36「悪魔の遊戯」

 一気に四つの首が飛ぶと同時に怜は走り出した。目指した場所にはすぐに辿り着いた。そこが自分の居場所であり、帰る場所なのだから。


「おかえりなさい、怜、さんッ!!」


 最初に迎え入れた梓が気合いの声とともに怜の身体を丁寧にかつ急いで持ち上げ、空の背におぶわせた。


「おまえら、全力で走れぇーーッ!!」


 空の怒号とともに六人が一斉に床を蹴った。その背後はすでに血の池地獄の有様だった。運悪く大蛇型のバグ霊の頭近くにいた男は頭部をくわえられ、首をねじ切られて絶命した。大蛇型の喉に丸い物体が通っていく。瞬きすれば誰か一人が死んでいる。そのたびに絶叫が上がる。

 青年は獲物に逃げられてもなお、笑みを絶やさなかった。


「――逃がさないよ」





 自分たち以外にも逃げ出した人は大勢いたらしい。口々に泣き叫びながらチンピラたちも廊下を疾走していた。床に血の跡が点々と付いているところから、怪我をしている者もいるのだろう。


「死にたくねえッ死にたくねえよおぉぉぉ!!」

「とりあえず外に出ろッ!! なんとか外に出るんだッ!!」

「外に出てどこに逃げ場があるんだよッ!!? 外にだってあの化物どもがいるじゃねぇかッ!!」

「じゃあテメェはここに残ってむざむざ喰われるつもりかァッ!!? いいから黙って逃げ――」


 怜たちの前で二階から一階の階段を駆け下りていた男二人組の片方、その額が勢いよく貫かれた。踊り場に倒れた死体を前にしたもう一人が引きつった声を上げ、腰を抜かした。目の前の死から目を離せなくなってしまった男は、ゆえに気づかない。自分の頭が、バグ霊の口に包まれようとしていることに。

 グギャリと砕いたとも潰したともいえない音がして、血が飛散した。鉄錆の臭いがさらに深く濃くなる。丸い身体から生えたトゲを不規則に伸び縮みさせていたバグ霊はこちらに気づいたが、しばらくじっと見つめた後、どういう原理か勢いよくジャンプして窓ガラスを突き破り、外へ逃げていった。

 我に返った空が声を張り上げた。


「止まるなッ!! このまま外まで突っ切るぞッ!! こっちには三つも欠片があるんだ、逃げきれる希望がある!!」

「けどあんた、下にもどんだけバグ霊がいるのかわからないんですよッ!? ンな無謀なッ......」

「ああ、無謀だ!! どこへ逃げても無謀が待ち受けているだろうよ!! 俺は踵を返さねえ!! 俺の背に誰がいると思ってんだ!? 無謀を積み重ねた男・・・・・・・・・だぞ!?」


 「見習ってやろうじゃねえか!!」と空は階下に向けて猛ダッシュする。それに慌てて欠片を持った桜子が持ち前の俊敏さで追いかけてくる。恒輔たちも追ってきていた。


「あークソッ!! まさか出会って数日だけの人たちと命の一蓮托生とか聞いてねえよッ!!」

「ああ同感だ!! でも仕方ないぞ、林太郎!! この人たちの仲間になったのが運の尽きってやつだ!!」


 林太郎の嘆きに陽介が応えるが、そこに底なしの悲観はない。何せ二人とも、この絶望的な状況の最中で強気に笑っているのだから。


「ははっ、一蓮托生か!! 完璧じゃないやつらが集まって支え合い、一つの目的に向かってともに走るこの感じ!! 上等じゃないですかッ!!」

「怜、もう少しや!! あと少し辛抱せえよッ!! 絶対に死なせへんからなッ!!」


『守る必要なんてないんだよ、怜』


 廊下を疾走し、外を目指す一行。空の背で揺れながら、かつて誰かに言われたことを思い出す。

 ああ、本当だと、静かに目を閉じる。

 俺が守る必要なんてなかった。みんな弱くても強くて......なんだ、最初から俺は隣に並んでいるだけでよかったんだ。


「出口、見えたっ!」

「一気に駆け抜けろッ!! これで外に――」


 正面玄関から飛び出した彼らは――目の前の巨大な影を見上げて固まった。

 縦横ともに首が痛くなるほどの大きさを誇るそのバグ霊は、その巨大すぎる図体で太陽を隠してしまっていた。出口なんて最早存在していない。コウモリ型のバグ霊は壁と見紛うほどの羽を広げ、その存在を隠している。広げた羽の裏に並んでいるいくつもの生々しい口が、くちゃくちゃと音を立てて咀嚼している。飲み込まれなかった腕がボトッと落ちた。

