第五章(05) 出ておいで

 * * *


 ナヴィガ・ファート遺跡。

 そこはかつて「神の帰還」を願い、祈りをささげた神殿とされている。

 ――神は光で世界を作った。空、海、大地、そして生き物、人間。

 最後には神は、いなくなった。

 このことに関して意見は様々だ。人間に世界を任せたため、神は去ったのだという人々もいれば、死んだのだという人々もいる。

 どの意見にしても、この世界に神はいない。何があっても、人間の力のみで生きていかなくてはいけない。

 しかしそれにも限界があり、だからこそナヴィガ・ファートのような遺跡は各地にある。

 もっとも、ここが遺跡になっているように、人々はとうの昔に「神の帰還」を願うのを止めたが。

 ――多くが崩壊し、植物に支配されたような石造りの神殿。山の斜面に沿うようにして作られた建物。ミラーカを連れていくつもの階段を上った先、大きく崩れた壁から外の様子が見えた。『風切りの春雷』騎士団の野営地が見える。そしてその上空に留まった、巨大な魔力翼船も。魔法陣の翼を広げた、丸まるとした船体。地上に階段が伸びている。

 この遺跡の入り口まで案内をしてくれたアーゼは、いまは騎士団へと戻っている。何かあった際に、時間を稼ぐためだ。

 遺跡の奥へ、パウは進む。神殿の中は暗い。長い年月に崩壊もしているため、足元は危ない。瓦礫を蹴ってしまい、からんと音が鳴る。鼠か何かの獣がいたのか、きぃきぃと鳴き声が聞こえた。緑の青臭さが鼻をくすぐる。風が吹き抜ければ、まるで巨大な怪物が息を潜めているかのような、低く冷たい音が響く。

 それにしても、騎士団達を騙してグレゴを回収しているとは。

 とにかくいまは、少しでも距離をとった方がいい。ベラーがどう動くのか、わからない。

 ――あのまま騎士団員の中に潜み、ベラーに奇襲をかける手段もあった。それだけではない、いまからでも、不意打ちを狙うことはできる。

 けれども、そもそも奇襲も不意打ちもない、向こうにはもう自分の存在が伝わっているようなのだから。その上敵はベラー一人ではないのだ、敵は明らかに多人数だ。

 下手に動くわけにはいかない、勢いで動くわけにはいかない。ミラーカとの約束、まだどこかにいる蠅化グレゴ、そして自分自身のためにも。

 ここで彼らが去るのを待つのは危険か。考え、パウは先へ進む。この遺跡を進んでいけば、山の反対側へと出られるはずだ――ベラーは、自分が騎士団にいることを知っている。いないとなれば、どう動くか……間違いなく探すだろう。アーゼが時間を稼ぐと言っても、相手はあの師匠。そううまくいかないはずだ。

 逃げなくてはいけない。幸い、魔術師達と騎士団が衝突する可能性は、そう高くはないだろう。魔術師達は騎士団達をうまく利用できていると思っているだろうし、実際、アーゼを除いた騎士団員は魔術師達にまさか利用されているとは知らない。

 奥へ進めば進むほど闇が深まり、瓦礫に躓くも、杖で身体を支える。ミラーカは何も言わず、まるで身を潜めるかのように半ば暗闇に溶け込んで羽ばたいている。

 更に奥へ。もっと距離をとらなくては。明かりを灯すことも恐ろしい、とにかく存在を隠さなくてはいけない。この遺跡に渦巻く冷気に溶け込むようにして歩いていく。

 だが――はたと、気配があったように思えて、パウは立ち止まり振り返った。

 何もいない。遥か遠くにぽっかりと空いた出入り口から、青空が見えた。ミラーカの青とは、また違った青色。白い雲が呑気に浮いている。緩い風が吹けば遺跡内に蔓延る蔦の葉を揺れ、かさかさと笑う。鳥の鳴き声が、彼方に聞こえる。その響きが、胸騒ぎをさらにかきたてる。

