30「人間と怪物」
体が重くて仕方がない。呪われたみたいに、正体不明の苦しみが心を蝕んでいく。
ギュッと胸の辺りを握りしめると、チャリとビーズのブレスレットが鳴る。ここに、ちゃんと心があることを自分はわかっている。感情もまだ完全に取り戻せたわけではないけれど、触れればそれがどんな感情かわかるまでにはいたった。
――それでも、俺はまだ人の心を持てていない、理解に及んでいない。......感情の経験が、あまりにも少なすぎたから。
感情があるせいで苦しい思いをしてきた。けれどそのときは弱くても、それを誰かと共有して一緒に乗り越えることで強くなれる。そう教わったから、これからみんなと一緒に共有して経験を積んでいこうと思った。そうすれば、いつかみんなに届く
それを乗り越えて、自分自身も強くなっていこうと決めた。感情があるからこそ誰かを理解することができて、救うこともできるし救われることもできる。自分の心が強くなれば、みんなの居場所で在れると思えたから。
――だけど遅かった。俺がそう決めたときには、みんなの心は手の届かないところにいってしまった。
記憶も感情もないから何にも苦しめられない。ただ一人苦しみから逃れたやつが理解できることなんて何もない。雨宮怜という人間は、人の傷を理解できない。
彼らがそう思うのも仕方がない。今まで感情も記憶も必要ないと断じてきたのは自分だ。最初から感情を取り戻すことに積極的になっていれば、彼らの心を一層追い詰めることもなかった。追い詰めた自分が居場所になるなんてほざいたのだ。憎く思われても仕方がない。
『私たちは、この傷を、感情を、抱えている、限り、誰とも、笑い合えない。だから、雨宮さんは、こんな、ボロボロの、人間なんて、忘れて、他の、仲間を、見つけて』
『だからこんな傷まみれの人間の心に綺麗なやつが触れるなっちゅーねん!! もうこれ以上何も言わずにオレの傍におってくれよ!!』
『雨宮さんはお元気で。もうこんなどうしようもない人間に関わらない方が、あなたのためだと思うので』
それでも、まだ。
自分のことを想ってくれる優しさが、彼らにはある。
そんな彼らだからこそ、自分なりに返せるものをつくりたかった。
――けど、足りない。人間らしい心が、俺にはまだ出来上がっていない。
ふと腕の中の猫が鳴いて顔を上げた。いつのまにか、階段の踊り場にある鏡の前に立っていた。
鏡に映った自身は見るに堪えないものだった。目は濁っており、顔からは完全に生気が失われている。そのくせ口元だけは何かを堪えるようと強く引き結ばれていて、自分でも見たことのない表情をさらしていた。
それを見て、ふとある記憶を思い出した。
「いじめられてるのなら、他の友達つくればいいじゃん。そうやって三人だけでべったり固まってるからいじめられるんだよ。てか、中学にもなってその距離間はさすがに気持ち悪いよ」
そう言ってくるやつがいたから、殴った。おかげで彼や彼の友達から三人まとめてリンチを受ける羽目になった。
「......巻き込んで、悪い」
「どうせおまえが殴らなくても俺が殴っていた。だから謝るな」
「仮に、二人が、やらなくても、私が、やってた。どのみち、変わらない、よ」
高架下の柱に隠れ、持ち歩いていた救急セットで簡単に手当てをしあう。あの地獄の日から数年。日常は変わらなかった。
ふと自分の腕に包帯を巻いてくれていた桜子が、包帯の上から腕をそっと両手で触れてきた。
「桜?」
「......うん、私、やっぱり、こうして、触れあってる、方が、落ち着く。あたたかい」
「ああ、そうだな」
背中に重みが加わる。自身の後頭部に陽介の後頭部がコツンとあたった。
「俺はおまえたちさえいればそれでいい。他の友達なんていらない。周りが何と言って嘲ろうが、俺は三人でいることが一番幸せなんだから」
桜子が肩辺りにすりすりと額を擦りつけて陽介の言葉に同意する。
「......本当か?」
毎日のように痛めつけられて、誰も優しい言葉をくれなくて、ここ以外に居場所がなくても?
