第五章(09) 『神』へ近付くこと
* * *
身体に違和を感じる。
声を漏らして、パウは瞼を震えさせた。ようやく目を開くも辺りは薄暗く、ここがどこであるのかわからないし、何があるのかもよく見えない。しかし両腕が広げられた状態で固定され、また身体も直立の体勢にされているのはわかった――マントを奪われ、魔法で壁に磔にされているらしかった。頭を動かせば、自分の背を中心に広がっているのであろう、魔法陣の密やかな輝きが見える。抜け出そうともがくが指先ばかりが動くだけで、身体は固定されたまま、ほとんど動かない。
しかしパウは焦らなかった。魔法には、魔法を、魔力を。自分を拘束する魔法は真後ろにある。目を瞑り、集中し、解除を試みる――。
けれどもすぐに顔を歪めた。魔力がおかしい、頭の奥では鈍い痛み。何かが魔法の行使を完全に遮ってしまっている。
魔法封じの呪い。悔しさに吐息を漏らす。非常に難しい魔法の一つだ、これでは何もできない。
仕方なくパウは、ここがどこであるのか、そして別の脱出方法を探して辺りを見回した。耳を澄ますと、低い地鳴りのような音が聞こえる。おそらく、ここはユニヴェルソ号の一室なのだろう。この巨大な魔力翼船は、いま、大空を飛んでいるようだった。そして目が暗闇に慣れてくると、ここがひどく質素な部屋であることに気が付いた。牢獄よりはましではあるが、似ているように思える。小さなテーブルには水差しとグラスがあった。椅子には自身の紫色のマントがかかっている。
はっとしてパウは目を見開いた。とっさに再び辺りを見回す。
ミラーカは……いない。どうなったのだろうか。逃げ果せたのだろうか。
――暗闇の向こうから、話し声と闊歩が近づいて来る。
「――それでは、もう一度遺跡を調べてはもらえないか? それから騎士団の監視を続けてくれ。おそらく、どこかに隠したのだと思うけど……」
闊歩が止む。扉の開く音。眩しい光が暗闇に差し込んでくるが、すぐに扉は閉じてしまう。
部屋に入ってきた男が一人。
「死んだと思ったのに、本当に生きていたとは思えなかったよ、パウ。運がいいのか、それとも……」
薄暗い中、ベラーはパウにいつもの微笑みを向けた。愛でるかのような、柔和な笑み。
「……俺もまさか、あの騎士団を利用してるとは思いませんでしたよ。まさかデューの魔術師に扮しているなんて」
パウは苦い顔をして彼を睨んだ。するとベラーはまるで無邪気であるかのように目を細めた。
「彼らを利用した方が、効率がいいからね。私達は、あの蝿化グレゴについて、更に研究しなくてはいけないのだから」
「……不老不死のために? 自分達以外の者を殲滅するために?」
その言葉に、自然と怒りがこもる。
――信じていたのだ。人々を守るための研究だと。それが非道な不老不死の研究にかかわるものだと知らずに。まだ利用できるかもしれないと、魔術師でない人間や自分達の思想とあわない魔術師を排除する兵器への研究だと知らずに。
芋虫型グレゴを大人しくさせる魔法薬だってそうだった。人々の助けとなるためにそこへ至る鍵穴を見つけ、鍵となる魔法薬を作ったのだ。
それを利用されてしまった。彼らの非道な研究を、大きく一歩、進めさせてしまった。世界に混沌をもたらしてしまった――。
「そう気を立てないでおくれ」
変わらずベラーは微笑んでいる。全てが大したことではないというように。思わずパウはもがいたが、磔の魔法からは抜け出せなかった。
と、ベラーの顔から笑みが消える。品定めするかのようにこちらを見つめ、顎に手を当てる。やがて瞼を下ろせば、溜息を吐いて再び笑みを浮かべた。
「こうして再会できたのだから、話してあげようか。私達の目的を」
彼は一歩前に出る。思わずパウは身を引いたが、磔にされているいま、動くことはできなかった。
床から少し浮いた高さで磔にされている中、見据えればベラーと目が合う。
「蝿化グレゴにはまだ価値がある。だから回収しているのだよ」
それは先程も言っていた。以前出会った『遠き日の霜』の魔術師スキュティアも同じことを言っていた。
「けれどもそれは、不老不死のため、劣等な存在と愚かな者達を滅ぼすためだけではない――完全なる存在へ至る道が、あの醜い蠅にあるかもしれないからだよ」
完全なる存在。
一体何であるか、パウにはわからなかった。それを感じ取ったのか、ベラーはあたかも、かつて魔法の教えを説いた時のように続ける。
「我々『遠き日の霜』が真に目指すもの。それは完全なる存在に近付くこと……『神』へ近付くことなんだよ、パウ」
神――神?
