29「風になれ」
見ただけではわからないことがある。
例えば人の心。何でもないように笑ってみせる人の、傷まみれの心。それが見えないのは大変惜しい。もしも目に見えていたのなら、どこをどう抉ってやれば笑ってられないほどの苦しみを与えられるのかわかるというのに!
例えば今、遠くに点となって見える校舎。静かなあの建物の中で、血染めの一方的な殺戮は繰り広げられている。そこで唯一生き残ってしまった者の絶望といったら!
「と、いうのを期待していたのに、未だ誰一人殺せていないのはどういうこと? ちゃんとやってるの?」
『すまん、あいつらの知能指数も踏まえて作戦を立てたんだが、どうにも上手くいかなくてな......』
「うーん」と唸り、足場の少ない電柱の上に立ったまま、もう一度校舎を見やる。
欠片の下見に行った先で頭の悪そうな群れを見つけたのは幸運だった。バグ霊を見せれば簡単に降伏し、報酬をチラつかせて従うことを強要すればあっさりと従属した。そこまではよかった。問題はその想定外の知能指数の低さだった。一体どんな人生を送ればそこまで無能になれるのか、逆に興味が湧いてしまうレベルだ。
だが自分には多数を率いるなんて面倒臭いことは向いていない。必要なのは一定のカリスマを持った人物。ゆえに彼を「ボス」にしたのだ。
「何でここまでうまくいかないんだろうね。――ボクはただ、あの六人を殺したくて殺したくてたまらないだけなのに」
いけない、つい独り言がこぼれてしまった。
「まあ、とにかく君はその状態を維持して。外にだけは絶対に逃がさないように注意して、それでも殺せないようなら君が動いて。ああ全員始末できたら連絡してよ。無残な有り様になっているか見たいから――って、聞いてる?」
『ハッ、き、聞いていた、ちゃんと聞いていたぞ! それで、その......言い忘れていたことがあるんだが』
「それ良いニュース? 悪いニュース?」
『良いニュースのはずだ。あいつら、今仲間割れしているみたいだぞ。連中からの情報だ』
ずくり、血が鳴いた。自分が今、狩人の目になったのを自覚した。
『一人ずつバラバラになっているみたいでな、何度考えてもその意図がわからなかったから、少人数の観察班を作って様子見させたんだ。そしたらどうやら何か揉めていたらしくて......えと、あのー?』
「君さあ......そんな最高すぎる状況になっているのに、どうしてもっと早く言ってくれなかったの」
『え、えーと......?』
「オーケー、ボクもすぐに向かうよ。三十分以内には着くと思うよ。そこで待ってて。あ、あとボクが来ることは彼らには内緒ね。サプライズで登場したいから」
『え!? ちょ――』
返事を聞かず、電話を切る。それから「おいで」と呟けば、どこからともなく黒い大蛇がするりと現れ、電柱の上に立つ自分の足元にすり寄る。その背に腰かけ、指示を出した。
「あの学校へ向かって。最速でね」
びゅうんと大蛇がしなやかに身をくねらせながら空を泳ぐ。三十分と言わず三十秒で着きそうな速さだ。
「あっはは! 速い速い! これなら彼らが殺される前に間に合いそうだ! ――だって死体には心が宿ってないもの。感情と傷のある生者だからこそ、甚振り甲斐があるもんね」
さあ、さあ、さあ、用意された絶品を食い散らかしにいこうじゃないか。
他人の絶望ほど極上の蜜はないのだから!
