鏡の国の女王様

宗像 式

第1話 

『渚、愛してる』


世も深まる午前二時。俺は渚の部屋で彼女を押し倒し、その返事を待つ。


『智也、私も…』


彼女は頬を紅くして、じっと俺の目を見据える。


『ずっと前から…』


ごくり、と俺の喉が鳴るのが聞こえた。緊張と高揚感で胸が弾けそうになる。


『好きでし…』


「きゃああああああああああああああああああ」


背後から甲高い少女の悲鳴が聞こえ…


は?


振返ると姿鏡の前で少女が倒れて顔を塞いでいる。

指の隙間からこちらの様子を伺い、金切り声を上げる。


「お、お主はそんな恰好で何をしておるのじゃ!」


黒のドレスに身を包んだ銀髪の少女は、その長い髪をふるふる振って俺の方を指差していた。


俺はエロゲの画面から目を離して今の状況を理解する。

幼い少女とズボンを半分下ろし下半身を露出した引きこもりが、深夜に同じ部屋で二人きり。


うん、これはまずい。というかそもそもこいつ誰だよ。


「って違う!これは違うんだ!これは決していかがわしいことをしているわけじゃ…」


「では何じゃその恰好は!ズボンを下げて椅子に座る輩が居るものか!お主は露出狂なのか!」


「というか、お前こそ誰だよ!夜中に男子の部屋に、それもお楽しみタイム中に勝手に入ってきやがって。ちゃんとノックくらいしろよな、この不法侵入者!コソ泥!夜這」


閑話休題。


「しかして、わらわこそが、後に鏡の国の女王となる天才、アリス様である」


なるほど。わからん。


さっきから鏡の国からやってきただのわしが女王になるだの茶がぬるいだの菓子を出せだの捲し立てているが、全くわからん。


「つまりな、わしは鏡の国を救いたいのじゃ。その為に、鏡の壁を越えて、こっちの嘘の国まで人助けをしにきたのじゃ」


アリスは湯飲みを唇に当てがって、すっと口に含んだ。


「わしが暮らす鏡の国はな、お主ら嘘の国の住人の真実を映し出す鏡、言ってみれば表と裏。嘘と真実。二つの国はお互いに影響しあって存在しておる。今、その鏡の国が危機にさらされておるのじゃ」


「はあ。国の危機」


いきなりそんなこと言われても、学校に行かずに引きこもってエロゲ三昧の俺の脳みそではとても理解できない。手持無沙汰になって、右眼につけた眼帯をぼりぼりと掻く。


「うむ。お主らが欲望や劣等感のような、負の感情を抱き過ぎたせいで、わしらの世界にもよくない影響が出ておるんじゃ」


「良くないと言うと、たとえば?」


「そうじゃな。どこぞの飲料メーカーがじゃんけんに勝ち過ぎたせいで、じゃんけんの勝率が百分の一に下がった」


「それはいけない」


「幼女と結婚したいとか言い出したせいで、6歳からの結婚が合法化された」


「それもいけない」


「夏休みが終わって欲しくないと願ったせいで、8月32日が生まれた」


「それは絶対にいけない」


アリスは今度はバスケットに並べたどら焼きに手を伸ばした。


「それから、お主が『この世はクソゲーである』とか思ったせいで、世の中が『たけしの挑戦状』並みの世紀末になっておる」


『たけしの挑戦状』はとりあえず置いといて、俺がこの世がクソゲーだと思っているのは事実だ。


実際俺はこの世の中が嫌いだ。

どうしようもなく理不尽で、度し難いほど歪んでいて、理解できないほどに冷たい、この世界が大嫌いだ。


それに、本来なら俺はあの時の事故で死んでいた。

誰かの死の上に生きるのが辛くて、俺は死んだように世界から隠れて生きるのを選んだ。


それと同時に俺はエロゲの世界が大好きだ。

約束されたハッピーエンド。現実とは違って熱く切なく情熱的な恋。個性豊かなヒロインたち。

俺はそんなエロゲの世界に惹かれて、毎日エロゲに入り浸って引きこもり生活を送っていた。


「…でもそれって、俺が悪いの?」


「良い悪いは別として、原因はお主じゃ。これが、『はやくお家帰りたーい』みたいな軽い願い程度ならいいのじゃが、どうやらお主、本気でこの世界を憎んでおるようじゃな」


アリスにそう言われて俺は口をつぐんだ。


「じゃからのう、わしはお主にこの世界はそこまで悪いものじゃないと教えに来たのじゃ。あ、お茶のおかわりくれ。八女茶の高級な奴な。あとお菓子にとおりもんもつけておくれ」


