第2話 幽霊は高校野球がお好き

 ――それで、どうします。

 そう聞かれて、お願いしますと答えた自分の神経を疑いながら、亮は段ボールの中身を引っ掻き回していた。

 だが、家賃の安さにはかえられなかった。一万二千円。呪文のように自分に言い聞かせながら、ため息を飲み込むしかない。

 その横では幽霊が、興味深そうに亮の荷物を覗き込んでいる。遠慮もはじらいもなかった。

 ――や、どうも。お邪魔させてもらってます。

 昼寝から目覚めた幽霊は、そんなふうにけろっと笑って、文香と名乗った。槙野文香(まきのふみか)、享年二十一歳。

 自己紹介でそんな単語を聞いた経験などなかったから、キョウネンってなんだったっけかと、亮は十秒くらい考え込んだ。

 幽霊とはいえ、どうやら祟るというふうでもなし、他人の部屋に居坐って堂々とくつろいでいる図太さは、まあいい。いやよくはないが、次の引越し代を溜めるまでの仮住まいと思えば、なんとか我慢できないこともない。問題はそれよりも、

「なにアンタ、派手な髪してるくせに、地味な服ばっかり着てんのね。カッコつけるんだったら徹底すればいいのに、半端なやつ」

 この口の悪さだ。亮はぴくりとこめかみが震えるのを感じたが、言い返さなかった。女に口喧嘩で勝てると思うほうが間違っている。

 こんなになれなれしい幽霊が、まさかこの世に(いや、この場合はこの世なのだろうか)いるとは思ってもみなかった。亮はむすっとして文香を睨んだ。だが睨まれたほうには、ちっとも堪える気配がない。

 引越しを手伝いに来た亮の兄には、文香の姿はまったく見えないようだった。

 いままで幽霊の類など一度も見たことがなかった亮にさえ、これほどはっきり見えるというのに。兄が帰ってからぼやいた亮に、文香はひょこっと首をかしげた。

 ――さあ、人によって見えたり見えなかったりするみたいだけどね。なんかあんじゃないの、フィーリングとか、バイオリズムとか。オカルトあんまり興味ないから、よく知らないけど。

 こんな図々しい女とフィーリングが合うとか言われたくはないと亮は思ったが、口に出すのはなんとか堪えた。

「やー、それにしても暑い暑い。毎年さ、去年はこんなに暑くなかったって思うけど、今年に限っては気のせいじゃないよね、ぜったい」

 荷物を覗き込むのには飽きたのか、部屋の真ん中にごろんと転がって、文香はぼやいた。

「っつうか、なんで暑いんだよ。幽霊だろ」

 言うと、文香はむっとしたように唇を尖らせて、

「知らないわよそんなの。じゃあ訊くけど、あんた自分の体がどういう仕組みで暑さを感じてるのか、いちいち全部説明できるわけ?」

 そんなふうに小憎たらしく反論しつつ、尻をぼりぼり掻いている。

「尻なんか掻くな、女のくせに」

「うっさいなあ、女に夢見てんじゃないわよ。だいたいあたしだってまさか幽霊になってまで、死ぬ前に蚊に食われたところがいつまでも痒いような気がするなんて思ってもみなかったわよ。第一、公共の場ならともかく、自分ちでまでそんなもんガマンできっか」

「ここは俺の部屋だ!」

 亮が反論すると、文香はあっさりと笑って頭を掻いた。「あー、ごめんごめん。そうだった。何年も住んでたもんだから、ついさあ」

 段ボールの封をはがしながら、亮は長い溜め息を落とした。

「やー、それにしてもホント暑いわー」

 タンクトップの裾をつかんでばさばさ風など入れている文香は、腹が見えても恥じらうそぶりもない。気まずく目を逸らしながら、亮はぼやいた。

「お前、いるだけで涼しくなるとかそういう特典はないのかよ。幽霊ならちょっとくらい幽霊らしくしてみたらどうなんだ」

「幽霊ってそういうもんなの? ねえ、それよりエアコンつけないのエアコン」

「んな金があるなら、幽霊付きの格安アパートなんか借りるか」

「あー、まあそりゃそうか」

 あっけらかんと笑って、文香は窓際に座りなおした。その位置なら、開け放した窓から多少なりと風が入ってくる。

 たしかに暑い。窓の外には真っ青な空がのぞき、蝉がわんわんと声の限りに叫んでいる。

 脱いだTシャツで汗をぬぐうと、亮は段ボール箱の中から比較的まともそうな服を引っ張り出した。着替える亮を見て、文香が首をかしげる。

「なに、いまからどっか出かけんの」

「面接」

 亮が正直に答えると、文香は目を丸くした。

「なに、アンタ無職?」

「うっせえよ。バイトクビになったんだよ」

「あっはは、馬っ鹿だねえ。何やらかしたの」

「笑うな。むかつく客、殴ったんだよ。悪いか」

「え、やだうそ暴力男、サイテー! 悪いに決まってるじゃない。信じられない!」

 急に血相を変えて、文香はぎゃんぎゃん噛み付いてきた。それを無視して、亮は部屋をあとにした。鍵を閉めても、まだ中から怒鳴り声が聞こえる。

 ったく、なんなんだよあの女。

 口の中でぼやいて、亮は陽射しの強い道へ出た。向かう先は駅裏の居酒屋。指定された時間に余裕をもって着くためにかなり早く部屋を出たが、その分よけいな汗を掻きそうだった。

