マルグリット&トレミエール・ファーマシ

 昼下がりの街は暖かいけれど、秋の気配が潜んでいて、頬に感じる風はどこか冷たい。

 学生街を抜けて、ニーズー繁華街へと向かっている。

 行きたいところがあるんだ。


『マルグリット&トレミエール・ファーマシー』


 華街の路地を曲がった所にある、赤レンガ造りの建物に、そっけないオークの木の看板がぶら下がっている。

 話を聞いていなければ、何の店かわからなかっただろう。

 家庭用薬品と香水、それにメイク用品を主商品としたこじんまりとした個人店…らしい。

 クラスのみんながよく話しているのを小耳に挟んでいた。


「あ。なんかクラスで話題になってる店だ。なんか珍しいね、エカルテからこういう所に行きたがるのって」


 シエルが看板を見上げながら言う。


「うん。行ってみたかったんだ。みんな、行ってるって聞くから」


「何か欲しい物あるの?」


「……え!? えっと」


 訊かれて、心臓がどきりとした。具体的に何を買うのかなんて何も考えていない。香水の種類なんて知らないし、つけ方すら知らない。もちろん、メイクだって。それがばれるのが嫌で、


「な、なんかおしゃれなもの!」


 シエルの目を見ずに答えた。

 みんなが行っているなら、オレも行かないといけない気がした。

 シエルに、オレだってもう大人なんだって示したかったんだ。


 おしゃれも、恋人も、将来どんな職業につくのかも、最近良く話題に上がる。

 オレの知らない話でみんなは楽しそうに笑っている。


 オレだけが子供なんだ。

 オレは、未だに自分が男か女かも決められないのに、みんなはどうしてもう将来のことなんて考えられるんだろう。

 全然、わかんないよ。


「そっかそっか。おしゃれか。じゃあ入ろう? エカルテ」


 シエルが、あやすような声を出してオレの手を引く。

 また、妹…子供扱いされてる気がした。

 オレだって、こんな店ぐらい入れる。

 むっとなって、逆に彼女の手を握り返して、先に歩いた。


「うん! はいる!」


「うん。入ろう」


 大見栄切って、古めかしいすりガラスのはまった扉に手を当てる。

 緊張していた。

 だってこんなところ、来たことないし。おしゃれとか、わかんないし。

 なんでこんなところにきたんだっけって、今更頭の奥で冷静な部分が喚いている。

 顔が熱いし、心臓の音はシエルに聞かれそうなぐらい、どきどきしていた。


 ぎい、と大仰な音がして扉が開く。

 柑橘系とカモミール混ざったような甘い匂いと、化粧の独特の粉っぽいような匂いが、一気に鼻孔に飛び込んでくる。

 なんだか、大変な所に来てしまった。足が止まりそうになるのを無理やり前に進めた。


 木棚に飾られた色とりどりの小瓶達。たぶん、香水?

 他の棚にはよくわからない鉛筆のようなもの。…ハケ? 粉? なにこれ? 

 あ。口紅はオレでもわかる。


「らっしゃーい……またガキか。最近多いな」


 カウンター越しに、店主と思しき女性は露骨に舌打ちしてきた。

 ピンクと黒と金色。奇妙に染色されたショートカット。

 年は20そこそこに見えるけれど、本当はもっと上なのかもしれないし、若いのかも知れない。

 気だるそうにカウンターに寝そべりながら、顔だけでオレ達を見上げていた。


 あああ!

 帰りたい。

 帰りたい! なんで私はこんなところに来ちゃったの。背伸びなんてしてごめんなさい。

 本当はおしゃれなんてよくわからないんだ。

 

「エカルテー。見て見てこっちの小瓶かわいいよ」


 シエルは気に留めずさっさと店の奥に入っていってしまって、私は慌てて後を追った。「ま、まってよ!」


「かわいい……?」


 シエルの横にならんだ木棚に飾られたそれは、ヘビが刻まれたド紫の小瓶。

 かわいい?


「かわいいでしょ! ヤスデムラサキガの香り、だって。うわっ、たかっ!」


「だれが買うんだこれ……」


 値段を見ると、目が飛び出すほど高かった。紫色の液体がぐるぐると渦巻いていてすごく不気味だ。

 しばらく、店内をふたりでうろうろと歩いた。

 シエルに言った手前、なにか買うつもりだったんだけれど、用途すらわからないものばかり。

 そしてどれも、学生のちょっとした手伝い程度しか収入のない私達にとっては、そこそこいい値段がするものばかり。

 

 どうしよう。

 なにか、なにか、おしゃれなもの。

 大人っぽいもの。

 やっぱり、メイク用品?

 …使い方わかんないよ。


「おーい。お二人さん。なにかお探し?」


 店員の気だるそうな声に、


「すみません、ちょっと見させてもらってます」


 シエルは明るく返事をして


「は、はひっ。な、なんか、かいます!」


 私は飛び上がらんばかりに驚いた。

 やばい。こいつ何も分かってないってばれたかも!


