喪失のむこうがわ

星 雪花

喪失のむこうがわ

 ナオトの体はまるで水みたいだ、と触れあうたびにあおいはそう思う。

 とらえどころがなくて、でも沸騰しているように熱くて、いつまでも身を沈めたくなってしまう。ナオトとつながるとき、体の輪郭は少しずつ溶けていって、どこまでが彼でどこからが自分なのか、曖昧になる感覚が葵は好きだった。


 昼間の寝室は、いつも明るすぎる。

 カーテンを閉めても隙間から夏の陽射しがまっすぐ差しこんで、光にさらされながら、すべてを見られていると思うと、羞恥心に頬が熱くなる。けれど、そのうちにそんなことは、どうでもよくなっていくから不思議だった。

 そこには己と、彼の固有の肉体だけがあって、それはとてもシンプルなことだった。それだけが葵にとっては確かなことなのだ。触れられる体があって、彼の一部と密接につながって、まるでふたりでひとりの人間みたいに脈動していることが。



 ナオトが誰なのか、葵はよく知らない。

 年齢は二十代半ば。平日に休みが取れる職種だろうということ。既婚なのかもしれない。子供もいるのかも。そんな現実のすべては、しかし葵にはどうでもいいことだった。


 葵の左手の薬指にはめられたプラチナリングが、窓から差しこむ陽射しに照らされて、一瞬白い光を反射する。つながれる体があること。葵にとって一番大切なのは、そのことだった。


 自分の空洞を、いつも埋めていたい。

 その思考にたどりつくと、葵は分からない程度に口の端に笑みをもらす。


 本当に、どうかしている。葵はその気持ちを持て余したまま、振り払うこともできずに、漂流していることしかできなかった。彼の体は、誰もいない海上で溺れそうになるとき、思わずしがみついてしまうイカダのようなもの。そして葵はいつも思うのだけど、しているあいだは、まるで荒波のなかにいるみたい、と感じるのだった。




「電子レンジ使ってもいい?」


 シャワーを浴びたナオトが、バスタオルを巻いたかっこうで聞く。

 対して葵は、「どうぞ」とだけ答えた。目の前の人が二十代半ばだとしたら、私は十歳近く年上になるんだな、と非現実的な夢を見ているような気持ちで。


 葵は自分の家で、ナオトに手料理を振るまったりはしない。そんなことは妻と呼ばれる人がやることで、葵はナオトの妻ではないのだから、そんなことをやらされるのはごめんだった。ナオトは、おそらくコンビニで買ったお弁当をレンジで温めている。

 ピーッと音がして、カロリーの高そうな揚げたトンカツや、ご飯のぎっしりつまった――つまり炭水化物しか入っていないような、四角い容器のお弁当を取りだす。



「葵さんは、お昼すませたの?」


 早速、咀嚼そしゃくし始める目の前の恋人を前に、葵は冷たい麦茶を入れてあげた。


「まだ」


 少なくとも、こんな量の食べ物を摂取しようと思わない時点で、年の差がひとまわりあるんだな、ということを実感する。生きていく熱量の違いを見せつけられるような。

 葵は、その違いに安心する。

 ナオトは、触れられるけれど、ずっと遠くにある異物のようなものだ。その異物は一時的に一体化するけれど、本当の意味で溶け合うことはできない。これからも永遠に。



 昼食を終えると、恋人は帰っていった。

 セックスだけをする関係について、葵は考える。こんなふうに空いている時間に家のなかに招いて、いっとき交わって別れる。そんな習慣めいた関係性を、葵は気に入っていた。

 とても単純で、無駄がなくて、余計なことは何も考えなくていい。彼自身を知りたいと思わないことに、葵はときどき、なんてインモラルなんだろうと笑いだしたくなる。こんなことを自分に許しているなんて。




*


「べつに普通のことじゃない?」


 大学の頃から付き合いのあるあずさはそう言った。

 冷房がしっかり効いたフレンチレストランで、少し遅めのランチを食べながら。


「だって旦那さん、単身赴任でしょう?」


 葵はうなずく。三年前、一戸建てを買ったときの辞令で、葵はそこにひとりで住むしかなかった。ひとりで暮らすには大きすぎる家に。


「それで、月に数回しか帰ってこないんでしょう?」


「まあ、そうだけど」


 もう一度うなずいて、葵はあきらめたようにゴブレットの水を飲みほした。ウェイターがやってきて、さっそく水差しで水を注いでくれる。


 まあ、そうだけど。

 その言葉はおりのように居心地の悪さを残したまま、いつまでも消えてくれない。


 梓はバツイチだ。

 離婚して、もう二年くらい経つだろうか。その理由を葵はよく知らない。けれど年を重ねると、自分と似たような境遇の人としか話せなくなることは身に沁みて知っていた。

 子供がいるかいないかで女の人の人生はずいぶん違ってしまう、というのが葵の感想だった。どちらが幸福なのか、葵は分からない。けれど、ひとりきりであの家のなかにいると、無性に人恋しくなってしまうのは事実だ。