 午後二時の屋外は、ここは本当に日本かと疑いたくなるくらい暑い。空は雨など期待できそうもなく、真っ青に澄み渡っている。

 バイトをクビになった三日前も、ちょうど同じような快晴だった。耳の奥に店長の言葉がまだ残っている。

 ――気持ちはわかる。あの客も大概だったしな。斉藤ちゃんも困ってたし。お前だってもし絡まれたのが自分だったら、黙ってこらえたんだろ。

 店長はむしろ同情的だった。いわれたことの中身よりもその声の調子の方が、強く印象に残っている。

 ――お前はこれまでよくやってくれてた。俺は買ってたよ。でもな、亮。客商売なんだよ。わかるだろ。客を殴った店員を置いとくわけにはいかないんだよ。

 わかっていた。雇われ店長の立場も、それを自分が苦しくしたことも。だから言い訳はしなかった。

 住むところが見つかるまで、上、使ってていいよ。そう言ってくれた店長に、そういうわけにもいきませんからと頭を下げて、亮は荷物をまとめた。間借りしていた店舗の二階には、たいしたものを置いていなかった。身の回りの品をまとめると、荷造りはあっけないほどすぐ済んだ。衣類だけ、住むところが決まるまで置かせてもらうことにした。

 ――残念だよ。

 去り際にかけられた言葉に、亮は一度だけ振り返った。何か言おうと思ったけれど、言葉は見つからなかった。



 面接を終えた帰り道、長い坂をのぼりながら、亮は顔の汗を拭った。

 夕方と言っていい時間だが、日が沈むにはまだ間がある。蝉時雨の合間を縫うように、どこからか金属バットの打球音が響いた。指示の声があとに続く。近くに高校のグラウンドがあるらしかった。

 亮は舌打ちして足を速めた。失敗だったな、と思う。家賃と立地のよさにばかり気を取られていて、そこまでは頭が回らなかった。

 コーポに戻って玄関を開けると、部屋の真ん中で文香が膝を抱えていた。

「あ、おかえり。バイトどうだった?」

 そういって上げた顔は呑気なもので、出かけたときの不機嫌などきれいに忘れ去っているようだった。なんとなく拍子抜けしながら、亮は答えた。

「決まった。明日からシフト入る」

「へえ、よかったね。どんなとこ?」

「駅の近くの飲み屋だよ。昼もやってるところ」

 説明する声に思わず安堵がにじんだ。最悪の場合、客を殴って辞めたという話が広まっている可能性も、頭の隅をちらついていた。

 前のバイト先からは場所も離れている。心配のしすぎだと思ってはいたが、それでもやはり、決まってみればほっとした。

 兄が押し付けていったテレビの電源を入れると、ちょうどローカルニュースの時間だった。

 買ってきたコンビニ弁当を広げたところで、画面がスポーツコーナーに切り替わる。亮は舌打ちしてリモコンに手を伸ばしたが、県営球場が画面に映し出されるほうが、一瞬早かった。

「あ! ねえ、もうそんな時期?」

 チャンネルを変えるのと同時に、文香がはしゃいだ声を上げた。

「やー、死んでからカレンダーなんかぜんぜん意識しないしさあ、気づかなかった。ねえ、さっきのとこにチャンネル戻して!」

「は? イヤだよ」

「なんでよ、ケチ! ねえ、後生だから見せてよ。毎年ずっと楽しみにしてんのよ高校野球!」

 その剣幕におされて、亮は舌打ちしながらチャンネルを変えた。歓声を上げてテレビに張り付く文香に背を向けて、煙草を手に取る。

 ベランダに出ると、どこかすぐ間近で蝉が鳴いていた。

 手すりにもたれて煙草に火をつけると、風が吹いて、街路樹の梢を鳴らした。契約のときには部屋の景観など気に留める余裕もなかったが、あらためて眺めてみれば、二階の部屋にしては眺めがよかった。丘の中腹だけあって、見晴らしがいい。

 少し離れたところに、広い川が流れているのが見えた。夕焼けに、空の端が染まっている。夏らしい分厚い雲が、空の高いところを流れていく。

 クラクション、踏み切りの音、信号の変わる音楽。どこか近くを救急車が通り過ぎる。そうした騒音が小止みになるたびに、窓越しにテレビの音が漏れ聞こえる。

 亮は舌打ちして、煙草のフィルターを噛み潰した。

「ね。野球、嫌いなの?」

 声がして振り向くと、ガラス戸から文香の上半身が生えていた。

「うわ!」

 とっさに悲鳴を上げて、亮は手すりにしがみついた。

「お前なあ、たしかに幽霊らしくしろっつったけど」

 文香は笑いもせずに、じっと返事を待っている。亮はがりがり頭を掻いて、煙草の火をベランダのコンクリートに押し付けた。

「嫌いだよ」

 自分の声ににじんだ動揺に気づいて、亮は憮然とした。

 にこりともせずに、文香はいった。

「ありがと。チャンネル譲ってくれて」

 ふん。亮が鼻を鳴らしたときには、文香の体はすでに引っ込んでいた。部屋の中をのぞき込んでみれば、もう画面に貼りついている。

 二本目の煙草に火をつけて、亮は汗でべたつく顔を拭った。

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