人を下に見るようなその女の態度に、俺は少しイラっとした。

第一、こんなガキが俺に物事を教えるというその言い草が気に食わなかった。


「はあ?あんたに俺の何がわかるってんだよ。だいたいあんた何なんだよ。サムライ口調の異世界人ロリっ娘とか属性詰め込みすぎて渋滞起こしてるぞ」


「だだ誰がロリっ娘じゃ!わしはれっきとした大人じゃ!」


アリスは卓袱台を叩いて立ち上がると湯飲みを俺めがけて投げてきた。


「ってお前、あぶねえよ、急に割れ物投げたりすんなよロリっ娘」


俺は両手でキャッチした湯飲みをアリスに投げ返した。


「そういうお主も投げとるではないか、この引きこもり!」


「ひ、引きこもりじゃねえし?学校行きたくないからただ家に閉じこもってるだけだし?」


「それを世間では引きこもりと言うのじゃ、この阿呆」


アリスは一つため息をつくと、俺から受け取った湯飲みを卓袱台に置きなおしてすっと立ち上がった。


「なんだかお主と居ると異様に疲れるのじゃが。まあよい、では本題に戻るぞ」


アリスは俺の机の上の手鏡を掴んで戻ってきた。


「その負の感情が一定以上たまると、その者に『コンプレックス』と呼ばれる黒い影が憑くようになる。お主ら嘘の国の人間は背後霊とか守護霊とか読んでいるらしいがの」


「なんだそのB級オカルト話は。悪いがそういうのは中学で卒業したんだよ。他をあたってくれ」


「誰がB級じゃ。まあ騙されたと思ってこれを見てみるがよい。百聞は一見になんとやら、というやつじゃ」


アリスはさっきの手鏡を俺に押し付けるように差し出してきた。

それを見て俺は思わず後ろを見た。だがそこには、鏡に映っていたはずの『ナニカ』はいない。


「お主にも見えたじゃろ。鏡の中の『コンプレックス』が。やつらは嘘の国では人の心に巣くっているから目に見えぬ。しかし、真実を映す鏡を通してみれば、ご覧の通りじゃ」


そう。鏡には俺の背丈程度のどす黒い影が、俺の背中にぴったりとくっついていた。


「なあおい、こいついきなり襲ってきたりしねえよな。大丈夫だよな」


「安心せよ。そやつはお主の苦悩とか絶望とかを糧に生きて居る。お主が死ねばそやつも消えるからの。襲われることはない。むしろ全力でお主の命を守ろうとするであろうよ」


なるほど。守護霊とか言われてるのはそういうわけか。


「今鏡の国ではその『コンプレックス』が、それはもうボウフラかプランクトンばりに大量発生しておってな。それで困っておるんじゃ」


その『コンプレックス』ってのが外来指定種並みに迷惑な存在なのは分かったが、いまいち話が呑み込めない。というか、こいつは何しに来たんだよ。


「しかしな、『コンプレックス』が人の悪感情に寄生しているのなら、その悪感情を排除してやればよいこと。わしはお主の『コンプレックス』を取り除きに来たのじゃ」


つまりあれか。ついてる人間の悩みを解決すれば『コンプレックス』もなくなると。


多分、無理だな。俺の『苦悩』は何とか出来ても、『絶望』はきっとどうしようもない。


「では、さっさと行くぞ。ついて来るがよい」


「は?行くってどこに行くんだよ」


アリスはこちらには目もくれず部屋の置き鏡へと足を向けた。


「鏡の世界じゃ」


アリスはそのまま姿鏡に頭から突進した。

彼女はゴンと大きな音を立てて倒れた。小さくうめき声をあげてもがいている。


「お、おい、大丈夫か?頭でもイカれちまったか」


アリスは何もなかった風を装って立ち上がると、また鏡に向かって突進した。


ゴンと大きな音を立てて彼女はその場にうずくまった。みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。


「あの、本当にどうしたんだ。大丈夫か?」


アリスは膝を抱えてうずくまり、ボソボソと呟き始めた。


「あの、ごめんなさい。お金、貸してください」


話を聞くと、鏡の国へ行くには通行料として1000円取られるらしかった。アリスは帰りのことは考えていなかったらしく、1000円しか持ってきていなかったそうだ。

というか金取るのかよ。


「ありがとう、ございます」


俺から金を受け取ると、悔しいのか恥ずかしいのか、肩をプルプルと震わせた。

というかこいつ素に戻ると話し方も普通になるのかよ。