 そんなことは、何の理由にもならない。

 きっと誰かはそう言うだろう。

 分かっている。理由なんて、何も必要じゃないのだ。人が一緒にいることや別れていくことに、どうして明確な理由が必要になるのだろう。そして一緒にいるときよりも、離れていくときの方が、圧倒的に理由は必要になる。


 たぶん――葵は目の前の女友達を見つめながら思う。彼女もきっと、たくさんの理由を口にしなければいけなかっただろう。離婚するに至った原因と理由を。軽はずみな好奇心があるだけで、本当はそんな真相に誰も興味を持っていないのに。そのひとつひとつに、彼女はいったいなんて答えたのだろう。価値観の相違、だろうか。


 そんな想像をしていると、梓はなんでもないことのように不意に聞いた。



「それで今日も、その子と家で寝たの?」


 こういう直截な言い方も、葵は嫌いじゃなかった。葵は何も言わずに微笑んでみせる。そう、だから今日は昼食をとらなかった。おかげでちょうどいい空腹具合でいる。支払う金額分を、消化できるくらいの。

 梓は話題を変えた。


「旦那さんとは、同級生なんだっけ」


「そう。小学校からの」


 葵が言うと、梓はしみじみと目を細めてみせた。


「ずいぶん長く一緒にいるのねえ」


「本当に」


 その言い方に、葵は笑ってしまう。

本当に、夫婦というものは、どうして一生一緒に過ごさなければいけないのだろう。


 葵たちの場合、お互いを必要としなくなったわけではなかった。子供こそいないけれど――単身赴任になったことで、子供を授かる確率は着実に遠のいている――お互いをいたわりあう、理想的な形をつくってきたはずだ。長い時間をかけて。

 その事実に、葵は感謝している。はからずも、築きあげてしまったもの。



 梓と別れてから、葵はひとりで夕暮れのなかを歩いた。

 夕陽がけだるく生ぬるい最後の光を残して、名前も知らない町の彼方へ消えていく。


 いつからだろう。いつから私はこんなにも、ひとりぼっちだと思うようになってしまったのだろう。彼の愛が足りないと思ったことはなかった(それは、私の側の問題なのだ)

 まるでいつまでも漂流しているような、そんな気がしていることも。


*


 最初の彼との出会い――小学生のときのことを、葵は覚えている。

 給食の時間だった。緑色の黒板の隣に、『残さず食べましょう』と書かれた張り紙がしてあった。その言葉に気おされながら、しかし葵は、プラスチックのプレートの上に鎮座した物体を、どうしても食べることができなかった。

 濃い茶色で、ごつごつとしていて、硬そうで、いびつな形。それを噛んで飲みこまなければいけないと思うと、葵は臆してしまって、箸で取ることすらできなかった。



「食べないの、それ」


 前に座っていた男の子が、急にそう言った。

 葵は、はじかれたように顔をあげる。

「うん」とうなずいたのと、「じゃあ、僕もらう」と言ったのが同時だった。


 そのとき葵は、救われた気がしたのだ。

 どうしても太刀打ちできないものを、すべて取り除いてもらえたような。自分の給食を誰かにあげるのはいけないことだったけど、彼はそんなこと気にしないように、葵の分を全部たいらげた。ほれぼれするような食べっぷりだった。


 そのメニューはクジラの竜田揚げで、給食に登場するたび、彼は食べてくれた。その後、班が変わってしまっても。


 あの頃から、葵はよく食べる人が好きなのかもしれない。現実をちゃんと消化できる人が。障害を取り除いてくれる、というのが彼の第一印象で、結婚してからもそれは変らなかった。日常に訪れる、さまざまな厄介ごとから、文字通り彼は葵を守ってくれた。


