汚い透明な紫
夏緒
第1話
なぜ私が、最愛の恋人がいるにも関わらず、一方でこんな男なんかと布団にはいるのかといえば、理由はいたってシンプルだ。
相手も他の女と寝ていることを、私が知っているから。そして、私がまだ、若くてきれいだから。
私がその畳にじかに敷かれた湿った布団の上でぼんやりしていると、頭もとの窓のほうでカチッ、と、安いライターに火をつける軽い音がしてから、次には雨のにおいと一緒に、白くて苦い煙りが漂ってくる。
肺までは吸い込んでいない。だって私は、私の男が私のとなりで煙草を吸うとき、吐き出された煙りの色が白くないことを知っている。肺の奥まで深く吸い込まれた煙りは、出てくるとき、少し濁った灰色をしているのだ。
圭介が煙草を吸うのは、彼のまわりに人がいないときだけだ。私は、圭介にとっての、気をつかうべきまわりの人たち、には、当たらない。
寝そべったまま軽く頭を動かすと、汗ばんだ自分の髪の生臭さと、さっき開けた窓から流れこむ、梅雨の昼間特有の湿った土みたいなにおいと、吸われ慣れていない煙草の煙りが重なり合って、部屋の中になんともいえない独特の気怠い空気を醸し出していた。この体をじんわりと重くしていくにおいは、私をとても楽な気分にさせた。
圭介は窓際に胡座を掻いて、少しばかり面倒臭そうな顔をしている。伸びたぼさぼさの髪を軽くかいて、窓外に吐き出したはずの煙りが部屋の中に戻ってくるのを見つめている。頭はぼさぼさなのに、髭だけは丁寧に剃っている。足下に用意された、透明なガラスの灰皿は、あまり汚れていない。
圭介は私の友人である。同じ大学に通っていて、違う講義を受けていて、タイミングが合えば一緒に昼食をとる。そして、私が圭介の部屋を訪れると、決まって私たちは布団を汗で湿らせる。
短くなった煙草をぎりぎりのところまで吸いながら、圭介はぽつりと、
「腰が痛い」
と呟いた。
ああそう。私が気のない返事をすると、圭介はあからさまに嫌そうな顔をした。だがそんなに深く眉間に皺を寄せられても困る。その台詞を聞くのは今日すでに六度目だし、そもそも彼の腰痛の原因は、決して私ではないのだ。
座りすぎ症候群だ。
友人の誠一郎は、あたかも鬼の首でも取ったかのような顔で盛大に笑ってそう言った。
誠一郎は圭介の唯一の友人といっても過言ではない男で、いつも清潔感に溢れた格好をしている。圭介とは正反対のようなやつだ。
その日も白と青のストライプシャツに白のチノパンという、まるで初夏のような眩しい服装をしていた。
誠一郎が言うには、近頃大学で圭介をさっぱり見かけないので電話をかけてみたところ、聞こえてきたのは瀕死のかえるのような呻き声だったらしい。なんでも三日三晩パソコンの前に座り続け、文字通り寝食を忘れて過ごしたら倒れて動けなくなってしまったというのだ。
私たちは腹が捩れそうなほど笑った。いつもまわりの人間を小馬鹿にしたような態度の男が、筋肉の緊張と空腹によってひとりで倒れていたなんて。
誠一郎が気づかなければ、もしかしたら本当に死んでいたかもしれない。
それからずっと布団に横になっていたらしい。医者からは散歩をするように言われたらしいのだが、それがいかにも年寄り扱いをしているように聞こえたらしく、癪に障ると言って病院帰りに買い込んだポカリスエットとカロリーメイトで飢えをしのいでいたというのだ。
「ばっかみたい」
思い出して吹き出しそうになりながらつい本音を漏らすと、圭介は苦いものでも噛み潰したかのような顔で大きく舌打ちをした。慌ててごめんと口だけで謝ってはみたが、彼は相当虫の居所を悪くしたらしい。
「きみのような無神経な女に労りを求めたぼくが間違いだった」
まったくその通りだと思いながら、私はようやく布団の上に起き上がった。上半身は服を着ている。下半身は下着もつけていない。
私は遠くのほうまで放り投げられた自分の下着に手を伸ばす。
「無神経でごめんなさいね。でも誠一郎には感謝すべきと思うよ。わざわざ車で病院まで連れていってくれたんでしょう」
「終始隣で笑いながらな」
圭介は灰皿で、すっかり短くなった煙草の先端を捻り潰した。
