去りゆく七月の空に
朝陽遥
第1話 ただし幽霊付き
――なあ、わかるだろう。
汗を拭きながらそういった顧問は、けして亮の目を見ようとしなかった。視線は床に落ちて、忙しなく揺れている。その先に西日が射して、宙を舞う埃がぎらぎら光っている。
――みんな、ここまで真面目に頑張ってきたんだ。お前だって一緒にやってきたんだから、わかってるだろ。あいつらの努力を全部、無駄にするのか。
言われなくてもよくわかっている。それでも返事をする気にはなれなかった。こちらの弱いところを突こうという、その姿勢が気に食わなかった。
亮は無言のまま、踵を返した。
――山邊。
呼び止められても、振り返らなかった。
こっちこそ願い下げだと思った。こんな連中と一緒にやっていけるかと。
背中から、そらぞらしい声が追いかけてきた。
――なあ。山邊。なんで我慢できなかった。
知るか。思ったが、口には出さなかった。
部室を出ると、ノックの音がひときわ高まった。体に馴染んだはずの打球音が、いまはひどく癇にさわる。
さっきまでチームメイトだった連中に背を向けて、亮は野球部のグラウンドを後にした。誰かに名前を呼ばれたような気がしたが、振り返らなかった。
それきり二度と、グラウンドには足を踏み入れなかった。
陽射しが強い。熱せられたアスファルトが、石油の臭いを立ちのぼらせている。
辺り一面を陽炎が覆い、路上は水面のように波打っている。立ち並ぶ街路樹から降り注ぐ蝉の声が凄まじい。古びた商業ビルの壁に据え付けられた室外機がうなりをあげて熱風を吹き出している。
ビルの壁には、年季の入った掲示板。フレームがところどころ歪み、鍵は錆をくっている。その中に十枚あまりの広告が貼り出されている。
亮はその一枚を見つめて、立ち尽くしていた。
強烈な陽射しが、肌を圧迫している。いいかげんに染めたまだらの金髪から汗がしたたり落ちて、Tシャツに染みを作る。あまりに長い時間そこに立ちどまっているので、ときどき向かいのビルの住人が窓から不審そうに見下ろしてきていた。
掲示板に貼られているのは、物件情報。雑居ビルの一階が不動産屋になっている。大手チェーンとは違う、こぢんまりした店舗だ。
貼り出された広告は、いまどき珍しく手書きのものだった。やけに達筆なマジックの字が、アパートの立地のよさをうたっている。駅まで徒歩五分、1K、風呂トイレ付き。
なかなかの条件だった。狭いには違いないが、一人暮らしの男には十分だ。だが亮が注目しているのは、そこではない。
広告は更にうたう。築十二年、即日入居可、家賃一万二千円/月、敷金礼金なし。
この立地にしては、破格の安さだった。というか、破格すぎる。周辺で同じ条件なら、どんなに狭くて古いところでもまず月三万を切ることはない。敷金礼金が不要というのも大きい。バイト先をクビになりたてほやほやで、実家には戻りづらい事情のある二十二歳のフリーターとしては、どうあっても逃すわけにはいかないチャンスだった。
だが亮がいま見つめている視線の先は、その格安の賃料でもない。
簡素な間取り図の下、達筆のうたい文句はさらに続く。
室内洗濯機置き場あり、日当たり良好、徒歩圏内に総合病院あり、コンビニ真横、ただし幽霊付き。
「あの」
声をかけながらドアを開けると、店内は雑然としていた。
カウンターの中にいた女が、無言で顔を上げる。美形といっていい顔立ちだが、年齢がよくわからなかった。ひどく若いようにも、三十過ぎくらいにも見える。座っている位置からすると店員としか思えないが、それにしては愛想がなかった。
「表の貼り紙なんスけど。コーポ花丘って」
亮がいうと、女は無言のまま立ち上がった。面食らう亮をよそに、つかつかと奥のキャビネットに向かう。
女は迷いもなく一冊のファイルを引っ張り出すと、カウンターの上に広げた。見ろということらしい。
むっとしながらも、亮は黙って椅子に座り、視線をファイルに落とした。表のチラシよりは詳しい地図と写真、間取り図に添えて、細かい条件が付記されている。