*



 夕方に電話があって、葵はシチューを煮ているところだった。

 ひとりで暮らす最大の難点は、料理がしにくくなるところだと、一か月も経たないうちに葵は気づいていた。

 量を、どうしても作りすぎるのだ。このシチューにしたって、冷凍してもなかなか全部は食べきれないだろう。そういうとき、食べきれない分を恋人に分け与えることもあった。

 冷凍用のタッパーは一度も返却されなかったけど、葵はかまわなかった。それでまだ食べられるものを、捨てずにすむのなら。



「――元気?」


 スマホのむこうで、彼はそう言った。本当はビデオ通話だってできるけど、今までしたことはなかった。こんなに長いあいだ離れているのだから、そうしないことが不思議なくらいなのに。


「元気」


 と、葵は答える。いつもと同じように。

 彼がむこうがわで微笑む気配がする。それならよかった、と。

 今月あまり帰れそうにないんだ、と彼は言った。


「今月も?」


 葵はことさら驚いた声をだしてみせる。


「先月も数回しか帰れなかったのに?」


 ごめんね、と言う声は、本当に申し訳なく思っているようだった。ぼんやりにじんでいる水彩画の暗い線みたいに、上辺にかなしみが込められているような。でも有休は消化する予定だから、と彼は続けて言う。


「夏休みは、久しぶりにどこか旅行でも行こう」


「本当?」


 思わず予想以上に華やいだ声になって、彼は満足そうにうなずいた。


「どこに行くの?」


「どこでもいいよ。葵の好きなところ」


「じゃあ、考えておく」


 そんなやり取りの最後に彼は、


「葵がそこにいてくれて、助かるよ」


 と言った。

 何でもない言葉だったのに、それは胸のやわらかな部位をそっと突き刺した。


 それは、どういう意味? と、喉元まで出かかった言葉をかろうじて封印する。

 (私がここにいることで、彼のいったい何が救われるのだろう)



「会いたいね」


 と彼がささやいて、葵は反射的に「うん」とがえんじる。

 問題なのは、交わされる言葉の一端に、少しも本音が混ざらないことなのだろう。気持ちが離れてしまったわけでもないのに。


 電話が終わると、葵は唐突に会いたいな、と思った。そしてそれは今まで話していた彼ではなく、恋人の影になってしまうのだ。触れる目的でしか会わないのに。それにも関わらず。


*




 ナオトと初めて会ったのは、深夜だった。うまく眠れなかった葵は、コンビニへお酒でも買いに行こうと思いたって、鍵と財布を持って家を出た。

 二月の夜は底冷えする寒さで、ワッフルセーターにダウンコートを重ね着しても、冷気が足元から立ちのぼった。


 コンビニへ行く途中。

 数メートル前の植え込みに誰かが倒れていて、葵はギョッとした。人が倒れているところを見るのは初めてだったから。思わず駆け寄った。救急車、と思ったけれど、スマホは家に置いてきてしまった。



「あの、大丈夫ですか」


 揺り動かそうと背に触れたら、ずいぶんと冷たかった。

 触れた指先から腕にむかって、瞬間鳥肌がたつ。


 彼は目を開けた。

 迷子の少年のような、揺れる眼差しが葵の目と重なる。

 それがナオトとの、最初の出会いだった。



「あのときは焦ったよ」


 ひととおり体温を確かめあったあと、葵はナオトの隣で吐息交じりに笑った。


「死んでるのかと思った。だってとても冷たかったから」


 ナオトも笑い返す。

 あのときの出会いは、こうやって幾度となく話の種になった。


「冬だったしね」


 でも葵さんに拾ってもらえて、俺は助かった。

 そんなふうに屈託なく笑って、ナオトはついばむように唇にキスをした。


 飲み会で酔いすぎて、とナオトは言っていたけど、葵は直感的に嘘だろうなと思った。あそこまで飲まなければいけないことが、そのときあったのだ。現実が耐えられなくて、逃げだしたくなってしまうことが。


 葵は彼に触れたい、と思った。



『大丈夫ですか』


 その言葉があれば、許容されるように。

 何の問題もないかのように、葵はくり返し声をかけながら、家に招き入れた。

 そして、当然のように交じりあった。まるで最初から決められていたように。



 一度触れてしまえば、関係性はより明確になった。

 葵が欲すれば、ナオトは時間を見つけて家に来てくれた。不思議なことに、肉体的な関係に及んだ方が、気持ちが楽になった。そこにあるべき後悔は、いつも触れあうときの体温とともに、遠い彼方へ流れていってしまう。

