

 唯一、ふわふわと普段通りに羽ばたく青い蝶は、シトラの隣まで戻ってくる。その翼がより一層強い輝きを帯びて、青色が弾ける。

 空の色とも、海の色とも違う青色。

 シトラの前に、まるで広がるかのように青い花の道が生まれた。蛇のように伸び、魔力翼船へ進む。青い花は生まれた瞬間こそ、蝶と同じ輝きを宿していたものの、咲き誇るのは刹那のみ、直後にどろりと溶けて消えていく。

 けれども泡沫の道は魔力翼船に迫り、その盾を突き破った。波打って、船を包んでいた球体が一瞬だけ姿を現し砕けていく。そしてついに青い花は外壁に衝突し、そこで果てた。

「パウ」

 蝶が呼ぶ。

「いま行くわ」

 少女が囁く。

 ――弾けるようにして、空の青色が戻ってきた。音も、冷たさも。時が滑らかさを思い出す。

 驚きに目を丸くしていたシトラが、小さな悲鳴を上げて我に返る。うっかりしていたのだろう、一瞬がくんと落ちるものの、再び羽ばたき出す。

「いまのは……?」

 アーゼがまだ夢が覚めていないかの様子で空を見つめる。と、気付いてポケットを見れば、いつの間にか戻ってきていた青い蝶が、いそいそと中に戻っていた。

「さあ、わからない……あんなのは、初めて見た……」

 メオリも目覚めたばかりのような声で返事をする。しかし。

「でも、その青い蝶が何をして、何を伝えたのかはわかった……パウはあそこだ」

 いまはない花の道を、シトラが進みだす。本来なら魔力の盾があり触れたのなら弾かれるものの、易々と船に迫っていく。

「捕まれ、アーゼ! 突入するぞ!」

 メオリが声を張り上げた。シトラの身体が輝き出す。

「いいか、パウを見つけたら救出して、すぐ脱出――余計なことをするなよ!」

 外壁は目前。アーゼは剣を抜き身構えた。

 光を纏ったシトラが、外壁に向かって叩きつけるように羽ばたいた。生まれた輝く風が、大きな音を立て爆ぜる。その爆発にシトラは飛びこんだ。


 * * *


 青い蝶はグレゴか、という質問の答えは、パウが言わずとも、そうであるとわかっていた。

 グレゴを喰らうことができるのはグレゴのみ。アーゼという青年から、青い蝶が蝿化グレゴを喰らった話は聞いていた。

 故にベラーにとって、聞かなくてもよい質問であったが、答えないとどうなるかを教え、じわじわと追い詰めていくには必要なことだった。

 答えのわかり切った質問であるが、ベラーの予想した通り、パウは意固地になってすぐには答えなかった。しかし四本目の針を肩に刺そうとしたところで、やっとあれがグレゴであると、震えながら吐いた。

 続いて「どこで捕まえたか」と尋ねてみる。あまり重要な質問ではないものの、もし、自分達が持っているグレゴ出没情報の場所であるならば、そこに人を送る手間が省けるからだ。ところが、予想外の回答が返ってきた。

「ち、違う、奴……です……」

 六本目で脇腹をつついている時だった。パウの表情は歪んでいて、苦痛の汗が流れている。すでに手や腕、肩に何本か針を刺していて、見える肌は黒色が蝕んでいた。

「……それはどういう意味?」

 三つ目の質問。するとパウは我に返ったように口を固く結ぶ。すでに眼鏡が奪われた赤い瞳が、抵抗の炎を再び燃やす。

「パウ、詳しく知りたいな」

 だからベラーは六本目の針でもう一度軽く脇腹をつついてみるが、パウは頭を横に振るだけだった。

 ――柔らかい肌に黒色を沈める。肉に突き刺す感覚はあるものの、出血はない。与えるのは痛みと「自分の置かれている立場」を突きつける事実。

 また一つ悲鳴が上がる。身体が跳ねるものの、魔法による拘束に押さえ込まれる。そしてがくがくと震えながらも、彼は頭をぶんぶんと振る。顔は涙と溢れてしまった唾液でぐちゃぐちゃになり始めていた。

