32 その腕に誓おう
足早に職員通路を進めば、特別室が並ぶ一角の前で耶霧が待ち受けていた。
「耶霧」
「葉介」
壁に寄りかかっていた耶霧は、塩見の進路に立ちふさがる。
「大変なことになったのう」
そして耶霧は口角を上げて言った。
「主に言わせれば、まさに最悪のシナリオというヤツじゃ。すでに新舞浜は殺伐としておるぞ」
当事者意識がないのか、危機感がないのか。まるで塩見を挑発するような態度だ。耶霧の浴衣が乱れていないところを見ると、混乱した市民によって危害を加えられたりはしていないようだ。
「お前が無事ならよかった」
塩見は頭を掻きむしってから、耶霧を睨みつけるようにして言った。
「だが、今お前に構っている時間はない。通してくれ」
「習志野に会うのじゃろう」
耶霧は食い気味で言った。
「わっちも連れてゆけ」
そして塩見が二の次を言う前に、腕にすがるように捕まった。
「相手が相手、そしてこの状況での登場じゃ。こちらもそれ相応の準備をせんとな」
そして上目遣いで半眼する。
相手は習志野新。異世界人批判が加速する今、真っ先に矛先を向けられるのが、異世界人を積極的に雇用している習志野だ。そんな相手が、直接出向いてきた。それが尋常ではないことは容易に想像できる。しかしその先でどんな話があるかのは、想像できない。
「余計なことはしないでくれよ」そう言って塩見が睨みつけると、
「助言くらいならしてやろう」と軽口を叩いた。
京子は、この女の心臓はいったいどうなっているんだろう、と畏怖した。耶霧はこの状況を楽しんでいるかのようにさえ見えるのだ。京子は二人のあとを自然と距離を空けて歩いた。
特別室の前には別の事務職員が待っていた。「すでに中でお待ちです」と言い残し、鍵を渡して去っていく。塩見は扉の前で深呼吸し、ノックしてからゆっくりと扉を開けた。
「失礼します」
目前のソファに、習志野がいる。
憔悴しきり、別人のようになってしまった習志野の姿が、そこにはあった。
前のめりになり、膝に乗せた肘で頭を抱え、その顔面は蒼白。塩見が対面に座っても、顔も上げなければ口も開かない。尋常じゃない様子に、京子は体調が心配になり横にすわり、その顔を覗き込んだ。瞳孔は開かれ、そこに京子は映り込んでいない。
「何か言いたいことがあるんじゃろ」
出入口を塞ぐように扉によりかかっている耶霧が、催促するように言った。その言葉に、習志野はようやく顔をあげ、塩見を睨むようにして言った。
「どうしてあんな事を言った」
絞り出された声は、弱弱しくかすれている。
「会見のことですか」
塩見が聞くと、習志野は睨んだまま頷いた。
「魔法は実在します」
「ふざけるな!」
塩見がその言葉を発した瞬間、習志野は崩れるように塩見の腕に掴みかかった。
「彼女はうちの従業員だぞ。被害者だぞ。性犯罪のだぞ。なぜあのタイミングで発表した。あれではまるで彼女の方が悪いみたいではないか。貴方たちは人でなしなのか!」
その眼は救いを求めるようだった。塩見は目線を逸らさず、言った。
「事実です」
習志野は膝から崩れ落ちるようにして、うずくまった。塩見の腕を掴んでいたその手が力なく落ちていく。それに引きずられて、塩見のシャツがはだけていく。
そして、塩見の左腕が、露になった。
「!!」
京子は、思わずその口を手で覆った。
それは声にならない悲鳴だった。
習志野は京子の様子に気づき、再び顔を上げた。そしてその光景に、息を飲んだ。
「これが、魔法と関わりすぎた者の末路です」
塩見の
その外側の皮膚が、樹皮のように変質していた。
「異世界人は、エーテルを扱います。それは魔法の源です。彼らはエーテルとともに生きています。ですがそれは、我々の世界には存在しないもの」
習志野は震える手を伸ばし、塩見のその腕に触れた。その感触が間違いなく樹皮のものであるとわかると、表情は絶望の色へと変わっていった。
「元来存在しないものを摂取する。それが我々人類に与える影響は未知数です。私のこの腕は、その一つの結論です」
塩見は習志野の手をそっと外し、自身の左腕をさすった。
「私は舞浜事件から五年間、ずっと向こう側にいました。樹木化したフィアンセを救う方法を探るためです。その過程でエーテルの存在を知り、魔法という文化を知った。そしてその頃には、私はあまりにもエーテルの影響を受けすぎていたのです」
京子は異世界でのことを思い出していた。車から降りる際に転倒しそうになった時、塩見の腕を逞しいと感じた。筋肉的な硬さだと思ったのだ。
――左手に誓おう。
耶霧のその言葉の意味が、やっと分かった。
「馬鹿な」
習志野は立ち上がれず、よろけるようにしてソファに腰を沈めた。そして頭を抱えて言った。
「私は今まで、そんな恐ろしいモノを、人様の前に出していたというのか」
異世界キャバクラ。異世界人とある意味で最も近い距離で接することができる場所。それを作ったのは、他ならぬ習志野自身だった。
「それは違います」
塩見は強い声で言った。そして困惑する習志野が再びその視線を合わせるのを待ち、諭すように言った。
「彼らは大人になれば誰でもエーテルをコントロールできます。日本人に害を与えようなんてしない。彼らは無害です」
「では、ではなぜ、こんなことが起こってしまったのだ。あの男は、なぜ木になってしまったのだ」
習志野の目は説明を求めている。塩見はそれに答えた。
「エーテル暴走に巻き込まれること。それが樹木化する為の条件です。そしてそれを起こせるのは、子供だけです」
習志野の目が飛び出しそうなほどに見開かれた。
「ルレアさんは、エルフの世界では子供だったのです」
塩見は続けた。「あの日、身の危険を感じたルレアさんは、反射的に防御態勢を取った。でも、魔法は使わなかった。その結果、彼女の中から放出された大量のエーテルは、魔法に変換も消費もされないまま、男の体内に吸収された。そして男は樹木化してしまった」
その説明を最後まで聞かないうちに、習志野の呼吸は浅くそして早くなっていった。つばを飲み込むのもおぼつかない中で、習志野は言った。
「子供、だと」
習志野の脳内に、最悪のシナリオが描かれた。
「そうです」
その習志野に、塩見は容赦なく言った。
「異世界混血児は、エーテル暴発のリスクがある」
一瞬の静寂のあと、習志野の悲鳴が特別室に響き渡った。
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