 ただ目の前に存在している、その実体がすべてであるような。

 そんな錯覚にとらわれてしまうのだ。いつもいつも、どうしようもなく。こんなことは、やめなければいけないのだろう。



『やめなきゃいけないって、思っているんだけど』


 唯一事情を知っている女友達にそうつぶやいたとき、


『べつに普通のことじゃない?』


 と、梓は言った。

 本当に何でもないことのように。そんなことは些末で、取るに足らない物事であるかのように。でも、本当にそうなのだろうか。彼を裏切っているのに。

 ――たぶんこれは、裏切っているのだろう。たとえナオトを愛していなくても。


*



「愛している」と彼に言われたときのことを、葵は思いだす。

 一年前の夏。

 お盆を含んだ数日の休み期間に、彼は帰ってきていた。そして唐突に、地元の花火大会に行くことになった。最近ずいぶん行ってないし、と言って。葵は了承した。

 急だったから浴衣なんて用意していなかった。もし分かっていれば、ちゃんと準備したのに。大丈夫だよ。浴衣じゃなくても。彼がそう言うと、それもそうか、と葵は納得した。拘泥する必要もないみたいに。


 花火大会の会場まで歩いていく途中、どんどん人が多くなっていって、はぐれないようにいつのまにか手をつないでいた。

 真夏の夜空に、いくつもの色んな形をした花火がまぶしい光を放出させている。遅れて響く音。雑踏のなか、彼の背中が夕やみに紛れていきそうで、葵は泣きたくなった。たくさんの屋台の列を通りすぎながら。



 川べりまでやってくると、ふたりして、連続して打ちあがる光の華を眺めた。


「花火って本当に、久しぶりに見たな」


 そういう彼の横顔にも、光が反射している。

 うん、と葵は小さくうなずいてから、川面へ落ちていく光の螺旋を眺めた。



「流星群みたい」


「流星群?」


 彼が問い返す。

 葵はもう一度うなずく。


「夜空にいくつも光が流れていって」

 

 なるほど、と彼もうなずいた。


「じゃあ、何か願いごとしないと」


 願いごと? と今度は葵が問いかける番だった。


「流星群なら、流れ星ってことだろ?」


「願いごとか、何だろう」


 考えたのは、わずかな時間だった。


「あなたとずっと一緒にいられますように」


 葵はつぶやいてから、ハッとして口元をおさえた。


「願いごとって、口にしたら叶わないんだっけ」


「葵」


 そのとき彼は、葵の名を呼んだ。

 帰ってきてから、初めてのことだった。

 視線が交錯する。

 苦しげな表情だった。

 泣きそうな顔だ、と思った瞬間、自分も似たような表情をしているだろうな、と分かった。


 気づけば彼の顔はすぐ近くにあって、葵の頬に唇をよせて、そっとささやいた。

「――愛している」と。



 そのことを思いだすと、いつも胸の底が軋むような気がする。痛む、とまではいかない。でも確かにそこにある亀裂に、彼のはなった言葉が触れるのだ。


 ずっと一緒にいられますように。

 どうしてそんな願いを口にしたのだろう。そんなことは、自明のことなのに。


 結婚したときに、パイプオルガンのアヴェマリアが流れているなかで、そう誓い合った。この先何があっても、共に生きることを。


 それなのにどうして、ナオトを欲してしまうのだろう。厳密に言えば、葵が欲しているのはナオトですらなかった。いったい何をやっているのだろう。こんなことをしても、何にもならないのに。


*



「食べられないの?」


 小学生の頃、彼はそう言って、不思議そうな眼差しで葵を見つめていた。

 うん、と口ごもるように葵はうなずく。

 

「だっておいしくないし、見た目も苦手だから」


 ほとんど泣きそうな声で、葵はそう言った。

 でも食べないと、先生にしかられる。そう続けようとした矢先に、


「じゃあ、食べてあげるよ。これからもずっと」


 彼は請けあった。


「君を打ちのめすものは、全部食べてあげる」


*



 ハッと目覚めると朝になっていて、葵はベッドに横たわったまま、何も服を身につけていなかった。シーツはずいぶん乱れていたけれど、痕跡の片方であるナオトの姿はいなくなっていた。そのことに葵は、心からホッとした。とても長い夢を見た気がした。どこにも続かない夢を。