安普請だろうとセキュリティが無用心だろうと、男の一人暮らしにはたいして問題にならない。共益費が安いのもありがたい。
だが問題はそこではない。
やはりそこには「ただし幽霊付き」の文句が、はっきりと書き込まれている。
安いというのなら、わけありなのだろう。それは亮にもわかる。だが事故物件にしても普通は「告知事項あり」とかそういう表示をするだろうし、前の住人が変死でもしたのならそう書くだろう。
幽霊だって? 亮は顔をしかめる。これだけ堂々と書かれると、奇抜な宣伝か面白くもない冗談なのだろうかとも思う。思うが、女は冗談など間違っても口にしなさそうな無表情で、じっと亮の反応を見ている。
「あの、この幽霊付き、っつうのは」
亮が顔を上げてそう言いかけたときには、女はすでに立ち上がっていた。奥のデスクから車のキーを取り上げて、当然のようにカウンターから出てくる。
「あの」
「下見。説明するより早いでしょう」
いうなり女性は背を向けて、さっさと店を出た。
幽霊付きというそのコーポまで、女の運転する車で、五分もかからなかった。
車を降りた亮は、強烈な陽射しに目を眇めた。小高い丘の中腹に広がる、住宅街だ。駅まで徒歩五分、ただし帰りは上り坂、といったところか。
しかし建物の外観は、悪くないように見えた。少なくとも、おどろおどろしい雰囲気は感じられない。築十二年だったか、こぢんまりしたアパートだ。
不動産屋はさっさと車に鍵をかけて、階段を上っている。亮が追いついたときには、もう二〇二号室のドアに鍵を差し込んでいた。
ドアノブをひねる不動産屋の手つきは、あっさりしたものだった。幽霊つきの部屋だというわりに、何の躊躇もなく部屋に上がりこんでいく。
まあ、出るっつったって、どうせ俺、霊感なんかねえしな。胸のうちで呟いて、亮は女のあとに続いた。
しばらく入居者がなかったのだろう、かび臭いようなにおいが鼻につく。玄関の先がすぐ台所になっていた。その横が家具の何も置かれていない、がらんとした六畳間だ。
その真ん中に、なぜか若い女がひとり、寝転がっていた。
亮と同じくらいの年に見える。口を半開きにして、気持ちよさそうに寝息を立てていた。いかにも昼寝というくつろいだ様子で、部屋着の腹のあたりが、だらしなくめくれかかっている。
女はうーんと小さく唸って、寝返りを打った。
その体の向こうに、うっすらと畳が透けている。
「うおわ!」
奇声を上げて、亮は飛び退った。
振り返れば、不動産屋はあいかわらず無表情のまま、悠々と腕など組んでいる。陽気にセールストークなど繰り広げられてもそれはそれで不気味だが、それにしてもあまりに平然としていた。幽霊など見慣れているとでもいうのだろうか。
その前で情けなく怯えてみせるには、男の面子が勝った。亮はどうにかパニックの寸前で踏みとどまって、透ける女に視線を戻した。
「うーん……もう食べられないよう」
ベタな寝言にもほどがあった。思わず脱力する亮の存在になど、まったく気づかない様子で、眠る女はぼりぼりと腹を掻いている。
「っつうか、幽霊なのになんで寝てるんだよ」
ツッコんでも、どちらからも返事はない。亮は顔をひきつらせながら六畳間に足を踏み入れた。
本当に幽霊なのか。それにしては、女はあまりにも呑気な寝顔を晒している。亮は何度も目をしばたいて、その顔を覗き込んだ。寝顔ではよくわからないが、どこにでもいるような普通の女に見える。
だが、やはり透けていた。何度確認しても、その体の向こうにうっすらと畳が見えている。
「ううん……」
瞼をぴくぴくと震わせて、幽霊が身じろぎした。思わず固唾を呑んで見守る亮の前で、女はぱちりと目を開ける。
「あれ?」
およそ幽霊のものとは思えない、間の抜けた声だった。
女は亮の顔を見て、戸惑ったように目を瞬いた。それから寝癖のついた頭を掻いて、照れくさそうに笑った。
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