第8話 白昼夢の願望


 あんなものを見てしまった同じ空間で横になるのは恐ろしくもあったものの、結局その1時間は、思いのほか充実した休息を敦司あつしの頭にもたらした。


 赤い紐も生白い腕も、幸いにして悪夢の類いも見ることなく、保険医の促しで目が覚めた。いくら疲れていても眠れるはずがないと思っていたが、どうやら敦司の神経も、それほど細いものではなかったらしい。


 教室に戻る道中、6時限目に間に合うよう早足で廊下を通りながら、敦司は自分の馬鹿げた考えを、いっそ根本から否定してしまおうという気になっていた。


 なぜなら――落ち着いて考えればわかることだ。

 あの紐が敦司の目に触れだしたのは、演劇部室を訪れて以降のことだった。それも一度目は部員によって視界を途切れさせられてしまったし、二度目も、そう、部員たちに引き連れられて行った保健室でのことなのだ。

 あの保険医と相談員、そして女子生徒と花嫁がグル――後者2人に関しては部員の1人――であっても、驚かない。


 つまり、すべてはそういうことなのだ。

 生徒1人の死を巻き込んだ、度の過ぎた悪ふざけ。


 この際、自分が感じた耳鳴りや寒気、現実味のない空間の切り替わりなどというものは、あまりのショックに見てしまった白昼夢ということにしてしまおう。

 たとえそれが現実逃避に過ぎなくとも、このどうしようもない震えを宥める役に立つのなら、決して無意味ではないはずだと、信じることにして。


 教室に戻り6時限目を受けるというと、田所たどころには妙なものを見る目をされた。

 そこに含まれているのはもしかしたら心配だったのかもしれないが、5時限目のノートは「いやー、昼飯の後って眠いよなー」とその存在自体なかったことにされたので、感謝やありがたみといった感情は持たないことにした。


小野辺おのべさんに借りたらいーんじゃね? 確か3組も、古典は和泉センセーだったろ?」


 ひやかすでもからかうでもなさそうな勧めに、だから敦司も、余計なことは考えないままで至極普通の問題点を指摘する。


「先生が同じでも、同じところやってるとは限らないじゃん。あっちの方が、進みが遅いかもしれないし」

「えー、そんな変わんないって。まだ4月なんだしさー」

「で、でも、だからって女子に借りるなんて………………嫌じゃん」

「なんで?」

「……えっ?」

「なんで?」


 素の顔で同じ問いを繰り返す田所は、本気でわからないといった様子だ。そんな馬鹿な、とまじまじ友人の顔を見返してしまう。

 そりゃあ、敦司自身、ノートを借りるだけで少しばかり意識し過ぎかと思わないではない。けれど――だって――相手は女子だ。しかもただの女子じゃない。敦司にはとてもじゃないが釣り合うはずのない、明るく賢く可愛らしく、誰にでも好かれるし誰にでも好意で接することができる、高嶺を越えた高嶺の花なのだ。


「…………無理だよ」

「でも、幼なじみなんだろ?」


 思わず零れた本音にも、田所はけろりと返してくる。まるで敦司の内心を見透かしたような切り返しだが、本人としては、特になんでもない問いなのだろう。


 けれど敦司は、だからだ、と思う。


 幼なじみだから、皐月さつきは敦司に付き合ってくれる。幼なじみだから、あんな高いところで咲き誇る彼女でも、地の底で這いずり回るこんな自分を見捨てないでいてくれる。

 皐月はきっと、そんな風には考えないのだろう。怪我した野良犬を迷わず抱き上げるような、真っ直ぐに優しい心根を持つ彼女だから。

 しかしだからこそ、それを盾にとる真似をして迷惑をかけたりはしたくない。

 彼女の邪魔にはなりたくないと、思ってしまう。


 結局、5時限目のノートは左隣の男子に借りることにして、その話は終わりにした。かろうじて名字だけは記憶にあったその男子も、横耳に聞いていた田所の論理は理解できなかったようで、同情的な視線と共に快くノートを差し出してくれたのだった。


 6時限目は数学だった。一日最後の重い打撃にほとんどの生徒は机に沈み、そうでない生徒も、必死の形相で授業について行っている。

 そんな中で、敦司はぼやっと黒板を眺めながら、〈今回の件〉についてあの演劇部員たちに直接、抗議申し立てに行くことは、もしかすると賢くないのではないかということに気が付いた。


 そもそも――本質的にはまったく異なるが――皐月に関してと同じ問題がある。

 全員、違うクラスの女子なのだ。同学年でも教室まで行って呼び出す勇気などあるはずがないし、まして上級生ともなれば、それは言わずもがなだった。無茶だ。まったくもって無茶だった。

