夢へいざなう月と猫

星 雪花

夢へいざなう月と猫


 たぶん、誰にも信じてもらえないと思うけど、ある夜、仕事帰りの終電に乗っていたとき、少し酔っていた私は、向かい側に座っていた男性が黒猫の姿に変わる瞬間を見た。


 何て形容すればいいのだろう。私は夢か幻を見ているような気持ちで、彼の輪郭が暗く流れる車窓を背景にどんどん溶けていって、触ったらやわらかそうな、つやつやした漆黒の毛並みに変貌していくのを呆気にとられたように眺めていた。


 あれ、今まで人間だったよねって、意識の片隅でそう思ったけれど、まわりを見回してもみんな眠っているか、小さなスマホの画面に夢中になっていて、目撃したのはどうやら私だけのようだった。


 私が呆然と、もとは男性だった黒猫を見つめていると、彼はそんな私に気づいたように利発そうに光る目をむけたけど、すぐに興味を失ったようについと首を逸らした。そんな傲慢な態度が、なんだかもう猫そのもので、変身の瞬間を見ていなければ、ふつうに黒猫が電車にまぎれて乗っているだけだと思ってしまっただろう。


 たくさんの外灯が流星のように尾をひいていく車窓を、黒猫は思案するように、しばらくのあいだじっと見つめていた。すると、何かを察知したかのようにパッと敏捷な動きで座席から降りたつと、停車したのを見計らって、扉の隙間からすっと出ていった。


 あ、待って、と私は思わず腰を浮かせていた。

 これは終電で、逃したらもう家に帰れないのに。ずっと乗っていなければいけないのに。そんな気持ちとは裏腹に、気づいたら私は黒猫を追いかけて、名前も知らない駅のホームにひとり降りていた。


 プシューッと、後ろで扉の閉まる音がして、黒猫はまだ黒猫の姿のまま、悠然と歩く後ろ姿が見えて、私はあわてて跡を追いかけた。足元がふわふわする。地面を踏んで歩いているはずなのに、まるで数センチ浮いているような不思議な浮遊感。


 あ、私酔っているのだった、と今さら思いだして、何やっているんだろうって本気で思ったけれど、なぜか後悔よりも好奇心がまさって黒猫から目がはなせなかった。

 少し距離をおいて、でもおいていかれないようについていくと、黒猫は改札の下を何の障害もなく歩いていく。私は急いでパスケースを取りだすと、定期をかざして改札を通り抜けた。


 夜空には三日月が静かに浮かんでいて、『不思議の国のアリス』に出てくる、チェシャ猫の笑った口のように見える。

 もしかしたら、幻覚かもしれない。そんなに酔ったつもりはなかったけれど最近疲れていたし、職場ではささいなミスで怒られて落ち込んだし、仕事の付き合いで仕方なく出た飲み会だったけど、勧められるまま飲んだのがいけなかっただろうか。もう三十も超えて独身で、いい大人なのに、こんな風に知らない町の住宅街をひとりでふらふら歩いてる自分を顧みると、急にどうしようもない心細さにおそわれて泣きたくなった。


 目にしたものが本当だとしたら、彼は間違いなく男性だったはずで、でも溶けるように黒猫に姿を変えた。そんなことを言っても、きっと誰にも聞いてもらえないだろう。飲みすぎたんじゃない? って言われるだけだ。

 ここで彼の姿を見失ったら、私はいったいどうすればいいのだろう。もう帰る方法だってないのに。よく考えたら降りたのは無人駅で、タクシーが停まっている気配も見えなかった。それとも、本物の私はまだ眠っていて、不思議な夢を見ているんだろうか。現実的には、その方がいいのかもしれない。現実にこんなことが起こるはずもない。


 そう思って前を眺めていたら、いつのまにか黒猫は振り返って、ついてきているのを見越しているかのように、じっと私の方を見つめていた。見られていると思っていなかった私は、ちょっと動揺して立ちどまる。どう見ても黒猫だ、と目の前の実体に、見たものの自信がたちまちなくなっていく。黒猫は見つめたまま、私の言葉を待っているようだった。