 彼も誰かの腕のなかにいるのかもしれない、と葵は考えた。

 別々に暮らし始めて、もう三年が経つ。その可能性は、充分あり得ることだった。この家にいない幾日の夜の時間を、一緒に過ごす相手がいても不思議ではない。



『葵がそこにいてくれて、助かるよ』


 彼はそう言った。

 少しおびえの混ざった声だった。

 まるで終わらない夢のなかにいて、現実に踏みとどまっていたいように。

(そのよすがが、私だけであるように)


 そんなことまで、分かってしまう自分が嫌だった。

 声の温度だけで知れてしまう。

 ビデオ通話は、できなかったのだ。それは今まで、故意に避けられていた。

 (私ではない誰かの影が、そこに紛れこむといけないから)


 妄想と言えば、その通りなのだろう。でもその考えは、考えれば考えるほど、現状を表しているようにも思えた。それでも夫婦というものは、その形を成し続けるのなら、共に生きていくものなのだろう。きっと、これからもずっと。


 朝の陽射しがまっすぐ降りそそいで、昨夜の情事の跡をすみずみまで照らしだしている。彼と一緒に眠らなくなって三年の月日が経つ。そのことに思いあたって、葵はしびれたように動けなくなった。



 ポロン、と軽く涼やかな音がして、スマホの画面が不意に明るくなる。

見ると、彼からのメッセージが通知として表示されていた。


『おはよう。元気? 良い天気だね』


 葵も、まぶしく光る窓の外を見た。本当に良い天気。

 晴天は、少し絶望に似ていると思う。それも恒常的で、穏やかな絶望に。


 うん、本当に良い天気だね。

 心のなかでそう返事をしたあと、葵は今まで一度も送ったことのない言葉をフリック入力した。



 『はやくはやく、ここに帰ってきて』


 (実体をともなう存在として、私に触れて。他の誰かとつながってしまう前に)


  葵は、泣きたくなっている自分に気がついた。


 ――そうか、私はさみしかったのだ。

 三年前、彼がこの家から出ていったときからずっと。ひとりで、どうしようもなく孤独で、さみしかった。それを表現することもできなかった。たとえば小学生の頃だったら、素直にそう言えたかもしれないのに。


 いつのまにか、物分かりのいい大人のふりをして、いくつもいくつも言葉を呑みこんだ。呑みこんだ分だけ心に亀裂が走って、その空洞を埋めたくてたまらなかった。同じように、さみしさに蝕まれている誰かと。触れれば触れるほど亀裂は深くなって、手に負えなくなった。自分の体なのに、開いた足や、腕が、他人のものみたいに思えることもあった。まるで静かに分離していくような。



『葵がそこにいてくれて、助かるよ』


 いつのまにか、その言葉を何度も反芻している。


 (彼の求める私は、ここにいるだろうか)

 本当はとっくの昔に失われて、亀裂に入りこんで、出てこられなくなっている気がした。もうはるか、手の届かないどこかへ。

得体のしれない亀裂をこじ開けて、《私》を見つけだして、掬いあげることができるのは、やっぱり葵にとっては彼しかいないのだ。最初から、ずっとずっとそうだった。


 彼も迷子になっているのかもしれない。

 スマホ越しの声は、不安定に揺れ動いていた。見失って取り戻せないまま、どこに続くかも分からない闇のなかを、ひとりでさまよっている途中なのかもしれない。


『はやくはやく、ここに帰ってきて』


 スマホに残った吹き出しを、葵は見つめ続ける。

 台詞はなかなか、既読にならなかった。と同時に、葵はそこに既読がつくのを恐れた。

 それで何も返事がなかったら? いったいどうしたらいいというのだろう。


 仕事だから、そんなに早く帰れないよ。


 たとえばそんなふうに言われてしまったら。


『君を打ちのめすものは、全部食べてあげる』


 夢のなかで、彼がはなった台詞。

 葵は目をつむった。

 今日も、とても暑くなりそうだった。蝉がどこかでせわしなく鳴いていた。同時に冬の冷たさを思いだした。植え込みで倒れこんでいたナオトの、氷のように冷たかった背中も。


 会いたい、と衝動的に気持ちが湧きあがって、誰に会いたいのか葵は分からなくなる。誰もいない寝室で横たわったまま。



 忍び寄るように、ゆるい眠りが訪れようとしていた。

 ふたたび夢のはざまに落ちようとするせつな、名付けられない倦怠と絶望のなか、ポロンとスマホが、もう一度短く鳴った。




 

                                



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