32「傷ついたんだ」

『......オレらと離れた短時間の間に何があったか知らんけど、変わったな、怜』


 泣いていた。透明の雨粒が、彼の頬を滑り落ちていた。救われたいと思っているはずなのに、彼は苦しみに囚われたまま泣いていた。

 これが人間・・なら、もっと感情があって経験も積んできた人間なら、きっと何か言えたのだろう。

 ......怪物は、そのとき。


 ――そのときに気づいてしまったんだ。俺はまだ誰かの心に届くような言葉を、感情を持てていないことに。恒輔くんは不可能だと思ったんだ。救われたい、楽になりたいはずなのに、目の前の俺じゃどうにもできないって思ったんだ。


 失神した恒輔を背負い、階段を上る怜。その少し先をニャー太が歩き、ときどきこちらを振り返ってはまた先へ進む。

 踊り場まで出たところで、恒輔を背負い直すために立ち止まる。ふと横を向けば、こちらを見つめる自分と目が合った。この学校で自分と顔を合わせるのは二度目だった。

 しばらく鏡を見つめた後、再び上を目指した。


「『自分はどうして生まれてしまったのだろう』」


 静かに、恒輔に語りかける。


「夏鈴ちゃんが言った台詞だよね。そう問われたとき、君たちは苦しげで何かを堪えるような表情をしていた。そのときの俺は君たちがどういう想いでいるのかわからなかったけど、ようやく気づいたよ。......ここの鏡で見た俺の顔は、ちょうどそんな表情をしていたからね」


 恒輔を背負う手に、力を込めた。


「――傷ついたんだ。だって、あのときの君たちの反応は苦しいときのそれだ。苦しかったんだよね、心を切り裂かれて、血を流して痛みを堪えて」


 感情が絵の具なら、心はキャンバスだ。彼らは一つのキャンバスにたくさんの絵の具を塗りたくられている。溢れ返っていて一人では受け止め切れないくらいの量を、無理矢理抱え込まされて、捨てたくても捨てられなくて。


「俺は今になって、ようやく傷つく苦しみを知ったんだ。あのときの君たちの言葉に、俺自身の無力さに、どうしようもなく打ちのめされたんだ。......ごめんね、君たちの苦しみに気づけなくて。だけど気づけても、今の俺では君たちに何もできない。同じラインに立って感情を共有することも、居場所になることも。人間になるには、まだ道のりが遠すぎたみたいなんだ」


 「だから」と、顔を上げる。キュルッと瞳孔が細くなった。


「俺は『怪物のまま』、君たちを守ることにした」





「チッ、連絡がねえってことは、結局あの飛び降り野郎とガキは捕まえられなかったってことだな」

「それどころか未だに誰一人として捕まえられてねえよ、クソが。ここまで来るとムカムカしてくるぜ。上手いこと隠れやがって......ん?」


 イライラを募らせながら獲物を求めて校内を歩き回っていたとあるグループ。そのうちの一人が窓の外を見遣ってふと足を止めた。中庭に人影一つ。少し遠くて見えづらいが、黒い帽子を被っているようだ。


「おい、今外にいるの......」

「あー?」


 外を指差せば、残りの仲間が一斉にそちらを見た。しばらく視線をうろうろさせていた彼らの焦点が一つ、また一つと定まっていく。視認したその瞳が、次第にギラギラと獰猛に唸りだし始めた。