 逃げるように、パウは再び遺跡の奥へと向き直った。

 ――頬に、鋭い痛みが走る。濁り一つない音が、正面に刺さる。

 背後から飛んできた何かが、髪を揺らし、頬をかすめて、目の前の折れた柱に突き刺さった。

 言葉を失い、思考も放棄して、パウは柱に突き刺さったそれに、無意識に手を伸ばした。

 それは黒く鋭い水晶だった。光を反射することもない、漆黒の物質。

 切れた頬から血が流れ出る。同時に、妙な感覚があった――自身の中にある魔力が震えているかのような感覚だ。

 胸中の底が冷える。黒い水晶。わずかであるものの、魔力の異常。

 そして今度ははっきりと感じた、背後の気配――。

「パウ!」

 ミラーカが闇から小さくも名前を呼ぶ。紛れもなく悲鳴だった。

 その次の瞬間、パウは瞬間移動魔法で姿をくらませた。遺跡の奥へと姿を現せば、走り出す。

 笑い声が聞こえた。懐かしくも思えるその声。背後で光が生まれる。慌ててそこへ向かってパウが魔法を放てば、相手の放った魔法の水晶と自分の水晶がぶつかり、共に消滅する。だがパウの放った魔法の一つは、相手の水晶に敗北した――黒い水晶。パウの水晶は砕けるというよりも、ほどけ、溶けるようにして消え失せてしまった。

 そして迫ってきた黒い水晶を、パウは身をよじって避ける。その中で見た――遠くにある外からの光に、影になって立っている人物を。長い髪が揺れると、透けるように銀色が輝く。ぼんやりとしていてもその表情は見える。

 いつもの微笑み。ベラー。

 苦い顔をして、パウは更に奥へと瞬間移動魔法で逃げる。ベラーも移動魔法で追いつつ、またパウへと魔法を放つ――光り輝く魔法の水晶に混じって、漆黒の水晶が闇に紛れるようにして飛んでくる。

 とっさにパウは魔力で壁を作ったが、間違いだと気付いて逃げた――黒い水晶が突き刺さったとたん、魔力の壁は解ける。そして全ての攻撃が、パウがそれまでいた場所に突き刺さる。

 『穢れ無き黒』。ベラー。

 ――魔術師が相手にするには、あまりにも不利な魔術師。

 距離を詰められている。今度はパウから攻撃を放つ。魔法の水晶を複数。それと光球、複数。手をかざし、魔法陣を出現させれば一斉に敵へ放つ。水晶は闇を切り標的にまっすぐに向かう。光球は速度は遅いものの、まるで生き物のように宙に弧を描きながら迫る。

 しかしベラーは、ふわりと流麗な動きで手をかざし魔法陣を出現させたかと思えば、そこから花開くかのように黒い壁が広がる。パウの放った魔法がその壁に迫ると、溶けるように消え失せる。どの魔法も壁に傷をつけることすらもできない。壁を避けて回りベラーへ迫ろうとした光球は、壁に触れる以前に、近寄っただけで蒸発する。

 と、壁が消え失せ、黒い水晶いくつかが放たれる。慌ててパウはその場から飛び退く。

 ベラーの黒い水晶を、一つでも受けるわけにはいかない――魔力を削られるだけではなく、魔法の発現に支障をきたしてしまうから。

 ――魔力とは液体のようなもの。そのまま放つこともできるが、少し凝縮すれば光球に、そして凝縮すれば水晶となる。魔術師はこれを主に攻撃に使う。時に自然の力を纏わせて。そのまま放つ際は、自然の力そのものを武器として。

 その「魔力」には、一つ特徴があった。

 ――高純度で凝縮すれば、生成された水晶は黒く染まり、またその純度故に、周囲の魔力を吸い上げる。

 時代に一人か二人しか、その極致に至る者はいないとされているが――その黒水晶こそが、ベラーの異名『穢れ無き黒』の由来だった。

 故にどんな魔術師も、ベラーと敵対することを避ける。圧倒的に、不利であるから。

 ――瞬間移動魔法で、更に奥へと逃げようとした刹那だった。

 右肩に突き刺さる激痛。全ての水晶を避けたと思ったが、一つを避けられなかった。細い漆黒。パウは悲鳴を殺したものの、いままさに瞬間移動を発動しようとしていた魔力が散る。乱れる。消え失せる。そして自身の中にある魔力が大きく震えたような感覚。もう一度集中しようにも、魔力は異常をきたしてしまって、もう瞬間移動はできない。