「で、では気を取り直して!迷える子羊よ、わしに続くがよい!いざゆかん、鏡の国へ!」


さっきのが痛かったのか、アリスが鏡におずおずと指を触れると、その体が鏡の中に吸い込まれていった。


俺もそのあとに続く…


と見せかけて、鏡を床に伏せて置いて再びパソコンと向かい合った。





一時間後。


「お主、何を考えておるのじゃ!一時間も待って居ったわしが馬鹿みたいではないか!」


ベッドに横になって本を読んでいるとどこからか入ってきたロリっ娘に怒鳴りつけられた。


「おい、何しに帰って来たんだよ馬鹿女。つーかどっから入ったんだよ」


「誰が馬鹿じゃ誰が!洗面台の鏡から侵入してやったわ、このたわけ!」


ベッドにしがみついて抵抗するもむなしく、俺はこの怪力女に、知らない場所へ拉致されてしまった。


「声に出して言うでない!なんだかわしが犯罪を働いておるみたいではないか!」


おっと失敬。心の声が漏れ出してしまったか。


俺は必死に抵抗を試みるも最後には鏡の中に投げ込まれてしまった。


 そこは見慣れた部屋。見慣れた天井。見慣れた机。

一つ違うことと言えば色だろうか。この世界はすべてが白と黒のコントラストに支配されていた。


「ようこそ、真実の世界、鏡の国へ!」


アリスはさっきまでとは打って変わって、変なテンションで叫んだ。


「ここはお主ら人間の真実の在り処じゃ。この世界はお主らの願いが作り出したものじゃ」


アリスは玄関から家を出て、外の道路に出た。俺も彼女に続く。

その光景は、にわかには信じがたいものであった。


俺の家が、東京スカイツリーになっていた。


信じてもらえないかもしれないが、俺の家が東京スカイツリーになっていた。


大事な事なのでもう一度言うが、俺の家が東京スカイツリーになっていた。


「おい、なんだこれ」


俺はこの疑問を晴らすべく、アリスに問いかけた。


「お主の言いたいことは分かっておる」


彼女は真面目な顔をして視線を寄越してきた。俺は黙ってその言葉を待つ。


「わしがさっきから右手に持っておる、ティガー戦車1/64スケールが気になって仕方がないのじゃろう?しょうがないのう。さっきのどら焼きくれたら、ちょっとだけ触らせてやらんでもないぞ?」


今日一番のドヤ顔と笑顔で右手に握った戦車のプラモデルを見せびらかしてきた。

俺はそのプラモデルを受け取って、その辺の茂みに投げ捨てた。


「あああああああああああああああああああ!ティガアアアアアアア!」


アリスは物理法則を無視した加速とスピードでヘッドスライディングし、戦車のおもちゃを両手でキャッチした。


「何をするのじゃ!貴様は鬼か、この鬼畜ニート!」


大事そうにプラモデルを抱えて涙目でこちらを睨んでくる。

彼女に悪いとは思うが、決して後悔はしていない。


「俺は学生だからまだニートじゃねえんだよ。それより、なんだよこれ。俺ん家がスカイツリーになってるんだけど」


アリスは俺の指差す先を見ると、驚いた様子だ言った。


「うわっ!本当じゃ!家が物見矢倉みたいになっておる!」


高さ634メートルの物見矢倉とかあってたまるか。


「つか、お前これを見せにわざわざ外に出たんじゃねえのかよ」


「たわけ。家の中より外の方がタイガーがかっこいいからに決まっておるじゃろうが」


殴りたい。10メートルくらい助走つけておもいっきり殴りたい。


スカイツリーのエントランスと化した玄関を開くと、見慣れた廊下の奥で、知らない扉が開いていた。


「あれ、エレベーターだよな」


「大人エレベーターって奴じゃの」


「お前さっきから喧嘩売ってんのか」


エレベーターに乗って30秒ほどで俺の部屋のある二階に着いた。

この階は目新しいものは見受けられない。

俺はエレベーターを降りると、自分の部屋の扉を開いた。


「これがお主の真実の姿。お主の願みを映し出したものじゃ」


その部屋で、俺の姿をしたそいつはエロゲの箱に囲まれて、眼帯のついてない左目をひん剥いて、パソコンから目を離さずにマウスをカチカチやっていた。

その背中にはぴったりと『コンプレックス』がひっついている。


「鏡の世界の住人はのう、嘘の国の住人の真実と願望を体現したものとなる。つまり、これがお主の望んだ世界なのじゃよ。誰も入ってこれない高い塔の上というのも、何か意味があるのやもしれぬな」