 あの、こんばんは。あの、一緒の電車にいて、見てしまったんですけど、あなたさっきまで、人間でしたよね。


 そんな言葉が思い浮かんだけれど、どう考えてもまともな会話じゃない。それを口にするのもためらわれるし、猫に話しかける行為も恥ずかしいし、つれなくされたら泣きたくなるだろう。

 見つめあったのち、彼は――本当に信じられないけれど、まるであきらめた風情で、


「仕方ないなぁ」


 と言った。

 猫がしゃべった。

 私はこれが現実なのか、どんどん確信がもてなくなっていく。何が仕方ないんだろうって質問する前に、黒猫はそのしなやかな体躯で私を見あげたまま、


「ついておいで」


 とささやく。

 瞳の冷ややかさに比して、意外なほど優しい声だった。



 夜の底は、四月でもまだ冷える外気にうっすら包まれていて、酔って熱かった頬が、風に抜けてどんどん冷えていく。どこまで行くんだろうといぶかしんでいると、ひとつの大きな建物にたどり着いた。白くぼんやり浮かぶさまがまるで要塞のよう、と感じた直後に、それが校舎であることが分かって私はうろたえる。


 ここって、学校でしょう? 今から学校に行くの? と呼びかけようとしたけれど、黒猫は振り返りもせず先に行ってしまう。私を確かめないけれど、ついてくると分かっているのだろう。しぶしぶ何も聞けないまま、迷いない足取りで進む彼の後ろ姿を、見失わないように追うだけで精一杯だった。


 夜の学校なんて入ったことないな、と私は懐かしさよりも得体のしれない怖さを感じて、足がすくみそうになるのをこらえながら歩いた。少し早歩きじゃないと、おいていかれそう。ついておいでって、私に言ったくせに。そんな拗ねるような気持ちになる。深夜の闇のなかで、白い校舎のたたずまいは、まるで誰かの悪夢のなかのよう。

 運動場を横切ると、花壇の植え込みや、小さな噴水や、水飲み場や、石のモニュメントまでが私たちが歩いていくのをじっと沈黙して見つめているような、そんな居心地の悪さにおそわれる。『学校の怪談』っていうドラマを私は思いだして、あわてて首を振る。


 いったい何に誘われているのだろう。正体を知りたい気持ちと、同時に知りたくない気持ちがあって、恐怖心がこれ以上ふくらまないように黒猫のビロードのような毛並みを一心に見つめて歩いた。


 夜の学校なんだもの。きっと誰もいない。誰もいないし、鍵がかかっていて、たぶんどこからもなかに入れない。そう思っていたのに、どういうわけか、庭に面した部屋の引き戸が細く開いていて、まさかなかに入るつもりなの? って問いかける前に、黒猫はすべるように校舎の内側へ吸い込まれていく。ここで立ちどまって取り残されたくない気持ちの方がまさって、私も隙間に入り込むしかなかった。


 当直の先生とか、今もいるんだろうか。誰かに見つかったら、なんて言い訳すればいいんだろう。あ、子供がいることにして、忘れ物を取りにきたとかはどうかな(こんな深夜に?)

 それとも、本当のことを話せばいいんだろうか。

 あの、黒猫が、もともと人間だったんですけど、黒猫に変わってしまって、気になってここまでついてきてしまって(だめだ、頭がおかしいと思われる)


 そんなどうしようもないことをぐるぐる考えていたら、冷たいコンクリートの廊下を抜けて、つきあたりの階段を黒猫は登り始めた。



「待って、どこに行くの。何をしに行くの」


 耐えられずに、私はほとんど叫ぶように黒猫に問いかける。

 黒猫は登りかけた階段の途中で静かに振りむくと、


「思い出を殺しに」


 とだけつぶやいた。

 見たこともない冷酷な感情が、青い炎のように双眸に宿っていて、私は一瞬何も言えなくなった。それはどういう意味? と聞きたかったけど、黒猫はかまわず先へ行ってしまう。待って、待って、おいていかないで。そう言いながら、私も階段を登った。