戸惑うしかなかった。神。この世界を創り、去ってしまったといわれる存在。
「完全なる存在への進化の一歩として、我々はまず、不老不死の研究していた……しかしあの巨大な蠅は、驚くような進化を私達に見せてくれた」
パウ、お前はもう知っているのかもしれないね、とベラーは首を傾げる。
「蝿化グレゴは、同じく蠅化グレゴを喰らうことで、新たな姿となり、力を得る……しかも不死を維持したまま。不老であるかはわからないけれどもね。しかしあれは……姿と知能はさておき、我々の望んだ進化の道を得ているのだよ」
パウは何も言わずに彼を睨んでいた。
なるほど、話が見えてきた。だから彼らは世界に散ってしまった蠅化グレゴを集めているのだ。
そして蠅化グレゴが共食いすることによって進化することも、すでに気付いていたらしい。
「ああ……あの事故さえ起きなければ、ね。あの事故で失われたものは多い……蝿化グレゴを再び作り出そうにも、あの時に資料が失われてしまってね。だから利用できるものは利用して回収している、というわけだよ。完全なる存在への進化のために。神と呼ばれる存在になるために」
『遠き日の霜』の目的の一つに、自分達以外の人間の排除もあった。
つまりそれは、支配者になるという意味もあるが、新しい世界を創る、という意味もあるのかもしれない。神は世界を創ったのだから。
拘束された中、かろうじで動かせる手に力が入る。
こいつらは、狂っている。
「……パウ。君は、自分に備わった魔力は、何のためにあると思う?」
唐突に話題が変わる。しかしパウは睨むことを止めず怒鳴った。
「魔法は人々のための力です! 誰かを助けるための力だ! 師匠は間違ってる!」
「私達にあるのは、選ばれた人間である証の力だよ」
涼しい顔をして、ベラーは返す。
「私達は一歩進化した人間。非魔術師達よりも優れた人間なのだよ……選ばれた私達は、更なる進化をしなくてはいけない。そうであるのに、何故、平和のためという理由で、劣る者達に尽くさなくてはいけないんだい?」
静かに燃える意志を孕んだ声は、凛と響く。
「ここは、神なき世界。一歩優れた私達が、この世界の主となるべきなんだ。古き時代を捨ててね……魔法は、神の遺したものだと言う者もいる。神なき世界で奇跡を起こし人々を助ける術だと……それならばなおさら、私達はその使命を捨てなくてはいけない。存在していない古き時代の神を捨てるために。新たな主となり新世界を創るために……!」
だからパウ、と、ベラーの片手が頬に伸びてきた。細い指は冷たく、けれども血は通っていた。
「――私と一緒に、もう一度道を歩んでくれないか? 君は、私達の崇高な目的の鍵となる。現に君は、グレゴの進化に続く鍵穴と見つけ出し、鍵までも作り出した。君は未来への扉を開いてくれた。だから、もう一度……」
――ベラーに出会えて、嬉しかった。彼に憧れた。彼がいいと思った。彼に近付きたいと思った。
しかし、こんなことは、望んでいなかった。
――自分は、誰かを助けるために魔術師になると、決めたのだから。
そして。
「さあ、青い蝶をどこへやったか、教えておくれ。見つからないんだ、あれはグレゴだろう? それも他のグレゴを喰わせ、蠅から進化させた個体だろう……? 教えておくれ、パウ」
そして――青い蝶の少女との、ミラーカとの約束があるから。
――頭を大きく振る。ベラーの指を払う。髪が乱れたままでも気にせず、怒りと憎悪、そして信念を燃やしてベラーと対峙した。
「断る! あんたは全部、間違ってる! 俺はもう、従わない!」
喉の奥が切れてしまいそうなほどの拒絶。宣言。思わず瞳が潤むほどの勢い。
ベラーは。
ベラーは怯まなかった。ただいつもの笑みを浮かべたまま。しかしかすかに肩を竦め、瞳も細めたかと思えば溜息を吐いたのだった。
「……お前なら、そう言うと思ったよ」
やはりだめか、と小首を傾げる。だが一瞬間を置いた後に、
「でも蝶の詳細や居場所、それからこれまで何をしていたのかは、教えてもらおうか」
紺色の瞳が、冷たい鋭利を帯びる。あたかも刃物を突きつけられたかのような感覚を覚えるものの、パウは言葉を返す。
「答える気はない」
「手段は選ばないよ」
ベラーは懐から瓶を取り出した。からんと音がして、中を見れば黒く細長い針が何本も入っている。ベラーの黒水晶を思わせるそれだが、どうやら違うものらしい。
「これは魔法道具の一種なのだけどね、魔法そのもの、または魔法薬に近いものなんだ……人を痛めつけるのに、とても便利なものでね」
蓋を開け、一本を取り出す。薄暗い中できらりと輝いた切っ先は、磔にされたパウの右の掌、その中央に突きつけられる。
刺される――パウが息を呑み身体を強ばらせた瞬間、ベラーはその予想通り、まるで釘で留めるかのようにパウの右手に針を突き刺した。
弾けるような痛みに、拘束されたパウは大きく身体を震わせた。わずかに動く足が壁を蹴る。天井を仰ぎ、なんとか悲鳴を噛み殺す。
う、ぐ、と声を漏らして、止めてしまっていた呼吸を再開する。痛みはまるで火傷のようにじわりと残っていて、息を乱しながらも、自然とパウはその手を見たが、
「な、何……」
「この針はね、肉体に怪我を負わせず苦痛を与え、精神と魂を蝕むことのできるものなんだ」
痛みに蝕まれ震える右手。ベラーの言う通り、血は一滴も流れてはいなかった。刺さったはずの針もないが、その代わりに針が溶けたかのような黒色が右手を染めていた。
と、その黒色を、二本目の針がつつく。また刺されると思い、パウはびくりと震えてしまった。しかしベラーは刺さずに微笑む。針の先は掌を撫で、腕を引っかいていく鎖骨なぞってまできたところで軽く喉をつつかれる。
固唾を呑まずにはいられなかった。するとパウの喉が動き、針に怯えの震えが伝わる。
「それじゃあ、答えやすいだろう質問から聞いていこうね」
それを見届けて、満足そうにベラーは笑った。
「まず、あの蝶はグレゴ、それは間違いないね?」
からんと、瓶の中で何本もの針が音を立てる。
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