 黒い水晶が刺さったのなら、怪我を負わせるだけではなく、その者の魔力をも乱す。これだけの傷で、大怪我をしたときのように魔力が乱れてしまう。

 仕方なく、パウはベラーに背を向けて闇へと走り出した。その時見えたベラーは、まるで狩りを楽しもうとしているかのように、微笑んだまま、歩いて追って来ていた。

 灯りがないためよくは見えないものの、遺跡の奥は大きく崩壊しているようではなかった。出入り口付近は荒れ果てていたものの、外に近い故なのかもしれない。

 パウが逃げ込んだ先は、大きな柱がいくつもある巨大な空間だった。冷え込んだ空気の中、巨大な亡霊のように柱の影が見える。パウは柱の一つに身を隠した。闇の中、ベラーがどこにいるのかは見えないものの、それはお互いだろう、向こうも見えないはずだ。いまのうちに肩に刺さった水晶を抜く。水晶を握った際、その手からも魔力を吸われ、乱される感覚があったが、抜き捨てれば肩の傷を押さえる。そして魔力を落ち着かせる。捨てられた水晶はなかなか消え失せることがなかった。

 足音が響いて来る。

「パウ、出ておいで」

 ベラーが、呼んでいる。その声色は、彼に修行をつけてもらった日々の声と、同じ。

「無駄に魔力を使い、怪我する必要はないだろう?」

 どうする、とパウは口を固く結ぶ。

 やはりベラーを相手に戦うのは、ひどく、難しい。逃げきれるかどうかすらも、いまではわからない。

 そもそも何故ベラーがここにいるのか――おそらく、予見していたのだ。自分がどうするかを。ここに逃げ込むことを。

 だからきっと、魔力翼船が到着する前に、一人で来たに違いない。

 ――こうなったのなら。

 そろりと、柱の裏から身を出す。

 ――ベラーとは、いつかどこかで決着をつけなくてはいけなかったのだ。

 ――自分はあの事故で大怪我を負い、かつてのようには戦えなくなった。けれどもそれも、過去の話。いまではこの身体にも慣れ、幾分かはかつての実力を取り戻してはいる。それだけではなく、これまでのグレゴとの戦いで、新たに経験も積んだ。

 たとえ相手が師匠であれ、『穢れ無き黒』と呼ばれる者であれ。

 パウは決して笑わなかった。険しい顔をして、暗闇を見通そうと睨む。

 ――ベラーの弱点に、一つ、心当たりがある。

「……パウ」

 暗闇から声がする。青色が瞬いている。

 ――ベラーのあの様子からして、もしかすると「青い蝶」の存在に気がついていないのかもしれない。幸運なことに、ミラーカの小さな存在は、この暗闇の中にうまく溶け込めるようだから。

「静かに」

 万が一の時に備えて、パウは青い輝きに視線を向ける。

「……お前の存在が、一番ばれちゃいけない。何かあったら逃げろ」

 ミラーカだけは、敵の手に渡ってはいけない。何かあった時は、意地でも逃がさなくてはいけない。

 ――かつん、と、すぐ近くで足音が響く。

 ……奇襲や不意打ちというのは、初めてかける、その一回にしか意味がない。

 足音の発生源から、相手の居場所を定める。そしてパウは柱の裏から飛び出した。

 同時に放つは、いくつもの光り輝く水晶。突如として暗闇に生まれたその光に、巨大な柱の影が色濃く伸びる。それに対して敵の小さな影も。

 けれどもベラーは表情一つ変えることなく、再び黒い水晶の壁を作り上げた。緩く曲面を描いたそれは、あたかも光を吸い込んでいるかのように、光を一切反射しない。突然現れた深淵への入り口にも思えるそれに、パウの魔法を構成する魔力は吸われ、それによって崩壊し、水晶は溶けていく。

