第16話 聞き耳の成果
進学校の恐ろしさを
通常通り始まった授業はもちろんのこと、誰一人として、前日までにあった事件について口に上らせなくなっていた。それはもう過ぎたことであり、終わったことで、過去よりも優先すべき未来のために必要なことに満ち満ちた日々の中では、いつまでも構っていられるものではないのだった。
何事もなかったかのように英語の予習をし、化学の課題を交換採点し、古典の小テストについての問題を出し合う。そんなクラスメイトたちの中にあって、敦司は、そういった空気を恐ろしいと思ってしまう自分に気がついた。
ただそれは、前日にも幽霊の影に追われて飛び下りようとした生徒がいたことを、そして、この惨劇が続くかもしれないことを知っているからなのだろう。
そんなことを露とも知らないままならば、きっと敦司も、目の前の小テストの方がよほど重大事項に思えたはずだった。そんなことは、重々わかっている。
それを共有できる相手は、文化部室棟の片隅にしかいないということも。
「――あちゃっ! 鍵、忘れちゃった!」
屈託なく歪めた顔で、ぴしゃりと額を叩く。古典の担当教諭は20代後半の小柄な女性で、そんなしぐさがすこぶる似合う人だった。
2時限目の授業時間。とっておきの古典資料映像を見せてあげると言い出した彼女に連れられて、特別教室棟に移動している途中だった。
幼い子供のように困った顔をしていたのもつかの間で、教諭は、背伸びをするようにして生徒たちを見渡した。
「悪いんだけど日直さん! 視聴覚室の鍵、取ってきてくれるかしら? 先生に言われてきましたって言えば、大丈夫だから!」
授業時間中のひとっぱしりを言い渡された運の悪い本日の日直は、敦司ともう一人、出席番号で
実に残念ではあるものの、女子と男子であれば、後者にこういった雑務が流れてくるのは実に自然なこと。反論の余地さえないままに、敦司は職員室へと駆け出すこととなっていた。
視聴覚室と職員室は、同じ棟に入っている。ただし前者は3階にあり、後者は2階の突き当たりだ。敦司は注意を受けない程度の早足で、直近の階段を駆け下りていった。
職員室を筆頭に校長室や生徒指導室などばかりのこの階は、授業中ともなると、ひっそりと静まり返っている。遠くのエンジン音が聞こえるほどの静けさに居心地の悪さを覚えながら、足音を潜めて廊下を通り過ぎようとした時だった。
「……だから、あれほど言ったではないですか!」
「!」
突然、怒声とも言えるような男の大声が響き渡り、敦司は身を竦めた。
驚いて辺りを見渡すが、見える範囲には自分以外に誰もいない。首を捻っていると、すぐ脇にある扉の向こうから、また同じ声が聞こえた。
「止めるべきだったのです! あんなことは! 代々の校長たちが、なにも考えずに同じことを続けていたとでも思ったのですか!」
「……そのことについては、もう結論が出たはずでしょう。ただの昔話、迷信だと……」
答える疲れ気味の声には、聞き覚えがあった――校長のものだ。扉上に掲げられたプレートを見ると、そこはまさしく校長室だった。
最初の声が、またも鼻息を荒くする。
「わたしはずっと反対していたんです! もしまた首位の発表などすることがあったら、かつての二の舞になるだろうと! それを押し切ったのはあなたですよ! この責任――」
「70年も前の話です。昔話です」
遮る声にも苛立ちが交じる。
「
「これは事実です。歴史なんです。地域の先人たちによって、間違いなく語り継がれてきているのです。実際に被害者の記録も――」
「時代柄、情報が錯綜することもあったでしょう。疑心暗鬼や世間への不安が、単なる事故を結び付けてしまったのかもしれません。――なんにせよ、〈呪い〉などというものは、もはや時代錯誤ですよ」
「しかし――」
「今回の件は、ただの不幸な事故の連続です。ただでさえ深いご遺族の悲しみを、そのような昔話で引っ掻き回すような真似は控えていただかないと――」
「――っもう結構!」
荒く断ち切る一言と、目の前の扉が開くのとはほぼ同時だった。
逃げる間もなく固まった敦司は、「失礼します!」と出てきた相手と、真正面から目を合わせることとなってしまった。
「っ!」
びくりと肩を跳ねさせた相手は、50代後半に見える白髪交じりの男だった。ワイシャツの上に作業着を着るその姿は、あいにく敦司には見覚えがない。
驚きに見開かれた目が一瞬、逸らされたと思った直後、その先にあるものに思い至って、胸ポケットにつけた名札を確認されたのだと気付いた。
「……よりにもよって……」
苦々しい呟きの続きは聞こえなかった。男は尊大さを調えるように襟を正して、敦司を見下ろす。
「なにをしているんだね。今は授業中のはずだが」
「あっ! ええと……」
自分がどうしてここにいるのかを思い出した敦司は慌てて口を開こうとしたものの、相手はそこまで付き合うつもりもなかったらしい。ふん、と大きく鼻を鳴らすと、背中を向けて正面玄関の方へ立ち去っていってしまった。
「…………」
無事に鍵を手に入れ、クラスメイトたちのところへ戻る途中も、敦司の頭の中は先程聞いてしまった会話の内容でいっぱいだった。
首位の発表。
かつての二の舞。
――70年前の〈呪い〉。
これはどういうことだろう。
内容自体もそうではあったが、よりにもよって校長が、それを承知しているかのように受け答えしていたことが、敦司にとっては衝撃だった。
大概の優等生の例にもれず、敦司はどこか、教職員というものを現実世界の指標のように思っている部分があった。校長といえば、その代表も代表である。いくら否定的とはいえ、呪いだなんだと話していることだけでも、とうてい信じられなかった。
――そう。そしてもちろん、その内容も。
鼓動が速い。地に足がつかない。歯ぐきや胃袋が、宙に浮くような思いだった。
自分一人で抱えていられることではなかった。なるべく早く、
しかし結局、それは叶わなかった。
3度目の惨劇が起こったのは、その次の休み時間のことだった。
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