 けれどもパウは、この質問にしばらく耐えてみせたのだった。

 詳しい話を聞き出せたのは、十本目を刺した後だった。

「ふむ……よく耐えるね、パウ。でもまだこれは沢山あってね」

 瓶から新たに一本を取り出す。次はどこに刺すか、と、壁に磔にされているパウを見る。身体を蝕む痛みと、叫び過ぎたこともあり、彼は肩で息をしていた。

 一歩近づいて、ベラーは針を握った。

「も……やだ……」

 かすかにパウが声を漏らす。

「それじゃあ、教えておくれ」

「う……ぐ……」

 言葉は返ってこなかった。ベラーはパウの服の胸ぐらを広げるように開けて、胸の中央に針の先を立てる。

 パウの赤い瞳が、恐怖に揺れた。

「やめ……もう……師匠……」

 ベラーはもう言葉を返さなかった。ちらりと彼を見るものの、すぐに針の先に視線を向ける。

 それが効いたらしい。

「べっ……別の、個体……っ」

「……」

「俺がっ、ひ、一人で勝手に作った、もの、です……!」

「――ほう?」

 驚くというよりも、感嘆にベラーは声を漏らしてしまった。

 さらに脅したところ、どうやら「青い蝶」は『処分』予定だった芋虫のグレゴを、部屋に持ち帰り密かに研究・実験した上に生まれたものらしかった。興奮のあまり、全て聞き出すのに、また何本か針を使ってしまった。

 だが「その資料はどこにあるのか」という質問に、いくら痛めつけてもパウは「事故で失った」と返すだけだった。それでは憶えているかと問えば「憶えていない」と返ってくる。

「本当にっ! 本当に、もうっ、わからないんです! だからっ、もうやめて、ください……!」

 いくら尋ねてもその繰り返しで、もう何本目かわからない針を刺した際、パウはついにがくりとうなだれてしまった。ついに痛みで気絶したらしい。

「こら、まだ終わってないよ、パウ。人と話している最中に寝るとは、行儀がいいとは言えないね」

 うなだれたパウの額に指を伸ばす。その指先に小さな魔法陣が現れ、とたんにパウがひゅっ、と息を呑んで身体をそって目を開く。再びがくんと身体が震えるものの、パウは恐怖に歪んだ瞳をくるくる動かしていた。

 ベラーは片手でパウの顎を掴んで、もう片手に握った針を軽く振る。

 聞きたいことは、まだ多くある。

「さあ続けようか」 

 質問を変えて、拷問は再開される。

 あの青い蝶は「蝿化グレゴの共食いによって進化したもの」だと考えていたが、パウが吐いた通り別個体であるのならば、そもそもパウは「蝿化グレゴの共食いによる進化」を知っているのだろうか――尋ねればパウは、知っていると吐いた。一体だけ見た、と。

 では、青い蝶は、蠅化グレゴを喰らったらしいが、共食いをした蠅化グレゴのように何か能力はあるのかという質問――またしても「わからない」という答えが返ってきた。

 何か隠しているように感じられ、答えるまで問い詰めようと思ったが、より重要な質問があるため、後回しにすることに決めた。重要な質問とは「青い蝶はこれまでに何体のグレゴを喰らったか」というものだ――ようやく吐き出させた答えは「六体」だった。

 六体――蝿化グレゴは全部で十二体。その半分を、青い蝶が食べてしまったことになる。それ以前にパウは、あの事故からいままでに、もう半分もの蠅化グレゴを片付けてしまった、ということになる……。

 つまらない理由であるため、あえて彼には聞かなかったが、彼は恐らく、責任を感じて行動していたのだと、ベラーは考えていた。

 彼は「人々のための魔術師」だ。だからアーゼから彼の話を聞いた際、正義のために行動しているのだと、予想はついていた。青い蝶が一体何であるかはわからないものの。

 やはり彼は、厄介な相手だ。心の中で呟く。

 その正義感に、再び憎悪が燃える。

 ――そんなものがなければ、可能性を秘めたこの弟子はきっと、自分と共に歩けたのだ。

「……そろそろ最後の質問にしようか」

 感情を抑えて、笑顔を浮かべる。最後、という言葉に出口を見たのか、パウの赤い瞳がそろりとこちらに向けられる。だが質問を聞いて、パウはまた絶望に泣くのだった。

「さあ、いい加減に教えておくれ――それで、青い蝶はどこにやった?」

 パウは頑なに情報を吐かなかった。また一本、また一本と針を刺していくが、そうしてやっと吐き出させた言葉は「知らない」「わからない」という言葉のみ。再び気絶してももう一度起こして拷問を続ける。それでも答えは変わらない。