「んー……あー……」


 店員が頭をかきながら立ち上がって、のっそりと私達の方へと歩いてくる。

 そのじろりと睨む眼光は迫力があって、彼女の体がとても大きく感じられる。

 尻込みするオレに向かって、店員は鼻から抜けるような声で言った。


「おい、小さい方。なんか買うの?」


「は、はい」


「メイクでもはじめんの? 最近教えてって学生がよくくるんだよ。あんたもその口かい」


「えっと……」


「……」


「……」

 

「…なんか言えよ」


「いえ……。なにか……安い……ものを」


 あああ。最悪だ最悪だ最悪だ。

 シエルに大人っぽいところを見せるどころか、恥ずかしいところを晒してる。

 しどろもどろだし、頭の中真っ白だし。言いたいこと何も言えないし。


「んー……あー……まあ……その、なんだ。ちょっとまってな」


 店員は呆れたのか、笑ったのか、良くわからない顔をして別の棚の方へとすたすたと歩いていく。

 私はズボンをぎゅっと握って顔を上げることができなかった。


「何持ってきてくれるんだろ! 楽しみだね」


「う、うん」


 シエルの明るい声。どんな顔してるんだろ。

 このまま無限に小さくなってしまいたい気分だった。

 

「ほら。あんたら、あー名前なんて言うの。あたしはマルグリット。名前の通り店主」


「…エカルテです」「シエルっていいます」


「そうか。小さい方がエカルテね。おい、エカルテ。これとかどうよ」


「え?」


 顔を上げると、マルグリットがにかっと歯を見せて笑って、私に小さなレモン色の小瓶を手渡してくれた。手のひらに収まる程のとても小さな小瓶で、向こうが透き通っていてとても綺麗だった。


「イランイランやレモンの香りを基調にしたオーデでね。あんたのイメージ。うちはその人のイメージに合った香水の調合する事が元々の生業でさ。あたし一人でやってんだけど、これでも結構名が売れていてね。知らないで入ってきたんだろ?」


「……はい」


「だと思った。入ってきた瞬間からそれっぽいし。無理してる感がありありっつーか」


 ははは、と大きく笑うマルグリットを前に、オレはただただ顔を赤くする事しかできなかった。

 何もかも見透かされていたような、恥ずかしさだ。

 オレがうつむいていると、マルグリットは急に声を和らげ私の頭を軽く撫でた。


「まあ……なんだ。事情は正直良くわかんないけどさ、無理すんなよ。本当に必要としたときは、メイクなんて何歳から始めてもいいって、あたしは思ってる。だからさ。あんたがまた本当にしたいっておもったときにまたおいで。ちゃんと教えたげるからさ」


「私は……無理、してますか?」


「そう見えるね」


「……そう、ですか」


 否定も、肯定も、できなかった。

 昔は女のふりをしていた。それは、生きるため、トラブルを起こさないためだった。

 今は、違う気がする。

 兄も、シエルだって、皆が自分の道を見つけていく。

 それなのにオレは自分の事を何一つ決められない。


『子供みたい』


 誰かに言われた言葉が、ずっと胸に刺さっている。

 子供のままじゃだめだ。ただ不安で、焦る。

 みんなに早く追いつきたい。シエルに追いつきたい。

 それならもういっそのこと女でも男でもどっちでもいいんだ。

 皆の真似をして、皆と同じようになりたかった。


 

「おいエカルテ。それ、やるよ。付け方おしえてやる。オーデだから平気だろうけど付けすぎると大変なことになるからな」


「え!? でも……」


「でもじゃねえよ。良いんだよ。おい、シエル。あんたにもなんか見繕ってやるよ」


「わたしも!? 嬉しいですけど、なぜですか?」


「んー……あー……。なんか、二人を見ていたら昔を思い出した。そんだけだよ。深い理由なんかない」

 

 マルグリットはそう言って、懐かしそうに、どこか悲しそうに遠くを見る目をした。


 ……。


「もう、ほとんど匂いしないね」


「う、うわっ。急になに!」


 街に戻って、あちこち歩きまわっていたら疲れを感じ、学生街の『たまねぎカフェ』を目指していた。道中、橋を渡る最中、急にシエルが私の首筋に鼻を寄せてきた。

 びっくりしたし、くすぐったくて身をよじった。


「マルグリットさんの言ったとおり、これってすぐに匂い消えちゃうんだなーって思って」


「自分じゃ、良くわかんないけど。急にかぐのはやめてよ……汗臭いと嫌だし…」


「じゃあ、わたしの匂いもかいでいいよ」


 シエルは両手をひらいて、挑発的な目をしている。絶対やらないって分かりきった目だ。

 オレだって、いつまでもガキのようにどぎまぎしたりしない。


「いいよ」


「え?」


「かぐから」


 ずい、と体を寄せるとシエルが珍しく驚いたような顔をした。


「え。本気? ちょっとまって、エカルテ」


「シエルはいつもわたしを妹扱いして!」


 一歩進む。

 シエルが一歩後ずさる。


「待ってってば!」


「私だって、もう子供じゃないんだからこれぐらいやるよ!」


 さらに踏み込む。欄干にシエルの背中がぶつかって、ついに逃げ道を失くした。


「え、エカルテ。待って。わたしが悪かったから」


「だって、シエルだってやったじゃん!」


 ついに追い詰められたシエルが、両手を振って慌てふためいている。シエルの首筋に背伸びをしないと届かない事実に地味に傷つきつつ、両手を掴む。

 そして、シエルの顔が真っ赤になっていることに、ようやく気づいた。


「……本当に恥ずかしいから。心の準備、させて」


 目をそらし、薄っすらと涙を浮かべつつ、彼女は小さくつぶやいた。

 彼女は見たことのない顔をしていた。

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