「おい、あいつ......」

「ああ、特徴的にも合っている。殺せと言われていたやつの一人だ!」

「なら早く外のやつらに連絡して......」

「バカ! ンなことしてる間に見失う! こうなったら俺たちが直接行った方が早い!」

「オラいけ!! 絶対に仕留めるぞッ!!」


 「おお!!」と声を揃えてバタバタと走り出すチンピラたち。玄関から飛び出したところで外を担当していたグループに出くわした。


「おまえら、なんでここに!? 中の担当だったはずだろ!?」

「テメェらが見逃している獲物をなぶりにいくところなんだよ!! 中庭に一人いる。テメェらも手伝え!!」

「さすがに十人がかりでやりゃあいける!! いい加減決着つけるぞ!!」

「マジかよ!? お......おう、わかった! いくぞッ!!」


 倍に増えた連中は走り出す。その様子を別のグループが二階の窓から顔を突き出して見ていた。


「今、中庭に一人いるらしいぜ!」

「おい、オレらもいくぞ!!」

「待て、一人に十人以上もいらねえだろ! 俺たちは他のやつら探すべきだって!」

「そうやって何回取り逃がしたと思ってんだよ!! いい加減鬱憤が溜まってんだ、門番がいるんだからどうせ逃げられやしねえよ!! それよりも憂さ晴らししにいくぞ!!」

「おお!! ミンチにしてやるぜ!!」

「あーもー!! 知らねえぞ!」


 そのグループもまた加勢するべく階段を駆け下りていった。

 一方で先に向かっていた連中はすでにその一人を取り囲んでいた。凶器を持った集団に取り囲まれているにも関わらず、その人物は慌てる様子もなく帽子を目深に被りなおしただけ。それを諦めと感じとった連中がせせら笑う。


「おいおい、見ろよアイツ。この人数に絶望して逃げようともしねえぞ」

「それなら好都合だ。大人しくストレス発散の道具になってもらおうじゃねえか。なあ、テメェェェ!!」


 鉄パイプを握りしめた男は地を強く蹴り、その人物に飛びかかって容赦なくフルスイングした。一撃で殺すつもりのない男は背中を狙った。当たれば重傷は免れない。獲った、と、誰もが思った。

 空振りだった。


「まずは一人目」


 機械的な声とともに地面に体が倒れ込む。倒れたのは、男の方だった。白目を剥いて昏倒した仲間に周囲は目をみはった。


「おい......何が起こったんだよ......?」

「わ、わからねえよ。一瞬でこの様だ......」


 クルッと彼は残りの集団の方へ身体を向ける。予想外の強さに全員が武器を構えながらもゴクリと息を呑んだ。


「え、ええい!! たったそれだけで怯んでたまるか!! オラテメェら!! 一斉に殴りかかっぞォ!!」


 その声に奮い立った男たちが雄叫びを上げ、各々の武器で一斉に飛びかかっていった。それを彼は驚異の身体能力でかわしていく。ギリギリのところでかわしてはカウンターとばかりに相手を沈め、いなして隙ができたところを沈め、怖気づいて背を向けた相手にも好機とばかりに襲いかかっては沈める。彼に狙われた者が軒並み地面に転がされていった。

 いつのまにか他の集団も合流していたようだが、それでも立っていたのは三、四人だけとなっていた。


「な、何だこいつ!? めちゃくちゃ強えじゃねえか!!」

「ボスの話と違うぞ!! 手を出すなって言われていたやつ以外は集団でいけば殺せる......って......」


 ふと、男は改めて彼を見た。半袖白Tシャツに黒のベストと青いジーンズ、目深に被られた帽子と黒のリストバンド。殺せと言われていた人物と特徴は一致している。


 ――だが自分たちは誰も、


「おまえ、まさか......!」

「あ、バレた。でも、邪魔は減った」


 彼はその瞬間、素早く身を翻して走り去っていった。要は逃亡である。


「に、逃げたぞ!! 追えーッ!! いや追うなーーッ!!」

「どっちだよ!?」





 屋上からその様子を見ていた人物――「ボス」は、必死になって外の連中に鬼電を飛ばしていた。しかし、誰一人として出ることはなかった。


「クソッ!! 役立たずどもが!!」


 今度は中にいると思われる連中にコールする。今度は一人がすぐに出た。


『あ、もしもしボス! 今、オレたち外にいるやつを捕まえるために向かっています! 中から見てたんですけどなかなか手ごわそうっすね! でもチャンスなんで必ず――』

「バカどもがァッ!! むしろ今すぐ外のやつらを止めろッ!! おまえら騙されてるんだよッ!!」

『ええ!? だ、騙されてるって!?』

「あんな常人離れした動きができるやつはそうそういねえよッ!! そいつは対象じゃない、唯一手を出すなって言われていた――」

「そう、俺だよ」


 キュッと「ボス」が口をつぐむ。血の気の引いた顔のままおそるおそる、ギギギと固い動きで背後を振り返る。

 半袖白Tシャツに黒のベストと青いジーンズ、目深に被られた帽子。その帽子が背後へ脱ぎ捨てられ、首にかかった紐のおかげで背中にぶら下がった。その下から現れたのは――


「やっぱり、そんな気はしていたんだ。君、あのときいかにも二度目がありそうな雰囲気出していたもんね。――三日ぶりだね。名前、知らないけど」


 「阿賀野あがの大聖たいせいだッ!!」と吠えられるほどの威勢は、怜の姿を前にして塵となって消えた。繋がったままのスマホから、「ボスー! じょーにんって何なんすかー!?」と空気を読まない声が流れた。