「ああ、何があってもずっと三人でいたい」
「最後まで、ずっと、三人、だけで、幸せに、なろう?」
三人同時に互いの顔を見合わせ、誰からともなく笑いをこぼす。この先どんなに苦しいことが待ち受けていても三人一緒。このときの自分たちはそう信じて疑わなかった。
少し、懐かしい夢を見た。
鍵の開いていた倉庫の中でうたた寝をしていた林太郎は、目を覚ましてから再び移動を開始した。行くあてもなく彷徨うだけの時間。なぜか、学校から脱出する方法を探す気にはなれなかったのだ。
適当に目についた階段を上ろうとそちらへ向かう。そのとき、階段の上からバタバタという足音と「きゃぁッ!」という甲高い悲鳴が聞こえた。驚いた林太郎が何事かと上を確認するより先に、彼の目の前に何かが転がり落ちてきた。
ドンと自分の足元に倒れ込み、動かなくなったその正体を目にした林太郎は、自分の表情が一気に引きつったのを感じた。
「桜......!?」
目の前で横たわる細い体躯と特徴的なキャラメルシックカラーのポニーテール。見間違えようがなかった。親よりもずっと長くいた存在を見間違えるはずがない。
「おい、死んだか?」
「いや、わかんねえな。確認しておこう」
「しかしボスの言うとおりだな。たしかに階段を使えば少しは速度落ちるわ」
「それなりに体力も削ったしな。おかげで最後は自分から落ちてくれて助かったぜ」
階段上から響いた第三者の声に顔を上げれば、ちょうど連中のうちの一グループが階段を下りてくるところだった。当然連中は林太郎の存在にも気がついた。
「おっ、ラッキー! 獲物もう一匹はっけーん!」
「よし、ついでに仕留めちまおうぜ。こいつら見つけるのに散々手こずったからな。ここでまた逃がすと面倒なことになるぞ」
――マズイ、逃げねえと。
そう思って踵を返しかけたが、ハッとなって見下ろす。そこには倒れたままの桜子がいる。出血している様子がなく、おそらくただ気を失っているだけだ。生きている、けれどここで彼女を連れて逃げようとすれば、自分は......。
「あれ、こいつ逃げる様子ねえな?」
「おい、おまえ。このままこの女と一緒に死にてえのか? 仲間割れしてたんだろ?」
その台詞に心臓がドキッとなった。
「なんで......」
「オレらがいつまでも何も知らないバカなわけねえだろ。まあ、そんなことはどうだっていい。オレらにはおまえを殺さねえという選択はねえが、おまえも取るべき行動は決まってんじゃねえのか?」
一歩ずつ下りてくる連中に対し、林太郎も一歩ずつ後ずさる。桜子から距離が遠のいていく。
――いや、何迷ってんだよ、オレ。縁を切ったんだろ。もうこいつとは何の関係もねえ。自分が生き延びることだけを考えていればいいんだ。こいつが殺されたところでオレは、
『最後まで、ずっと、三人、だけで、幸せに、なろう?』
その温もりを、失うだけ。
虐げられてきた今までの記憶が濁流となって流れてくる。痛かった、苦しかった、いつも惨めで周りに見られるだけでも恐怖を覚えて、うずくまっていて。
いつ死を選んだっておかしくなかった。――傍に、陽介と桜子がいなければ。
「......おいおい、どういうつもりだ? オレらより賢いんじゃなかったのかァ?」
狂っているのかとでも言いたげな目で連中はこちらを睨んでくる。
林太郎は、桜子の前に立っていた。体は情けないことに震えていて、それでも毅然とした態度で顔を上げ、連中を見据える。退く気がないことがはっきりとわかる、意志の強い瞳だった。
「......まあいい。そいつを連れていくのならどうせ逃げられっこねえんだ。じわじわ追い詰めてやるよ」
そう言って連中は再び階段を下り始めた。林太郎は急いで何とか桜子を背負い、ふらつきながらも逃げるために走り出す。もともとの体力のなさと桜子を背負っているせいでスピードが出ない。それでも桜子を手放さず、懸命に足を前に出す。連中はそんな林太郎を嘲笑って大股で近づいて距離を詰めていく。
――あいつらはオレたちを虐げてきた連中と同じだ。早く逃げねえと、痛い目見るのわかってんだろ。もっと踏ん張れよ、しっかりしろよ、クソッ!
