第三章(04) 臆病者
* * *
月の明るい夜だった。開けた窓からは、月光と共に、夜でも静かになることのない街の喧騒が流れ込んでくる。それでも宿屋の一室は、どこか世界から隔離されているかのように感じられた。
今日の調査でも、結局、確かな情報は得られなかった。それで今日はここまでにしようと決めて、パウとメオリは別れたのだった。それぞれが泊まる宿屋へ戻っていった。
夜が更けていくにもかかわらず、パウは眠れなかった。
――コサドアが死んだなんて。
一人、部屋で考えていた。一体、世界では何が起きているのだろうか、と。
コサドアが死んだのは――間違いなくベラー達『遠き日の霜』の仕業だろう。
彼らはいま、何を考えているのか。どう行動しているのか。
グレゴ研究所の崩壊から、他の魔術師と交流したり、魔術文明都市デューに帰ったりしなかったのだ。誰を信じたらいいのか、わからなかったから。
けれども今日、メオリに出会って初めて知った――『遠き日の霜』が、何か行動を起こしていることを。
彼らがまた何か起こす前に、止めなければ。
それだけではない、世界のどこかに行ってしまったグレゴ全員を、討伐しなければ。
メオリの話では、かなり被害が広がっているようだった。だからこれ以上、被害が出る前に。
――罪を重ねる前に。
と。
「――嘘吐き」
明かりが一つもないものの、月の光でぼんやり明るい部屋に、その言葉は響いた。
ナイフのようだった。背筋に冷たいものが走った。
パウが振り返れば。
「どうして彼女に、グレゴの正体について話さなかったのかしら?」
「ミラーカ……!」
思わずパウは身構えた。
蝶の姿ではない。少女一人が、月明かりに浮かび上がるようにしてそこに立っていた。窓からの冷たい風に、長い髪が羽毛のように揺れていた。
あの、小指を切り落とされる幻覚以来の出会いだった。彼女は相変わらず、微笑んでいた。何か企んでいるかのように。
先程まで聞こえていた街の喧騒が、いつの間にか聞こえなくなっていた。何かがおかしくなっている。パウはさらに身構えるが。
「ねえ……どうして?」
その答えは言わなくてもわかっているというように、ミラーカはそっと、パウの身構える両手の手首を掴んだ。そしてパウを見上げるのだ。その青く輝くような瞳で。空のように透き通っているようで、海のように深く底知れない瞳で。
月の光がぼんやりと満たす部屋。二人は浮いているかのようだった。見えない糸が身体を縛っているかのようで、パウは動けなかった。動いてしまえば、その糸が身体を切ってしまうような気がした。
そして声が出ない。
それはミラーカの力によってではなく……答えられなかったのだ。
やがて、言われてしまう。
「――責められるのが怖かったんでしょう?」
耳元で、囁かれる。
「……自分のせいだと思っているくせに、他人に言えないのね……認められないんでしょう? それもそうよね……あくまで、あなたは研究を利用されただけなんだから。完全に自分のせいではないと思っても……仕方ないわよね?」
優しくも嘲笑うかのような声は、まさに刃物のように胸に突き刺さってくる。
「けれども何も知らなかった。盲目だった……それが恥ずかしくて、悪だと思ってる……」
ミラーカの片手が、頬に伸びてきた。指は細く、冷たかった。
「正義感が強いからこそ……自分が認められないのね。責められでもしたら、それこそあなたは『悪』になる。だから、怖いのよね」
氷のように冷たい彼女の手。心臓を、鷲掴みにされたようだった。
「臆病者」
見えない刃物に、胸を貫かれる。
わずかに、パウは眉を顰めてしまった――だが、そうしてしまった自分が、更に憎くなってしまった。
そんな顔をする資格は、「そうじゃない」と思う資格は、ないのだから。
責められるのが怖い――その通りでは、あるのだから。
