第26話 地獄でもどこでも


          *


「――――っ」


 突き抜けた記憶、情動の波の大きさに、敦司あつしは呆然として座り込んでいた。

 まるで走馬灯のように目の前を過ぎ去った、数々の出来事の衝撃に、そこに刻まれた感情の鮮やかさに、言葉も出せずに固まっていた。


 その目の前に、白無垢の〈鬼〉が立っていた。

 独り言のような微かな声で、動けない敦司にそっと語りかけてきた。


『……私は、すべてを呪うことにした。昔、あなたに……あの人に聞いた呪いを使って、すべてを破滅させようとした。……虫や蛇なんかより、もっと強くて、醜くて、毒々しいもので呪うことにした……』

「っ――」


 触れた袖に、幻が走る。――カランカランと鳴るベルの音。それは始業を告げるチャイムの代わりで、戦後すぐに再開されたとある学校で鳴っていたもの。桑原家と、この小山のような古墳に隣接する、西高の前身となる学校のものだ。

 今回と同じように、〈鬼〉は生徒の命を奪っていった。それぞれの枠の中で一番となった生徒の、その魂魄とも言えるものを奪い、呪いを行使しようとした。


『やろうとした……やろうと、したのに……!』


 消えた幻影に顔を上げると、大きな松の枝にぶら下がる死体の数々が目に映った。血色の紐に喉をくびられ、醜悪に歪んだ顔、顔、顔――。今回だけの数ではないだろう、集められた生徒たちの成れの果てが、そこで不気味に揺れていた。

 それは恐ろしい光景だった。目を覆いたくなる有様だった。

 ――けれど。


『なぜ、あいつらは、呪い殺せない……!!』


 悲痛なほどの〈鬼〉の叫びに、敦司は顔を歪ませる。

 ――その通り、彼女が一番に怨んだ桑原家は、今もなお家名が続いている。それどころか、重工業を主にしながら、事務所と資材置き場のためだけに住宅街に土地を持ち続けられるほどだ。

 理由などわからない。しかし彼女は、失敗したのだ。

 無関係な少年少女を死に追いやり、その魂魄をこうして集め続け、それでもなにも成せなかった。テスト結果の掲示がなくなってからは、それすらできず、呪いも復讐も叶わないままに70年間、怨みだけを重ねてきた。


 ここに来るまでの敦司なら、ただただ恐怖しか感じなかっただろう。

 しかし、今はもう、それだけではいられなかった。

 恐怖が消えたわけではない。頭上の惨状を忘れたわけではない。今も身を焦がすようにくすぶる、幼なじみへの心配がなくなったわけではないけれど――。


 崩れ落ち、両手で顔を覆う血濡れた白無垢に、恐れよりもなによりも、なぜだか痛ましさが勝ってしまった。


「…………てふ子さん」


 その名を呼ぶと、白無垢の肩が、ぴくりと動いた。

 敦司は皐月さつきを抱えたまま、真っ直ぐ相手に語りかけた。


「てふ子さん。おれ、あなたのひ孫です。あなたが守ってくれた、幸夫ゆきおの孫です」

『……ゆき、お……?』


 揺らぐ声。〈鬼〉の面が、そっと上向く。


「幸夫じいちゃんは、丹原たんばらの家で、とても大事にしてもらっていました。おれのばあちゃん、ミチ子は、幸夫じいちゃんとすごく仲が良かったそうです。おれの父さん、幸司ゆきじがじいちゃんの息子です。あと2人、叔父さんと叔母さんがいます。おれは一人っ子だけど、従兄弟もはとこも、たくさんいます」

『……幸夫』

「じいちゃんは――幸夫は、幸せだったと思います。あなたが願ってくれた通り」


 垣間見た彼女の記憶の中。

 別れた子どもは、感情を押し込めたような無表情だった。

 しかし、敦司はちゃんと覚えている。幼い自分を膝に乗せ、大切な箱の中身を見せてくれた祖父の優しい笑顔のことを。隣家の千賀子ちかこに記憶されるほど、祖母が嫁いできてからの彼は、よく笑うようになっていたことを。

 最期は突然ではあったけれど、祖父はきっと、幸せだった。


「だからもう、それでいいじゃないですか」


 呪いも、復讐も、もういいじゃないか。


「旦那さんと子どもさんに、会いに行ってもいいじゃないですか」


 ずっとここに1人で、怨みを抱き続けなくてもいいじゃないか。

 ねえ、と敦司は呼びかける。


羽藤はとうてふ子さん――」


 両親に裏切られたと思った彼女には、元の名字は憎いだろう。

 呪い続けたかたきの名字は、憎いどころではないだろう。

 思い出してほしいのは、愛する人とともに過ごした、幸福な日々のことだった。夢幻のような刹那でも、確かにあった日々のこと。

 だから敦司は、その名を呼んだ。

 羽藤てふ子、と。


『……わたし、私…………幸夫……時夫ときおさん……』


 私、と空を仰いで呟いたその時、パキ、と乾いた音がした。

 驚く敦司の目の前で、〈鬼〉の面が真っ二つに割れる。仰向いて外れた綿帽子の下、左右に落ちた破片の下から現れたのは、両目にいっぱいの涙を溜めた、美しい女性の顔だった。〈鬼〉の下から現れた思わぬ白面に、敦司はそっと息を呑む。