「梓!! いい加減にしな!! もう那由多さんのところに行くんじゃないよ!!」
「母さん、心配しすぎだって! もうこれ何回目だよ!」
本当に何回目だろうか。いつも呼び出しを受けて行くたび、母にこうやって止められている気がする。そうして玄関で足止めを食らっていると、決まっていつも騒ぎを聞きつけた弟妹たちがやってくる。
「兄ちゃん、どうしたの? お母さんもどうしたの?」
「どうしたのー?」
「おー助けてくれ、愛しの弟と妹よ。母さんが寂しがってオレを離してくれないんだ。おまえらがいるというのになー」
「茶化すんじゃないよ、このバカ息子!! 気づいてないとでも思っているの!? あんた、帰ってくるたびに必ずどこか怪我してるね!? 上手く隠しているつもりかもしれないけど、アタシにはお見通しだよ!!」
うそ、バレてる。
そう思った瞬間、だんだん笑顔が強張っていくのを感じた。まずい、まずいまずいまずい。
「よっと!」
思いきり腕を振り、母の手を引きはがす。勢いあまって尻餅をついてしまった母には悪いが、これで逃げ出せる。
「じゃあな、母さん! おまえら、兄ちゃんがいない間、母さんに迷惑かけるなよー」
「待ちな!!」と声を上げる母に捕まる前に、さっさと玄関を飛び出して道を駆ける。ちらりと腕時計を見れば、走っても指定された時間には間に合いそうになかった。
「マジか......これ絶対怒られる、いや殴られるわ。どうしようかなー、どうせ殴られるのならもう少しのんびりしていこうかなー。いや、それでこの前さらに蹴られたんだっけ。まだ痣が消えてないんだよなー」
走るスピードが徐々に落ちていく。駆けていた足が歩きに変わり、数歩歩いたところで足を止める。
「ハハ......じゃあ、何で母さんの手を振り払ったんだよ。あのまま守られていればよかったのに」
しゃがみ込む。俯いていた顔が地面に近づいた。
今、自分はどんな顔をしているだろうか。いや、今はどうだっていい。誰かの前でさえ笑えていれば、今ぐらいは――それとも、ひかるの人生を奪った自分には、どんなときでもつらい顔をすることさえ許されないだろうか。
頼ることができないのは、心配をかけたくないから。たとえ家族でも自分の根深い罪悪感まで救えるとは思えなかったから。だから自分の心に手を届かせないよう、笑顔を見せて自衛するしかなかった。
――触れさせてしまえば、その人が笑えなくなりそうで怖かったから。
連中にもかつての仲間にも見つからないようあちこちを転々としていた梓だが、結局自分がどうしたいのかわからず、最初に隠れていたトイレの前に戻ってきていた。泣きはらした目が重い。涙と一緒に気力も落としてしまったようで体も重い。
――こんなんじゃ、もう笑えないだろうな。笑えなくなったオレってこの世に必要かな。......もう、あのおっさんたちに頼んで、一発で殺してもらった方が楽かもしれない。
こんなところで死んだら、向こうの自分はどうなるのだろうか。死体となってちゃんと元の世界に返されるのだろうか。それなら、少なくとも自分なんかの死体探しに家族が人生を費やさなくて済む。それとも......ここで死んでも、向こうの世界に生きて返されるだけか。
「それなら、向こうでこっそりと死ねばいっか。そうと決まったら早速――」
「くそっ、何でこんだけいて誰一人見つけられねえんだよ!!」
「マズイな。この調子だと俺たち永遠にこのままじゃ......」
聞こえた声につられて横を向けば、廊下の端の陰から現れた集団と目が合った。今まさに梓が会いに行こうとしていた連中だった。
数秒、お互いの動きが止まり、視線が交差する。先に動いたのは連中だった。
彼らは真顔で無言のままずんずんと梓に近づいてくる。彼らの手には金属バット、ナイフ、大きめの石やロープといった変わり種もある。どうやら死に方は選べるらしい。
安らぎが向こうからやってきた。ラッキーだ。梓が立っていた場所も廊下の端。このまま待っていれば、さすがの彼らも逃がすことはないだろう。これで、これでようやく楽になれる。
「ハ......ハハ......」
ゴロゴロと音を立てて引きずられる金属バット。揺れる度に鈍い光が見え隠れするナイフ。安寧に
「......だ」
楽になれる、楽になりたい。
なのに――頭を過ぎったのは、今もどこかにいるかつての仲間たちの顔で。
「いや、だ......しにたく、ない」
パッと身を
後ろを振り返らずともわかる。連中もきっと追ってきている。だけど捕まるわけにはいかない。死にたくない。だって、自分は罪悪感を少しでも忘れさせてくれたあの幸せな時間を覚えている。死んだら、それが全て無に返される!