だが廊下の角を曲がろうとしたところで桜子がずるりと落ちた。慌てて支え直そうとするが失敗し、林太郎も一緒に倒れ込んでしまう。その隙を連中が逃すはずがなかった。
「二人まとめて天国へ行きな!!」
振り返ったときには林太郎の目前に金属バットが降ってきていた。よける暇も、桜子を庇う暇もない。死を覚悟した林太郎は目を閉じた。
「あああああッ!!!」
雄叫び、続いて金属同士のぶつかり合う音と鈍い音。思い描いていたものと違う展開が起こっていることに気づいた林太郎は、つい目を開けた。そのタイミングで男がその場に崩れ落ち、金属バットがゴトンと重低音を響かせて力を失う。
崩れ落ちた男の前に立っていたのは、見慣れた背中。ずっと自分たちを守ってきてくれた背中が目の前にある事実に、林太郎は目を見開いた。
「よう、すけ......」
「林太郎、早く桜子を背負い直せ!! 俺が食い止めるから!!」
陽介の言葉に我に返った林太郎は、急いで桜子を再び背負いだす。逃がすまいと凶器を手に襲いかかってくる連中は陽介が手にしていた
「もらったァ!!」
男の一人が陽介をかいくぐって林太郎に飛びかかった。桜子ごと押し倒された林太郎の首に男の手がかかる。
「林太郎ッ!! ぐぅっ......!!」
「こっちは抑えた!! 三人まとめてやるぞ!!」
林太郎に気を取られた陽介は金属バットで殴りかかられたところを何とか受け止めるが、力に押し負かされ、壁に縫われて追い込まれてしまう。その横合いからアイスピックを持った男がぬっと現れる。
何とか自分の首から手を離させようともがきつつ桜子の方を見れば、包丁を持った男が桜子に近づいているのが見えた。
「ガッ......アッ......や、め......!」
「暴れんな! 大人しく死ねよ、クソガキども!」
「アアッ......!! ゥガッ......!!」
首を絞める手に力がこもり、林太郎は苦しみのあまり目を極限まで見開き、呼吸を求めて喘ぐ。動けない陽介の側頭部に狙いをつけてアイスピックが構えられる。胸倉を掴まれた桜子の心臓の真上に包丁が定められる。
――クソがッ......結局、ほんの少しの夢を見せられただけで終了かよ、オレたちッ......!!
もっとあの空間にいたかった。こうなるのならもっと素直になればよかった。信じられないって言っておきながら、結局一番信じられなかったのは自分自身じゃないか。
勝手に涙が溢れてくる。いろんな感情がごちゃごちゃにかき混ぜられて、それももう、じきに何もわからなくなる。
意識が暗闇に包まれていく。ぼやけていく視界に、ギラギラした目でぎこちない笑みを浮かべてこちらを見下ろす男の顔。最期の景色は汚ねえなと諦観するようになったとき、
男の背後で、白い翼のようなものを見た。
ドッという音とともに目の前の男の顔が衝撃にひどく歪んだ。その顔のままこちらに倒れてくるかと思いきや、それより早くその横面に蹴りが入って壁に叩きつけられる。
「うわあッ!? な、なんだああッ!?」
今まさに桜子を殺そうとした男が、突然吹っ飛んできた仲間に腰を抜かし、手を止めた。その手を別の手がガッと掴み、取り上げられた包丁が明後日の方向へ投げ捨てられた。「ええッ!?」とあまりの早業に男が目を引ん剝く頃には、男の身体は掴まれた腕を基点に見事な一本背負いで床に叩きつけられていた。
目を回して気絶する男には目もくれず、その嵐は振り向きざまに足を下から上へ振り上げて金属バットを宙に舞わせる。
「あえ......?」
最初からなかったかのように手から消えた金属バットを男は探す。不意にその頭の上に金属バットがカミングバックを果たし、男は白目を剥いて綺麗に背後へ倒れた。
「あ、手間がはぶけた」
そう軽く呟く間に、アイスピックを持った状態で呆然としていた男の頭を正面から鷲掴み、二、三度その後頭部を壁にガンガンと叩きつけた。手を離せばずるりと男が地へ沈んでいく。ここまで一分にも満たない時間が経った。
「うっ......いってぇ......」
ここで最初に陽介によって眠らされていた男が目を覚ましたのは、彼にとって運が悪かったと言うべきか。男はキョロキョロと周りを見渡し、地に伏せている仲間の姿を確認するとパチパチと瞬きを繰り返す。
「............ええええッ!!?」
たった数分で激変した光景に驚愕の声を上げる男。その背後からするりと腕が絡みついたかと思えば、アイスピックの先が首元に当てられた。
「ひぃっ!?」
「そちらから起きてくれて助かったよ。君にはいくつか質問をするから、可能な限り答えてほしい。わからないならわからないって言ってくれて構わない。嘘は吐かないでくれると助かるな。でもいざというときは痛い思いをしてもらうけど、ごめんね」
......わかるか、これ。本当に本人的には「可能な限り答えてほしい」だけだし、「嘘は吐かないでくれると助かる」だけだ。だからこそ、少しでも答えない意思や嘘を吐く素振りを見せるとノータイムで穴を開けられることがわかってしまう。
「「こえーよ......」」
林太郎と男の心情が見事にリンクした瞬間だった。まったくもってめでたくない。
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