 あの〈馬〉を見つけ出せれば別かもしれないが、いくらなんでも、手がかりがなさすぎる。3年男子であるということしかわからないのだから、飛び下りた男子生徒よりも情報が少ない状況だ。〈3年男子の演劇部〉でそれなりに絞れるのかもしれないが、できればそれは、最後の手段にしたいところだった。〈馬〉との邂逅は、あまりいい思い出ではない。


「…………」


 〈あの部室にもう一度行く〉という選択肢は、取るつもりは毛頭なかった。

 そもそもあの現場の前なのだし、封鎖とまではいかなくとも、部員たちでもしばらくは足を遠ざけるに違いない。

 そうでなくとも、あの光景を思い出すよすがになるような場所に行きたいとは、敦司には、どうしたって思えるはずがないのだった。


 寝起きの1時間、時々黒板を写す以外をそういった思考に割いた結果、もうこれは放置してもいい問題ではないかという結論に落ち着いた。

 これが新入生を対象にした悪戯ならば、そう長続きすることもないだろう。そう思って対処していれば、敦司になどそのうち飽きて、他にもっといい標的を見つけるだろう。


 もし、悪戯などではないとしたら――


 気を抜くと浮上しようとするそんな馬鹿馬鹿しい可能性は、そのたびに真っ向から否定する。ありえない。馬鹿馬鹿しい。くだらないと自身に言い聞かせる。そうだとしたらそれはもう――それこそもう、敦司に抗うすべなど、なにひとつとして残されなくなるのだから。


 夢で、悪戯で、他愛のない悪意に満ちた悪ふざけ。

 それでいいはずだ。

 もう、それで。


 敦司はシャーペンを机に置き、閉じた瞼を両手で押さえつける。きっと傍からは眠気を払うかのように、しかしその実、目にしたすべてを拒んでしまうために。忘れるために。消し去るために。なかったことにしてしまうために。


 ――その時の敦司は知らなかったし、知りたくもなかった。

 そんな儚い願望が、一日とたたず、たやすく打ち砕かれてしまうことなんて。



          *



 ――それは夢のはずだった。


 取り囲む炎。

 白無垢の女。

 その手に握られた赤い紐。


「夢だ、夢だ、夢だ、夢だ……!」


 夢のはずだ。ただの悪夢だ。

 ――『夢が現実に現れる』など、あっていいことのはずがない。


 炎に包まれた生徒会室を飛び出してから、どれほど逃げてきただろう。

 どこまで行っても炎の壁はなくならず、限られた逃げ場を必死で駆け巡るのは、まるでケージの中のハムスターにでもなった気分だった。

 振り向かずとも、あの白い女が追ってきているのは、嫌というほどわかっていた。

 

「……はあ、はあ、はあ、は、――ッ」


 取り巻く炎はこんなにも燃え盛っているのに、掻き分ける夜気は、どうしてこれほど肌寒いのだろう――そんな疑問など微かなもので、曲がろうとした矢先の角で燃え上がった火柱に、掠れた悲鳴を上げて逃げること以外は、すべて脳裏から消え去ってしまう。

 たとえこれが夢だとしても、生きたまま焼かれるなど、ごめんだった。


 息が切れる。膝が笑う。毎日コートを走りまわっていた頃の体力は、この2年間で、どこに溶け消えてしまったのだろう。成績のために運動部を忌避してしまった過去の自分が、これほど恨めしかったことはない。


「ひっ!!」


 突如、目の前の空間が燃え上がった。

 慌てて立ち止まった反動で後ろへふらつき――氷の塊に、襟首を掴まれた。


「――!?」


 次に感じたのは、痛みだった。顔面から瞬く間に駆け下りる灼熱の痛み――それが肌を舐める炎の熱さだと気付くのには、予想外に時間がいった。

 しかしそれも一刹那だ。

 喉を裂くような悲鳴が溢れた。振り払おうと掻いた腕にも、制服をまとった胸元にも、痛みの熱がまとわりつく。


「ああッ! ああァッ! いやァアァァッ!」


 その一瞬、炎が揺らいで目の前が開けた。

 そこは彼女にとって、嫌というほど見覚えがある場所だった。窓から見下ろし、そのそばで談笑し、学校行事の締めくくりとして飛び込む男子生徒を「正気じゃないわ」と見下していた場所だ。

 そう――そこには、水があった。

 飛び込むなど正気じゃないと思えるような、そんな状態ではあるけれど、そうだとしても水は水だ。


 この地獄から逃れる、唯一の道だ。


 彼女は無我夢中で飛び込んだ。身体中を焼く炎熱を消し去ろうと、必死になって水に浸った。顔と胸元が特にひどくて、潜るように上体を水面に沈める。


 ――その後ろ頭に、氷の冷たさが圧し掛かった。




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