言い訳してしまえば、自分は何も知らなかったのだ。
けれどもミラーカの言う通り、自分にも非があるのだ。
知らなかったなんて、いくらでも言い訳できる――知ることができたかもしれないのに。
……自分は、一体どれくらいのことをしてしまったのだろうか。
――いまでも世界のどこかで、蝿化したグレゴが人を襲っているのだろう。
発端は、間違いなく、自分自身だ。
そして。
「――私を玩具にしたのは、事実でしょう?」
全てを見透かしているかのように、ミラーカは囁く。
それは紛れもなく、自分の罪だった。
命を、彼女を、玩具にした。
とっさに、顔をそらしてしまった。だが。
「目をそらさないで、ちゃんと見て」
顎を掴まれて、無理やりに正面を向けられる。そうしてミラーカの瞳と目があった。
吸い込まれそうな瞳。落ちていきそうな青色。
息ができなくなる。まさに深海に沈んでしまったかのように。もがくこともできない。声も出ない。
しかし、冷たい指が、唇に触れて。
「――何か言ったら?」
催促されても、何を言ったらいいかわからない。
そうして、やっとのことで、喉を震わせた。
「――悪い」
けれども、また顔をそらしてしまったのだった。
――ミラーカの目が、細くなる。
「本当に最低ね」
冷たい手がようやく離れた。ワンピースの裾と長い髪をなびかせて、蝶の少女はパウの隣を通り過ぎていった。
身体を縛っていた糸が解けたように、パウは深呼吸した。途端に苦しかったことを思い出したかのように、息が乱れ始める。冷や汗が溢れ始める。そこへ。
「――でも、変に彼女に話して厄介ごとになるのは面倒よね」
ミラーカはベッドに座っていた。口の端をつり上げている。
「彼女が早まってパウを殺そうとしたら、私、困るし……あなたを殺すのは私だもの」
そういう、約束だった。
「いまはうまく利用したらいいんじゃないかしら?」
皮肉なのだろう。月光を背に受けて、影になってしまった彼女の顔。青く輝く瞳が、より細くなるのをパウは見た。
と、不意に。
「それにしても、本当に何にも情報を手に入れられないのね、あなた達……嫌になっちゃう」
薄いワンピースだけの彼女は、ころん、とベッドに転がった。そうして手を伸ばしたのは、パウがベッドに投げ出していた荷物。中をがさがさと漁り始める。
「……何を」
思わずパウがぎょっとして尋ねれば、ミラーカは口を尖らせて、
「地図よ、地図……漠然とあっちって指さしても……あなた達、変なところに行きそうじゃない?」
ミラーカはこの街と周辺の地図を取り出した。昨日、パウがこの街で買ったものだった。彼女はそれを寝ころんだままベッドに広げて、裸足をぱたぱたと動かしながら、それこそ少女のように片手で頬杖をついて地図を見下ろす。ふぅん、と声を漏らして、睫毛を伏せるようにしてしばらく眺めた後で。
「――ここよ、パウ。ここ」
地図のある箇所を、指でつついた。
射し込んだ月明かりに、はっきりと照らされた地図。ミラーカが指さしたそこは、街の外、少し離れた場所にある森の中だった。川が流れている森で、滝もあるらしく、森の絵の中に滝も描かれている。彼女の細い指は、その滝を指さしていた。
「多分ここ」
何の話をしているのか、パウにはすぐわかった。
「お前……そこまでグレゴの居場所がわかるのか」
目を見開いて尋ねれば、ミラーカは身体を起こしてパウへ向き直る。
「なんとなく」
細い腕を伸ばして掴んだのは、パウの片手。
「早く食べたくて…力が欲しくて仕方ないのよ、パウ」
その片手の小指に、蝶の少女はキスを落とした。
――かつて、贖いの証に、切り落とされた指だった。
「早く私に食べさせてちょうだい。約束したでしょう?」
ふふ、という少女の笑い声が、せせらぎのように響いた。
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