「......さん、宇佐美さん!!」


 誰かに名を呼ばれ、揺すられている気配を感じた恒輔は、ゆっくりと目を覚ました。はっきりしていく視界に映ったのは、心配そうな表情でこちらを見下ろす桜子の姿だった。


「宇佐美さん!! よかった......大丈夫、ですか? どこか、怪我は......」

「......え? 桜子、ちゃん? なんで、じぶんが......」

「桜だけじゃなくて、あの能面以外全員いますよ」


 小生意気な声が聞こえ、恒輔はガバッと起き上がった。

 すぐ傍に桜子、その反対側に林太郎、正面に空と梓。一度はたもとを分かったはずの仲間が一堂に会していた。


「はあ!? なんで、自分ら......てか暗っ! なにこの部屋!」

「多分、生物教室です」


 冷静な声とともに電気が点けられる。一気に明るくなった部屋に反射で目を閉じ、慣らしてから開くと林太郎の隣に陽介が腰を下ろしていた。自分たちがいる場所は教室の中心らしく、周囲は水道付きの机によって囲まれていた。


「陽介くん、自分まで......なんで、みんなここに......」

「それはこっちが知りたいですよ! というかその張本人である怜さんがいないからどうしようもないんですよ!」

「急に襲われて気絶させられたかと思えば、目を覚ませばここだもんな。俺はてっきりあいつに殺されるんだと思っていたが、もう何が何やらだよ。俺たちも目覚めたばかりで大混乱中だ、クソが」

「えっ......?」


 彼らが怜に襲われたという事実を聞いて瞠目する恒輔。つまり、怜は自分たち一人一人を気絶させ、ここまで運んで集めたということになる。


「怜が、みんなを? 何のために......」

「それをあんたに訊きたいんですよ。この中であの人に最後に会ったのはあんただ。何か訊いてないんですか? それともグルですか?」

「うわ、ちょちょちょそんな迫ってくんなや! てかなんでオレが最後に会ったことになっとんねん! オレも怜に気絶させられたんや! その後のことなんぞ......」


 ぐいぐい迫ってくる林太郎を押し退けつつ、助けを求めて陽介に視線を送れば、彼は一言「......服」と呟いた。


「服?」

「それ、何か理由があって交換したんじゃないんですか?」

「交換って、何の――」


 確認するべく自分の身体を見下ろした恒輔は、思わず固まった。

 そこに黒のベストと白いTシャツは見当たらない。あるのは、いつも隣にあって見慣れていた白いパーカーと白のブレスレット。

 混乱を極めかけた恒輔の脳裏に、気を失う前の出来事が思い出されたのは奇跡だと言えた。


『だから俺は願う。これが別れの言葉だ。恒輔くんの口からみんなに伝えてほしい』


「......まさか」


 恒輔がある可能性を思い浮かべた瞬間、「ゥニャン」と甲高い鳴き声が聞こえた。全員の視線が一斉にそちらに集まる。前方にあった机の陰から、小さな顔がひょっこり現れる。自分たちを目にしたその獣は、誰かいて嬉しいとでも言いたげに軽い足取りでこちらへ駆けてきた。


「ニャ、ニャー太!? なんでここにいるんだよ!」

「待って、ニャー太、首に、何か......」


 桜子が立ち上がり、ニャー太のもとへそっと歩み寄る。ニャー太は怖がることなく桜子にそのまま近づき、足に頭を擦りつけてきた。その隙に桜子がニャー太の首輪に下げられていたものを取り外し、こちらに見せる。目に飛び込んできたのは、青色の輝きだった。


「それ、欠片じゃねえか。そっか、そういやあいつ再会したとき、陽介にそれを渡そうとしていたな......」

「......林太郎、桜子ちゃん。自分らは......」


 恒輔の言いたいことを察した二人は、それぞれポケットに押し込んでいた小瓶を取り出した。桜子は赤の、林太郎は群青の欠片。つまり怜は、自分が持っていたものを全てここに置いていったことになる。

 ニャー太も、欠片も、まるで遺していくかのように。

 恒輔の表情が、一気に青ざめた。


「......あかん、怜!!」




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