「はやッ、く......もっとはやくッ......!」
ふと桜子の足の速さを思い出した。どういう風に走っていただろうか。たしか、こんな感じのフォームで......。
思い出して真似をすると、ぐんと速度が上がった。風に生まれ変わった気分だった。
「このままッ......振り切れーッ!」
一方で空もまた、あちこちを転々としているときに連中に見つかり、そのうえ運悪くもう一つのグループに挟み撃ちにされ、四階の教室に追い詰められていた。
「クフフ......これでもう逃げられねえぞォ......」
「今まで散々手こずらせてくれたな」
「これでもう............その、ほら、なんか昔ってお米をお偉いさんにあげてたらしいじゃん?」
「年貢の納め時だな」
「あ、そうそうそれそれ。ってうるせーッ! おまえに言われるまでもねえわッ!」
「いいから観念しろやッ!」と包丁の切っ先を向けられる。それに合わせてじりじりと距離を詰めてくる連中。空は、一歩も動かなかった。
死ぬのか、ここで。そう思っても特に何の感情も湧いてこなかった。だって死んだところでそれは、どうしようもない男の人生がただここで消えるだけ。
――ついに生きる気力も失ったか。
もう、どうだってよかった。こんな人間が生きようが死のうが、何も――
「うおおおおおッ!!」
聞き慣れた声が耳に入ったのは、そのときだった。
思わず背後を振り返り、窓辺に駆け寄って下を見た。誰かが開けていったのか窓は開いており、見下ろしやすくなっていた。
奥の方から走ってきたのは金髪の少年だった。必死の形相で全速力で走り、逃げている。見間違いようがない、梓本人だった。逃げる彼をを蛍光グリーンに髪を染めた男が追いかけていた。
「ったく! あいつらおせえんだよ!! オラテメェ!! 逃げんじゃねえ!!」
「逃げるに決まってんだろバカ!! オレは生きるって決めたんだよッ!!」
瞠目する。
今、生きるって言ったのか、あいつ。一度絶望したはずなのに、なお。
「させるかよ!!」
追いついた男が持っていたロープを梓の首にかけ、思いっきり引っ張った。ヒュッと空の喉が鳴った。
「あぐッ!」
「さあさあ、テメェがどこまで持つか見ものだなァ? ってかあいつらほんとまだかよ! 早くしねえとオレの手柄にしちまうぞ!」
足をジタバタと暴れさせてもがき、首を絞めていくロープを躍起になって外そうとする梓だが、徐々に抵抗する力が弱っていく。じわじわと目から光を失っていく。その様子を、空はただ唖然としながら眺めることしかできなかった。
――眺めることしかできない? 何をやっても無意味だから?
「......違うだろ」
おまえはそうやって過去の傷を言い訳にして、拾えるものを捨ててきただけだろうが!!
「余所見するんじゃねえよ!!」と包丁を振りかざして突進してきた男をかわし、その腹を蹴り飛ばした。突然の反撃に連中がおののいている隙に空は――窓の外へ消えていった。
「は、はああッ!? いや、ちょ、おまえ、死――」
慌てた男たちが窓の外へ顔を出す。だが......。
「懐かしいよな。こういうヘリの上、ずっと乗ってみてえって思ってたんだよ」
空は、窓の下にあるヘリの上に足をつけていた。そしてそのまま素早くもう一つ下のヘリに足を伸ばして降り立つと、騒ぎを聞きつけて愕然とした表情でこちらを見上げている緑男に向かって、その位置から飛んだ。
「うっ、うわあああああっ!?」
悲鳴を上げた緑男は咄嗟にロープを手放し、背後へ飛び退いた。着地した瞬間ものすごい痺れが足に走ったが、大したことにはならなかった。骨折どころか痛めてすらいないのが奇跡だ。
「げほっ、げほっ......空、さん? なん......うわあっ!?」
相手が怯んでいるのをいいことに、空は梓を担ぎ上げて走った。人一人を抱えているとは思えないほど驚くべき速度が出て、緑男の罵詈雑言なんかすでに置き去りにしてしまっていた。
「えっえっ、ちょっ、空さん何で!? 何でこんなことを!? てか何であんな無茶したんですか!!」
「何で何でうるせえよ! 普段は面倒臭がりとかだらしないとか散々人を
そう捲し立てれば、ほんの一瞬梓が押し黙る。
「ッ空さん!」
「何だー!」
「助けてくれて、ありがとうございますッ!!」
「最初からそう言えよ馬鹿野郎が!!」
けど、俺に生きる気力を与えてくれてありがとう。
吠える男二人、みずみずしい生気を振り撒いて風となって走り抜けた。
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