その姿は、現実から目を背け、引きこもって人との関りを断ち、ゲームに身を委ねる今の俺そのものであった。


「これ、もしかしてお主か」


アリスはベッドの反対側に置いてあるテレビを指差していった。

姉がビデオカメラで撮ったのだろうか。そこには競技場を走る俺の姿があった。


「懐かしいな。中2の頃まで陸上してたんだよ」


「ほう。お主も引きこもりじゃない時代があったんじゃな」


「これでも全国トップクラスの実力者とか、10年に一度の逸材とか言われてたんだぜ」


「なんじゃ、その年末のスポーツ番組に出てきそうな胡散臭い通り名は」


口ではそう言いつつも少し感心したような視線を向けてきた。


「でも、それならなんで陸上やめたんじゃ?陸上飽きたんか」


「いや、飽きたと言うかなんというか」


俺は返事に困ってまた画面に目を向けた。そこにはさっきとは違う、練習風景が映されていた。

グラウンドの真ん中で、俺は右足を抑えてうずくまっていた。


「先輩に怪我させられて、走れなくなったんだよ。それでなんかもう、頑張るのが馬鹿らしくなって走るのやめた」


俺は周りの先輩たちから目の敵にされていた。

俺のいた陸上部は実力主義で、力があれば1年生でも先輩を抜け駆けしてメンバー入りできた。


そんなわけで中二病真っ盛りだった俺は先輩たちを煽りに煽って、結果彼らにしてやられたというわけだ。


「ふーん。それで引きこもりになったのか」


「いや、あの頃はまだ学校にも行ってたし、別に引きこもりじゃなかったよ」


「じゃあ、なんで」


アリスが俺に問いかけると聞き覚えのある電子音が鳴った。背後でエレベーターの扉が開く。乗れと言う事らしい。


「なんで、と言われても。色々あったからなあ」


俺はもう一人の自分を置いてアリスとそれに乗った。音もなく扉が閉じる。


今度はさっき通った一階で降ろされた。玄関が独りでに開く。俺たちは何も言わずに外に出た。


「あれって、お主の知り合いか」


アリスの指差す先には俺の見知った顔が二つ。

幼馴染の橘由衣と、俺の足を潰した岩田先輩。

ふたりは沈む夕日を受けて横に並び、由衣の家の方へと歩いていた。


「懐かしい、のかな」


俺はこの光景を覚えている。

昔は由衣と遊んだり一緒に学校に行ったりしていたけど、あの日から俺は由衣を避けるようになった。


建前としては、由衣と先輩の関係を邪魔したくなかったから。


本音としては、悔しくて悲しくて、顔も見たくなかったから。


「お主は、あの娘に恋をしておったのか」


アリスが気遣いもデリカシーもないことを聞いて来る。


「別にそんなんじゃ、ない、けど」


胸に手を当ててあのころの記憶を呼び起こす。

俺が夢を捨てたあの日。由衣は俺の手を握って、優しく言ってくれた。


『礼ちゃんなら大丈夫』


あの時の由衣の優しい笑顔が鮮明に思い浮かぶ。


『礼ちゃんには私がついてるじゃない』


きっと、そんなことを言われた後だったからだろう。


先輩と歩く由衣の姿を見た時、俺は彼女に裏切られたような気がした。


「でも、それはお主の勘違いかもしれぬのではないか」


茫然と二人の後姿を眺めていると、アリスに後ろから声を掛けられた。


「まだ、間に合う。ちょっと顔を貸すがよいぞ」


アリスは俺の手を引いて、隣の家の窓ガラスに突っ込んでいった。






俺はアリスに無理やり連れられて、由衣の家の前に来ていた。インターフォンに添えた指が少し震えている。

というか、こんな真夜中に押しかけてきて迷惑なんじゃないか。


そんなことを考えていると、アリスにぽんぽんと背中を叩かれた。


「大丈夫じゃ。安心するがよい。お主には、わしが付いておる」


「それのどこに安心できる要素があるんだよ」


俺は覚悟を決めてインターフォンを鳴らした。扉の向こうでがたがた音が鳴る。

1分くらいして扉が開いた。


「礼ちゃん、だよね。久しぶり」


由衣が扉を半分開けて体を少し出していった。前泊りに行った時と同じ寝間着を着ていた。


「ごめんな、こんな夜遅くに。起こしちゃったか」


「ううん。大丈夫。気にしないで」


気まずい沈黙が流れる。ちらりと後ろを見ると、アリスが親指を立てて小声で「ファイトなのじゃ」と呟いている。


「「あの」」


由衣と俺の声が重なって、お互い恥ずかしそうに顔を見た。

由衣は照れたように笑って、お先どうぞと言った。


「あのさ、岩崎先輩とはまだ付き合ってるの」