 けれどもこれは、計画の内。

 杖を両手で握る。たん、と、一歩踏み込めば、刹那の浮遊感が身体を包む。

 瞬間移動魔法。空間を歪め、自分がいまいる場所と、行きたい場所を繋げ移動する魔法。

 繋げた先は、あの壁の向こう――ベラーの背後。黒い水晶の影響をぎりぎりで受けることなく、空間を繋げられる場所。

 ――対魔術師での戦闘の中、相手が瞬間移動魔法を使ったのなら、退くか詰め寄るかのどちらかだ。案外読まれやすい手であるため、詰め寄って攻撃しようにも、すぐに魔法で対抗されてしまうことがある。

 けれどもそれは、相手が見えていればの話。

 ……ベラーの作り出した黒水晶の壁にある決定的な弱点。彼のもとで修行する中、パウは気付いていた。

 あれは、その黒さ故に、向こう側を見通すことができない――。

 瞬間移動で姿を現した瞬間、パウは杖の剣を抜いた。

 黒水晶の壁の近くで魔法を放っても、溶かされてしまうだけ。

 ならばベラーを貫くは――ただの武器。

 ある程度の怪我を負わせれば、魔術師は安定して魔法が扱えなくなる。

 この剣こそが、勝利への鍵。

 黒水晶の壁の近く。肌にぞわりとした感覚が纏わりつく。内にある魔力が震える。けれどもパウは剣を切っ先まで抜けば大きく振りかぶった。

 けれども。

 片目しか見えない赤い瞳。眼鏡の奥で、大きく見開く。

 剣を振り下ろすことはできなかった。

 ――そこに、いるはずの標的の姿がなかったのだから。

 息を呑む。思わず一歩、下がる。

 すると背に、何かがぶつかった。同時に白い手が目の前にかざされ、顔の前で魔法陣が展開される。

 意識を奪う魔法――唐突に遠のく意識に、パウは杖の剣を落としてしまった。しかし意識を完全には失わない。とっさに自身の魔力を集中させ、相手の魔法の侵食を防ぐ。

 だがそれで精一杯だった。それ以上は、何もできない。拮抗に留まる。

「パウ、目の付け所はよかったけれども……私も、自分の魔法の弱点を知らないわけではないんだよ?」

 背後に立つベラーが囁く。

「私の魔法の壁は、向こう側が見えない。それは、私だけではなく、君もだろう? 私が魔法を使ったその場に留まっているか、そうでないか、わからなかったように……」

 ――ベラーに全て、読まれていたのだ。ベラーは作り出した壁から距離をとることにより、一つの罠を完成させた。

 そして、まんまとひっかかった。

 拮抗していた魔法が、じわじわと侵食されていく。意識にかかる靄が濃くなっていく。だがここで負けるわけにはいかない。呻き声を漏らして、パウは防御の魔法に集中する。しかしそのせいで動けない。そして動いてしまったのなら、ベラーの魔法に敗北してしまう――。

 正面では、あの黒い壁がゆっくりと消え始めていた。先の暗闇が見える。その中に、パウは青い輝きを見た。

 考えるよりも先に、パウは光球を放っていた。

 狙うは、青い輝きのすぐ近くにあった柱。魔力の光が弾ければ、柱は大きな音を立てて崩れる。

 埋もれる青い輝き。飛び出させるわけにはいかなかった。

 代償に。

 ……がくん、とパウの身体が頽れる。しかし冷たい床に倒れる前に、ベラーがその身体を支えた。

「……最後のは、随分と雑なあがきだったな」

 ぐったりとしたパウを支え、ベラーは微笑む。

 弟子の顔を見れば、目を固く瞑り、気を失っていた。と、ベラーは顔を上げ、辺りを見回す。

「ところで、噂に聞いていた青い蝶は、一緒ではないのか……?」

 しばらくの間ベラーは辺りを見回していたが、やがて深く溜息を吐けば、パウを担いだ。パウの杖を拾えば、元来た道を、歩き出す。

 そうして足音が遠のいて少し時間が経った後。

 ――瓦礫の山から、瓦礫が一つ、浮かび上がった。

 一つ浮かんで崩れると、また一つが浮いて崩れる。

 果てに、青い蝶が這い出てきた。

「パウ」

 返事はない。

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