 夜空には、相変わらず三日月が浮かんでいる。

 なんだかいやな予感がして、自然とどうしようもなく脈が速まった。足がしびれたように動けなくなりそうで、その理由がまだ分からなかった。この先に行きたくない。急激にそう思って、その恐れを私は知っているような気がした。黒猫の後ろ姿が誰かの背中と重なった気がしたけれど、それは遠い幻のようにどこかへ消えてしまう。


 たどり着いた場所はひとつの教室で、○年○組、と書かれたプレートの煤けた色がリアルに胸にせまって、息が苦しくなった。

 何かの気配がする。

 闇にうごめく影のようなもの。


 辺りは暗い薄闇がたちこめていて、ぞわっと全身に鳥肌がたつような、たくさんの視線を感じた。ドアは開いていて、うごめくものの正体を、私は直視することができなかった。でも、目を伏せたままでいたら、あっというまに闇に呑まれそうで、私はおそるおそる目を見開いて、影の姿を見きわめようとする――と、闇の底がまるで抜け落ちるように、かすんだ風景が二重写しになって教室に現れた。


 ノイズのようなささやき声がして辺りを見回すと、濃紺の制服を着た生徒の輪郭がいくつも浮かびあがる。刺さるような視線を感じるのに、生徒の顔には目も鼻もついていなくて、ただ嘲笑と侮蔑を含んだ冷たい笑みだけが口元にはりついている。空に浮かぶ三日月と同じように。


 声にならない叫びが喉元をせりあがって、叫びたいのに声がでなかった。そして唐突に、今までとても恐れていたものの正体に気がついた。

私は、この風景をどこかで知っている。


 その記憶がたちあがったせつな、誰かが守るように私の傍らにいた。

 その気配はこの空間の、たったひとつの確かな光に思えて、見るとさっきの黒猫が気遣うような仕草で見あげている。私は胸の奥に明かりが灯る気がした。彼がいるから、もう大丈夫だと。


 ――と、まわりの影がひとつの集合体のように悪意を呑みこんで、うねりになっていく。

 黒猫は、激しい憎悪の混ざる氷のような冷ややかさで、影がふくらむのをじっと見つめていた。これがどういう名前の影か私は知らないけれど、彼の言葉を借りれば、《思い出》なのだろう。

 彼が殺したいほど憎んでいる思い出。闇が大きくなると、その中心に、ひらめくようなかすかな光が見えた。明滅しながら弱々しい光をはなっている。一度その光を意識すると、まるで祈るような、救いを求めている光のように映った。


 だめ、いけない。行ってしまっては。無数の影に呑みこまれて、二度と外に出られなくなってしまう。


 私は黒猫をひきとめたかったけれど、どうやっても足が動かなかった。彼がしようとしていることが分かって、全身が総毛立つ寒気におそわれる。

 彼は、あの光を救うつもりだ。たぶん自分の光と引き換えに。生きていくための大切な灯火を、《思い出》がまとう闇に明け渡そうとしている。そんなことをしたら、深い闇は彼を取り込んで、一生消えない澱みになってしまうのに。


 彼にとっては、あの光が一番大切なのだ。自分自身の光よりもずっと。だからすべてを投げうって、あの瞬きに近づこうとしている。黒猫の姿になったのは、これが彼の悪夢のなかだから。夢から覚める唯一の方法は、きっとあの光を救うことで、でもその小さな瞬きは、いつまで経っても手に届かない。届かないと知っても、彼は変容する。嘲笑の三日月が夜空に浮かぶたびに。

 《思い出》のなかの光を救いたくて。


 私はたまたま彼の生みだす次元のなかにいて、一緒に夢に取り込まれてしまった。でも、それならなぜ既視感を覚えるのだろう。やわらかそうな黒い毛並みが、誰かの背中と重なるのだろう。彼は、《思い出》の闇を切り拓こうと小さな前脚を伸ばす。もうそこには無数の傷痕があって、彼が何度も光に触れようとしたことが、注視すれば分かるようだった。