 本当に知らないのか。わからないのか。

 それにしても、やはり、何か隠しているような気がするのだ。

 すすり泣き、呻き声を漏らしながらうなだれるパウの顎を再び掴み、顔を上げさせる。短い悲鳴をあげて、パウはその手を払おうとするが、ベラーはしっかりと掴んで、またよそを見させない。

「そういえばパウ……お前の右目は、見えなくなっているのだね」

 それとなく感じてはいたものの、改めて覗き込んで確信する。足を悪くしている様子もあり、またどうも魔力の調子や魔法の扱いが以前に比べて衰えているようにも思える。研究所での事故によるものか、と気付く。あの時彼は、ひどい怪我を負っていた。

 赤い瞳を見つめていて、思いつく。

「この目は、何一つ見えないのかい?」

 まだ生きている左目を片手で覆う。すると失明している右目が怯えたように動いたために、確かに何も見えていないのだと察する。

 針を構える。

 切っ先を向けるは、その赤い瞳。

「可哀想に。足も悪くしているようだし、不便だろうね」

「し、師匠、やめて……」

 視界が奪われたものの、何をされようとしているのか、パウは気付いたらしかった。震えていた身体が、より恐怖に捕らわれて硬直する。見えないはずの右目は針の切っ先を見つめていた。

「嫌だ、師匠……お願い、やめて……やめてください……」

 恐怖のあまり、涙も出ないようだった。瞳だけが小刻みに震えている。

「やだ……やめて……師匠、やだ……」

 胸が呼吸に大きく上下していた。叫び続けた喉は、呼吸の度にひゅうひゅうと鳴る。そんなパウの耳元でベラーは囁く。

「パウ……蝶はどこにやった?」

 パウはしばらく答えなかった。ただ恐怖に忘れそうになる呼吸を、必死にしているかのようだった。

 やがて、掠れて聞き取るのも難しいほどの答えが返ってきた。

「知らな――」

 ――言葉が終わる前に、ベラーはパウの瞳に針を突き刺した。

「あああああああああぁぁぁっ!」

 血を吐くような悲鳴。パウの身体は何度も大きく跳ねた。手足がもがくものの、掴むものも何もない。

「ぅああぁ……! がっ、あ……、ふ、う、うぅっ……!」

 頭を振れば、涙と涎が散った。そこを、ベラーは再び顎を掴んで無理矢理に押さえつけ、また針を構える――黒色に染まった顔の右側、その瞳に向かって。

「やだっ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……」

 泣きながらパウは暴れるものの、ベラーは押さえつける。

「もうっ、もうやめて、師匠! お願いです……お願いだから……っ!」

「答えるまでやめられないよ……青い蝶はどうした?」

 もう一度質問する。嗚咽を漏らすパウは、悲鳴を上げながらも息を呑み、目を固く閉じようとしたものだから、

「こら」

 パウの左目を覆いつつ顔を押さえていた手を右目へ持って行き、押さえつけながらも指で無理矢理瞼を開かせ、固定する。

「さあ、青い蝶は、どうしてしまったんだい?」

 ついにパウが息を止める。見える左目が、右目を狙う針を捉える。漏れ出る声も震えていた。

 それでもパウは。

「――知らない!」

 ――再び右目に針を突き立てる。今度は短い悲鳴を上げて、パウは電気が流されたように大きく身体をそった。そして脱力し、うなだれる。わずかに開いた口からは涎が垂れてしまっていて、また閉じられなかった瞳は濁って、そこに意識はなかった。ただ嗚咽のような声を漏らし続け、身体は痙攣しているかのように小刻みに震え、時折びくん、と大きく震える。

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