 クジラもかくやというレベルの想定外の巨大生物を前に、矮小な自分たちが立ち向かえる術などなかった。


「こっちにッ......」


 それでもリーダーとして状況を打開しようとした空が右に顔を向け、絶句する。その方向からも無数のバグ霊がみっちりと身を寄せ合いながらこちらに押し寄せてきていた。


「こ、こっちからも......」


 よろっと後ずさった陽介が震える手で反対を指差す。そちらもおおむね右と同じ景色となっていた。

 怜たち七人は、とうとう逃げ場を失った。

 上の方から絶叫がつんざき、次いでガラスの割れる派手な音。上を見上げた彼らは地獄絵図を見た。

 頭のない者、手足のない者、両目を失った者、身体のどちらか半分を失った者。ありとあらゆる死体が上の窓を突き破り、頭から地に次々と落ちていく。グシャッ、グシャァッと耳障りな声なき断末魔は、たしかな恐怖として根深く植えつけられた。


「怯える必要はないよ。彼らは今、約束破りの対価を支払っているだけ。至極当然の結末だよ」


 正面玄関から優雅な足取りで現れたのは、相変わらず夜闇に包まれたままの青年だった。死体の雨の中、大蛇型を従えてにこやかな声でこちらに話しかけてくる様子は、人間の心を持った者とはとても思えなかった。

 後から大聖とともに現れた、いつのまにか大型に変化していた犬型がくわえていた何かを放り出す。転がってきたのは、片足を失くして血の気が引いた表情のリーダーだった。


「ぐッ......く、そがァッ......!!」

「おや、仲間はみんな死んだのに、まだ戦意が残っているみたいだね。大したものだ。だけどそんなに血を流してしまって大丈夫? 人間は体内の血液が三分の一以上失われると死ぬよ? ああそっか! 君たちはさっき怜に化物と言われていたね! 人間じゃないのなら安心だ! 心ゆくまで存分に垂れ流すといいよ」


 青年がそう言い終えるか終えないかのうちに、地面に転がっていた死体に変化が訪れる。いろんな死にざまを晒していた連中は揃って手先から黒い塵に変わっていく。やがてそれらは宙に舞うと様々な形に形成し始めていた。

 胴体だけが異様に細くなってしまっていた男はデロンと垂れた舌をそのままに、二足歩行の人狼型のバグ霊となった。真っ先に青年に近づいてきたバグ霊は、頭部と胴体は鳥で手足が人間の腕を倣った四足歩行の怪物に生まれ変わっていた。


「ちゃんとボクがこうして死後も利用してあげる。だから、安心して死ぬといいよ」


 変わり果てた仲間を見つめて呆然と目を見開くリーダーに、青年は愉悦を含んだ笑みで囁きかける。それを聞いたリーダーが一瞬さらに目を見開いた後、片足がないにも関わらず驚異の瞬発力で青年に飛びかかろうとした。だが青年はそれをひょいとかわし、再び無様に地面に倒れたリーダーは犬型の足によって背中から押さえつけられた。それでもなお怒りを失わないリーダーの顔を、青年は目を細めて覗き込む。


「やあ、君は強い心の持ち主だ。これだけ絶望を前にして立てるその気概、裏切り者じゃなければ仲間にしたいところだよ」

「テメェッ......よくも、よくも俺の仲間をッ......!!!」

「先に裏切った君たちが悪いんじゃないか。それに、大聖も大聖だよ。君、人の動かし方は悪くないのに、変なところで甘いからこうなるんだよ」

「そ、その点は悪――」

「利用できるモンを利用して何が悪いッ!! 互いにそうだろうがッ!!」


 思わず謝ろうとした大聖の言葉をリーダーが引きつった怒号で遮る。


「わあ、それを言われると何も言えなくなるね。でもそうだなあ。馬鹿が極度の馬鹿を演じても結局は馬鹿というか......ボク、最初から約束を守るつもりなんてなかったんだよね」