 彼が闇のなかに、かき消えそうになる。

 瞬間、金縛りが解けて、思わず彼の背中を抱きしめていた。

 やわらかな毛並みを想像していた私は、実際よりも大きい、その背の確かな温もりに唖然とした。気づいたら彼は黒猫じゃなくなっていて、ひとりの男の人に戻っていた。


 闇のなかの光は小さくなって、消えていきそうだけど、それすら悪夢の一部で、彼が生みだした幻想のひとつにすぎない。

その光すら、《思い出》が見せるまやかしにすぎないのだ。そう思うと、影に縛られている彼を救いだしたくて、私は夢中で背中を抱きしめた。


 どうしてだろう。たまたま向かいに座っていた人にすぎなかったのに。どうして、彼が闇に消えていこうとするのを、私は見ていられないのだろう。顔を見たいけど、その姿勢のままじっとしていると、すぐ近くでほほ笑む気配がして、私は唐突に彼を思いだした。


 彼は――××君だ。

 中学のときに同じクラスだった。どうして今まで忘れていたのだろう。両目から透明な涙があふれだして、なぜかとまらなかった。彼も私も、目に見えない悪意のなかにいて、お互いの光を近くで感じながら、そこから抜けだすことができなかった。私はまだずっと幼くて、彼が傷つくのを、ただ見ていることしかできなかった。淡い恋心を、宝物のように胸に抱きしめたまま。


 彼はあまりにも、《思い出》に触れすぎていて、その影の残滓がすでに心の中心に巣食っている。その冷たい核を、私の熱で溶かしたいとさえ思ってみたけれど、そうするにはもう時間が足りなかった。ただ抱きしめたときの感触で、彼に受け入れられたことが、信号のように直に伝わって、その気持ちに胸が熱くなる。


 きっとこれは神さまが与えてくれた、奇跡のような邂逅の一瞬で、この夢が覚めたら、もう二度と会えないのかもしれない。それとも通勤電車が同じなら、また会えるだろうか。同じ電車に乗る可能性が、少しでもあるのなら。

 黒猫になる前の姿を私は知らないけれど、この背が××君で間違いないのなら、過去の痛みを分け合うことができたらいいのにと思う。こんなにも、このときの《思い出》に、名前のない侮蔑に、顔のない嘲笑に囚われているのなら。


 私が彼を抱きとめているあいだ、大きくふくらんだ影は曖昧な煙のように細くたゆたって、霧みたいに薄くなっている。それは、彼の心が凪いでいるからだと分かった。夢が遠のいていく予兆がして、もう一度力を込めようとしたけれど、そのときはもう、ハッと目覚めたあとだった。



 私は相変わらず電車に乗っていて、(助かった)気づけば次が、終着駅だった。

私が降りる駅。向かいに目をやれば、黒猫も、黒猫になる前の彼も、大事な部分が抜け落ちた絵のように消えてしまっている。もう二度と会えない予感に、胸が締めつけられた。

 彼は彼の悪夢のなかにいて、ずっと覚めない夢を見ているのかもしれない。共有する記憶。闇のはびこる、冷たい《思い出》の底で。


 あの弱く光っていたのは、私の心の一部だ――と、まるで目が覚めるようにそう思った。あんなにも弱々しくて、目を凝らさなければ気づかないような、誰にも顧みられないような、そんなちっぽけな瞬きでしかないのに。


 そのとき小さく泣いていた気持ちを、彼はずっとずっと覚えていて、未だにひとりであの夢に立ち向かって、救おうとしてくれているのか、と思うと、彼への想いが静かにあふれてくる。淡い恋とも呼べない気持ちを、本当に久しぶりに思いだして、あり得ない形で過去を見たことが、未だ本当に信じられなかった。

 うたた寝したときの夢で終わらせるには、その情景は私の記憶と深いところで結びついていて、どうしてこんなことが起こるか分からなかった。《思い出》のなかの弱い瞬きに彼は呼ばれていて、その原因が私にあるのなら、一緒にまた悪夢に飛び込みたい気持ち。


 あんなに怖かったのに、彼の存在を意識した瞬間、怖くなくなった。

 それよりも彼が闇に縛られたまま、消えていきそうになる背中が、その光景が一番怖かった。思えばあれが私の初恋で、あれほどの純粋さで誰かを慕ったのは、あのときが最後かもしれない。最初で最後の、特別な恋だった。話しても誰にも信じてもらえないし、話せそうにないけど。