私の穿いてきたジーンズが皺くちゃになっている。本当に自分のもの以外に対しては扱いが悪い。私は軽く皺を伸ばしながら、右から順番に脚を通した。
「だいたいきみは何をしに来たんだ」
「だって運動に誘ってやってって言われたんだもの」
「あいつが言った運動ってこういう意味じゃなかったと思うよ」
「そんなことは分かってるわよ。脱がしてきたのあなたじゃない。そもそもどうしてそんなことになったわけ」
訊きながら、縺れそうになっている髪に、頭皮の近くから手ぐしを通すと、案の定毛先の辺りで指が引っかかった。最悪。
「こないだの焼肉屋に頼まれてたぶんの案件が、納期間近だったんだ」
「あー、あの、こないだ連れていってくれたところ」
「そう。ぎりぎり間に合ったけど、この様だから、データ送っただけで挨拶にもまだ行けていない。今度また顔を出しに行かないと」
「大変ね」
圭介は学生の傍ら個人でIT関係の仕事をしている。
つい二週間ほど前に、件の新しくできた焼肉屋から依頼があって、圭介はその打ち合わせに私を同行させた。理由は知らない。見栄でも張りたかったのか、その日は軽くその店で奢ってくれた。
恰幅の良い店の主人はまだ若そうで、わたしにオレンジジュースなんて出してくれながら
「彼女ですか」
なんて笑顔で聞いてくれるものだから、
「全然違いますよ」
と満面の笑みをつくって答えてやった。
圭介の仕事には興味がないからあまり詳しくは知らないのだけれど、どうやら店のホームページを新しくつくっているようだった。圭介が店の人たちと打ち合わせをしている横で、私はそれはそれは美味しい肉を一人で焼いて食べていた。
「あそこは近所だし、そこまで高い料金でもないから、今度彼氏とのデートにでも使ったら良いんじゃないか」
圭介が窓際からゆっくりと、それこそ本当に腰を庇うようにして立ち上がり、布団の上に戻ってくる。私は縺れてしまった毛先をなんとか解そうと指で弄っていたのだけど、圭介はそんなことお構いなしに私の横にごろりと寝転んで、さあお前も横になれと言わんばかりに下から腕を引っ張ってくる。
私は仕方がないという態度を取りながらも、素直にそれに従って圭介の横に同じように寝転んだ。
当たり前のように腕枕に頭を乗せると、宙ぶらりんになった圭介の手が私の髪の毛先を弄ぶ。
「それは難しいかなあ。あそこはあなたと一緒に行ってしまったから、仮にあの人と行ったときに、店員さんたちがおかしなことを言い出したりしたらたまらない」
「ぼくの彼女ではないと明確に否定していたじゃないか。細かいところまで気にするんだな」
「ボロは出さないわ。私はあの人みたいに隠し事が下手ではないの。あの店の人たちは、愛嬌にかまけてとても口が軽そうだった」
「ボロを出したくないのであれば、ぼくとこんな関係を続けていることからまず見直すべきでは?」
「あらだって、ここには私とあなたしかいない。あなたが話さなければ、誰にも知られないわよ」
「嫌な女だ」
「ありがとう」
褒めてないよ、と呟いてから、圭介は私にキスをしてくる。私は別に嫌でもないから、触れてきた唇を同じように吸い返してみたりする。圭介は深追いはしてこない。だからこそこの関係をだらだらと続けることができる。
「明日は大学、出てくるの」
「明日は午後からひとコマあるだけだから、多分行かない。だからきみは今からここに長居することができる」
「そんなに長居する予定はないかな。あの人から連絡があるかもしれないし。日数足りなくなっても知らないわよ」
「取り計らってもらうさ。あの教授とは仲良しなんだ」
「あんな人と? ……悪趣味」
「きみだって去年の夏期集中講座でセコい真似をしただろう」
「外部の教授が、ディナーに付き合えば単位をやるって誘ってきたから乗っただけよ。べつにご馳走になっただけでそのまま帰ったわ」
「そういうのをセコいって言うんだ」
「誘ったほうが悪いのよ。それに、あなたには言われたくない。わたしは講義をきちんと受けたわ」
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