 彼は怒りに燃える瞳を青年に向けてもがき続けるが、その間にも犬型の手は彼を押し潰していく。


「野蛮で無知性で下卑た連中。そんなやつら、彼女・・の世界には似合わない」


 冷えた声で語る。リーダーの口から血が吐き出された。


「きっと誰にも認められなかった人生なんだろうね、かわいそうに。でもよかったじゃないか。無意味な存在であった君たちが、意味のある死を迎えられたのだから」


 青年は立ち上がり、背を向ける。リーダーの下からブチュッと音が聞こえた。


「さよなら、勇気ある裏切り者。死後もその体、使ってあげるよ」


 そうしてリーダーの心臓は潰された。

 ただの肉片に変えられた彼の体が黒いもやとなり、犬型の下から抜け出す。象った姿は、成人男性三人は背に乗せられる大きさの巨大蜘蛛。それを見て青年は「あっはっは!!」と愉悦と蔑みの混ざった目で嗤う。


「生まれ変わっても結局地面に這いつくばったままなんだ! その惨めさ、気に入ったよ。存分に使ってあげよう。まあ、それはさておき――」


 そこでようやく、青年は怜たちに体を向けた。フード下の口元から隠しきれない愉悦の笑みがこぼれ落ちる。


「挨拶が遅れてしまって申し訳ない! ボクは......うん、ここではカミムラと名乗っておこうか。怜とはある種の縁がある者だよ! 怜は覚えていないだろうけど、その具体的な内容は怜が思い出すまで秘密ってことで」


 大げさに両手を広げ、親しき者に呼びかける声音で話しかけてくる青年、否、カミムラ。いたって普通の挨拶、人間らしい振る舞い。それなのに――彼の体から滲み出る、隠しきれない悪意は何なのか。悪意に敏感な自分たちだからこそよくわかる。この青年は、この世全ての負の感情を詰め込んだような存在。――他者を見下し、嘲笑うことのみを生業とする悪魔。


「ハッ、顔も見せねえとは随分な挨拶だな。誰かに挨拶するときはきちんと顔見せろって教わらなかったか? それともそのフードのような夜闇でしか活動できない臆病者には無理な話だったかな?」


 挑発を仕掛けたのは林太郎だ。強気に煽るが、肌を突き刺してくる悪意に顔色を悪くしている。無理もない。カミムラの存在そのものが彼らの傷を抉り立てているのだ。

 林太郎の挑発をカミムラは意に介した様子もない。


「ボクの顔をご所望かな? 見せようかどうか迷っていたのだけど、望まれては仕方ない」


 カミムラは、いともあっさり被っていたフードを脱いだ。


「まあ、そうは言っても、見飽きた顔・・・・・で面白みがないだろうけどね」


 ――鏡を見ているのかと錯覚した。

 長くも短くもないやや乱雑な黒髪、緩やかな四角いフレーム眼鏡の奥に見える垂れ目。――そして、見つめ続けられると吸い込まれる、そんな果てしなさを感じさせるやたら黒い瞳。




 そこにあったのは、紛れもなく怜の顔だった。




「............君は、一体......」


 仲間が硬直してカミムラを凝視する中、怜はどうにか絞り出した声で問いを口にする。だが青年は問いには答えず、悪戯が成功した子供そのものの表情ではしゃぐだけだった。


「あっは、いい表情! そうそう、そういう顔が見たかったんだ! いいね、気分がいい! どうかな、怜? 君が笑ったらこんな表情をするんだよ、こんな声を上げるんだよ!」


 怜に見せつけるようにクルクルと回るカミムラ。怜はそんなカミムラの目を空の肩越しから見つめた。

 自分とそっくりのやたら黒い瞳、鏡で見慣れた瞳のはずなのに、全身に鳥肌が立つほどのひどい不快感を覚えた。黒い感情が心の中で渦巻いているのを感じるけれど、その黒は仲間割れのときに感じた底なしの黒......憎悪とは少し違う。


 ――これは、誰かを見下す他人の目の色。不快極まりない嫌悪の黒い瞳だ。


「......俺の問いに答える気がないのなら早く帰してほしい。悪いけど、あまり君に構っている時間はないんだ」

「まあまあ、そう焦らないでよ。というかそれは事前に答えたはずだよ? 君が思い出すまでの秘密だって」


「そんなことより」と背後に寄ってきた大蛇型の背に腰を下ろし、カミムラは友人に対するような親しさで語りかける。


「ようやく対面が叶ったわけだけど、君に一つ提案があるんだ、怜」

「......提案?」

「あはは、そんな構えないでよ。君にとっても悪い話じゃないからさ」


 そう言ってカミムラは人差し指を立て、「提案」を告げた。


「ボクたちの仲間になる気はないかな、怜?」



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