 夢のなかの彼はとてもさみしそうで、あの冷たく燃えるような瞳には、声にならない慟哭が含まれていた。すぐ隣にいても、触れられないような危うさ。彼も私の正体に気づいてすらいなくて、でも最後、抱きしめた瞬間に、まったく同じ気持ちでいたことが分かった。

 遠い日の憧憬。冷たい教室のなかで、お互いを、唯一存在するかけがえのない光のように思っていたことを。その想いは悪意にさらされて、思いだすたびに軋むような痛みを伴うことを。それなのにずっとずっと大切で、手放すことすらできなかったことを。


「大丈夫」って声をかけることができたらよかったのに。

 私はもう《思い出》から離れていて、夢に出てきた弱い瞬きは遠い過去の一部でしかなくて、囚われなくていいということを。黒猫の姿の奥底に、私しか知らない××君がいて、本当に救われたいと思っているのは彼自身であることが、夢のあわいに見えるようだった。


 彼は《思い出》の弱い光を手に入れてみたいのだ。

 その光と繋がることができれば、本当の彼自身も《思い出》からきっと自由になれる。でも、いつまでも光は届かない。それはあの悪夢が、彼の内から生みだされたもので、だからこそ救いはもたらされないまま、何度も傷つきながら、手を伸ばすことしかできないのだ。


 終着駅に着いても、私はボーッと座り込んだままで、見回りに来た駅員の人に不審に思われてしまうほどだった。


 そんなぼんやりした気持ちのまま、不意に彼がまだあの夢のなかに取り残されている気がして、そう思うと、いてもたってもいられなくなったけど、そう思ったところでどうしようもなかった。


 次の日は、まぶしい光を内包した青空。

 私は夢の校舎に行きたいと思ったけれど、通っていた中学は通勤電車の途中なんかにはなく、県をまたいだずっと東の場所だ。やはり次元が歪んでいたか、夢のなかの特別な場所なのだろう。降りた所は無人駅だったけど、よく考えれば、途中にあそこまでさびれた駅はないはずだった。その辺り、やっぱり現実とは違うんだろうなぁってがっかりする。



 あっという間に週末は過ぎていって、週明けの月曜日に彼の姿を探してみたけれど、どこにも見当たらなくて、その前に黒猫になる前の彼の姿を、どうしても思いだせないことに愕然とした。

 覚えているのは、温かな背中と、乾いた落ち葉のような懐かしい匂いだけ。でもまさか、似た輪郭の人を捕まえて、背中を抱きしめてまわるわけにもいかない。その感触だけは夢だったのに確かに覚えていて、触れたらすぐに分かる気がするのに。

 そう思うと、スーツを着た男の人すべてが彼の幻影のように思えてきて、いつのまにか目で追っている。誰を探しているかも分かっていないのに、誰に会いたいかはハッキリしているなんて、ずいぶん不思議な状態だな、と思いながら。



 次の三日月の夜がやってきたとき、私はハッと気づいた。

 あのとき空に浮かんでいた月は、まるで舟みたいに、本当の口のように向きが90度違っていたことを。現実ではあり得ない角度で空に浮かんでいた。あのとき会えたのは、やっぱりあれが、彼の夢のなかだからだったのだ。そうでなければ、月の角度が変わるはずもない。


 目を閉じると、車内で立ち上がる男性の気配がして、それが誰の姿かも分からないまま。忘れられない思い出を抱きしめて、ひとりで歩いていく彼の姿を思い描こうとしても、黒猫の姿でしか浮かばなかった。


 夜道を横切るのが黒猫だったりすると、「あなたは、あのときの黒猫?」なんて聞いてみるものの、当然のように黒猫は答えない。


 仕事帰りに見かけた黒猫から目がはなせなくて、質問した私は本当の意味で落胆したくはなくて、しばらく後ろ姿を目で追っていた。けれど、黒猫はそんな私の屈託なんて気にもとめず、ただ「みゃあ」と鳴くと、どこまでも続く夜のはざまへ溶けるように淡くまぎれていった。




                                 


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