『……でも……でもだめ……』


 くしゃりと歪んだその目から、彼女は、はらはらと涙を零れさせる。


『私、大変なことしてしもた……あの人のところには、もう行けん……そんなん、この子らに、申し訳が立たん……』


 見上げるのは、松の枝で揺れる半透明の死体の群れ。

 彼女の怨みに巻き込まれただけの、夢も希望も愛する人も、可能性に満ちた未来のすべても奪われた無辜の犠牲者たち。

 彼らの無念や恐怖を思えば、彼らを失った人たちの悲哀や絶望を思えば、てふ子のしたことは許されるべきではない。一歩間違えば、自分たちもそうなっていたと思えば、彼女を手放しで哀れむことなどできない。


 それでも敦司は、なんとかして、この人を助けてやりたかった。

 この人の心を、救ってやりたかった。

 だって彼女は――敦司の実の曾祖母なのだ。


 その時ふいに、敦司は、自分の鞄に入っているもののことを思い出した。


「これ、おれ、うちの仏壇で見つけたんです。これって――」


 あなたと時夫さんのものですよね、と中身を見せようとした時だった。

 蓋を開いた漆箱から、無数の蝶々が溢れ出してきた。


「えっ!?」

『あ……』


 花のように、海のように、夢のように、星のように。

 うつつのものではない鮮やかなはねを羽ばたかせ、何十、何百の蝶々が舞い上がる。

 言葉を失くした敦司たちを構わず、蝶々の群れは吊られた死体へとまとわりつく。そして、すべてを覆いつくしたその直後、膨らんだ蕾が弾けるように、死体そのものが蝶々の群れとなって舞い上がった。

 残された赤い紐だけが、松の木の枝で揺れている。その周りで舞い遊ぶ蝶々たちは、本当に夢のようで、いつの間にかすぐ隣に立っていた男性に、敦司はしばらく気付きもしなかった。


『――っ……時夫、さん……』

『てふ子さん』


 その人は、丸いメガネをかけた下で、とても優しい眼差しをしていた。

 茶褐色の国民服を着てガードルをつけたその姿は、戦時中の写真から抜け出してきたかのようなのに、まとう空気は柔らかい。

 彼は、唖然と見上げるてふ子へと、そっと片手を差し出した。


『ようやっと会えた、てふ子さん。さあ、一緒に行こう』

『…………わ……私だめ……私、鬼になったの……ひどいことしたの……地獄に落ちるから、時夫さんのところにはもう行けんの……』


 震える拒絶に、時夫は困ったように笑う。


『僕もたくさん、ひどいことをしたよ。きみと幸夫のとこに戻るためなら、どんなひどいことでもできた。――やけん、地獄でもどこでも、一緒に行ける』

『時夫さん……』

『さあ、行こう。きっと幸夫にも、どっかで会えるよ』


 躊躇う両手を、時夫がすくい上げる。

 ぽろぽろと大粒の涙を零し、てふ子は何度も、大きく頷く。


 寄り添い合って立ち上がった彼らは、宙を舞う蝶々の群れを見上げ、その流れゆくほうへと歩き出す。

 そんな、夢の光景のような後ろ姿に、敦司はなぜだか焦りを感じ、思わず「あの」と声をかけた。自分でも理由は明確ではなくて、それなのに足を止めて振り返ってくれた2人に、なにを言えばいいのかと唇を空転させる。

 その挙句、


「じいちゃんは……幸夫さんはもう亡くなったけど、お二人より、ずいぶん長生きしたんです。だから、その……もしかしたら、見た目じゃわからないかも」


 なんだかとても間抜けたことを言ってしまった。

 けれど、彼らの息子である祖父を見送った孫として、これだけは伝えておかなくてはいけない気がしたのも確かだ。彼らは見ることが叶わなかったけれど、幸夫は彼の人生を歩み、それだけの年を重ねていたのだから。

 ひ孫の訴えを聞いた2人は、顔を見合わせて、くすりと笑う。

 そして時夫は敦司へと、『大丈夫』と頷いた。


『ちゃんとわかるよ、我が子のことは』

『あなたのことも、わかったんやから』


 優しく微笑むてふ子の顔には、もう、鬼の面影はない。

 蝶々の羽ばたきに導かれて、今度こそ彼らは、遠い彼岸へと渡っていく。


 それを最後まで見送って、気づけばいつしか、世界に音が戻っていた。

 木の葉が揺れ、小鳥がさえずり、遠く古墳のふもとからは、耳慣れた声が聞こえてくる。抱き起こした幼なじみは小さく呻き、震える瞼を薄く開いて、目が合うと「……あっくん?」と頬を緩める。


 確かに取り戻したその温もりを恥ずかしげもなく抱きしめて、敦司はこの現実を、強く強く噛み締めた。




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