由衣はそれを聞くと首をぶんぶん横に振って扉を開いて突っかかってきた。


「岩崎先輩と付き合ったりなんてしてないよ。それに、私まだ誰かと付き合ったことなんて、ないんだから」


「え?まじで?」


二人の間に、今度は間の抜けた沈黙が流れる。


「じゃあ、もしかして礼ちゃんが私を避けてたのって、私と岩崎先輩が付き合ってると思ってたからなの」


俺は頷いてうんと答えた。


「なんだ、そうだったんだ。よかった。本当に良かった」


彼女はぐったりした様子で胸に手を当てて何度も良かったと言った。


「それでさ、虫が良すぎるのはわかってるんだけど。また昔みたいに一緒に遊んだり、泊りに行ったり、もう一度友達になってくれま、せんか」


俺は彼女に一歩近づいてその瞳を見据えて尋ねた。心拍数がどんどん上がっていくのを感じる。緊張で心臓が口から出そうな気がする。


彼女は一呼吸置いて俺の顔を見ると、ふっと優しく微笑んだ。


「もちろん、喜んで」


俺は久しぶりに彼女が笑っているのを見た。






自動販売機に羽虫がたかっているのが見える。俺はそこに500円玉を入れて、缶ジュースを二本買った。一つをアリスの方に投げてやる。


「わしにくれるのか」


「今日はなんだか色々助けてもらったからな。小さいかもしれないけど、何かしら礼をしておきたいんだよ。ありがとな」


アリスは家の外壁を背もたれにして座った。俺もその隣に腰かける。


「月が、綺麗じゃの」


今日は陰り一つない満月であった。


「そうだな。綺麗だな」


俺も月を見上げて答えた。


「わしが人助けをするのはな、もちろん鏡の国の為なんじゃが、同時に自分の為でもあるんじゃ」


「自分の為、というと」


「昔わしを救ってくれた恩人がおってな。その人が言っておったんじゃ。誰かを助けるのにどんなに苦労をしても、『ありがとう』の一言だけですべてが報われる、とな」


「誰だその聖人。ジーザスクライストかよ」


「それでな、今少し思ったんじゃ。きっとあの時わしはあの人に救われたんじゃが、きっと同時にあの人も救われたんじゃなかろうか。誰かを助けることで、自分も救われるんじゃなかろうか」


アリスはジュースをちびちび飲みながらそんなことを言った。


「もしかしてその恩人って、女王様?」


「なんで分かったんじゃ?お主、もしやエスパーか」


「いや、なんとなくそう思っただけなんだが」


アリスは飲み終えたのかジュースの缶を自販機の横のゴミ箱に向かって投げた。


「その通り、わしは女王様みたいな、優しい人になりたいんじゃ。あの人の目指した、みんなが幸せでいられる世界を創りたいのじゃ」


銀髪の間から意志を持った瞳を覗かせてアリスは言った。


「そんじゃまあ、帰るか」


部屋についてお茶を飲みながらくつろいでいると、アリスがあんまり長居するのは迷惑だろうから、もう鏡の国に帰ると言い出した。

俺はありがとうと言って彼女を送った。


「わしの方こそ、ありがとうなのじゃ。こんなに人とたくさん話したのは初めてで、とっても楽しかったのじゃ」


「俺も、まあ楽しかったよ。多分あと三年くらいはこの家にいると思うから、閑になったらいつでも遊びに来いよ。元気でな」


「お主の方こそ、由衣殿と達者でな」


「おい、それはどういう意味だ」


アリスは最後に笑って鏡の世界へと駆けて行った。


なんというか、不思議な奴だった。

体は小さいのに態度はでかいし喋り方は変だし騒がしいし、でもなんだかんだでいい奴で。


アリスはみんなが幸せでいられる世界を創るといっていた。そんな世界、存在できるのだろうか。


でも、きっとアリスなら、なんだかんだでやってのけてしまうような、そんな気がした。


ゴン


物凄い音がしてアリスがその場に倒れ込んだ。打ったところが痛いのか唸って悶絶している。しばらくすると落ち着いたのか、俺の方を向いて正座をした。


「あの、お金貸してください」


「お前やっぱただの馬鹿だろ」


アリスは少しだけ泣きそうな顔をしていた。


鏡の向こう側の俺の『コンプレックス』も、心なしか笑っているように見えた。



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鏡の国の女王様 宗像 式 @shiki39

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