灰かぶりの白雪(3)
移動劇団〝
車両の上に建てられたものとは思えない。舞台は東方の
以前、金色孔雀は、帝都にはさらに倍する巨大な劇場があると言っていたが、そこまでいくともうコウシロウには想像もつかなかった。
(……大陸一の歌姫ともなれば、そういう場所でも歌う機会があるのでしょうか……)
何ともなしにそんなことを考えながら、コウシロウは舞台上を眺めている。
劇場に整然と並ぶ客席の、その中程にある一席に腰かけて、特に何をするでもなくボンヤリと、舞台上で稽古に励む者たちを、そこにいる銀髪翠眼の歌姫を眺めていた。
役者の他、舞台装置や資材道具を手にせわしなく駆け回る仮面の団員たちや、楽器の調音や整備に勤しむ奏者たち。
それらの中にあって、やはり、ファナティアの存在はひときわ目立つ。
単純な容姿の話だけではない。その立ち振る舞いや存在感が輝いている。明るく朗らかに、いつも通りに楽しげな姿。
本当に、いつも通り、何も変わらない。
あの夜、ジャラワンの郊外で、コウシロウと黒い獣の争いに居合わせたはずなのに。
人食いの怪物に襲われかけ、コウシロウの異形の姿を目撃して、それなのに彼女は何も変わらない。今までと同じに楽しげに、自由に振る舞って騒動を起こし、幸せそうにコウシロウに抱きついてくる。
コウシロウを恐れるどころか、その存在に何の疑問も持っていないかのごとく。
舞台上のファナティアが、ふと、コウシロウの方を見た。
視線が合った途端、彼女はただでさえ楽しそうだった笑顔をさらに輝かせて、大きく手を振ってきた。
「ファナティアさんは、よっぽどダンナがお気に入りなんでやすねえ」
不意に傍らで響いた呟き。
見れば、いつの間に現れていたのか、隣の席にはひとりの男が座していた。金色の羽根飾りがついた山高帽に、同じく金羽根と金刺繍に飾られた礼服姿。何より特徴的なのは顔の上半分を覆う金色の仮面。
この移動劇団〝
仮面越しの眼差しは相変わらずうかがえないが、顔はジッと舞台上を向いている。
「ほらダンナ、何をボケッとしてらっしゃるんで? 手を振り返すなり愛を叫ぶなりしてやんなさいな」
口許に微笑を浮かべ、いつものように
コウシロウは溜め息とともに、舞台上のファナティアに軽く手を振り返した。
その場しのぎに、おざなりに、形だけ振り返した手。
ただそれだけのことで、銀髪の歌姫は、まるで両手いっぱいの花束でも受け取ったかのように嬉しそうに──。
「ファナティアさんは、よっぽどダンナがお気に入りなんでやすねえ」
再度繰り返した金色孔雀。しかし、その声音はさっきよりも少しだけ冷えていた。
「こないだは、夜中におふたり仲良く街に繰り出してらっしゃったようで……」
団長は静かに問う。
顔は舞台上に向けたまま、だが、仮面の下の視線はどちらを向いているのやら。コウシロウは、肩をすくめながらも冷静に真剣に頭を振った。
「彼女が、勝手についてきただけですよ。ちゃんと無事に連れ帰りました。もちろん、手を出したりしてません」
「はあ? 何やってんですか情けない。そこはキメときやしょうよ」
むしろ落胆した様子の金色孔雀。
てっきり看板女優と用心棒の距離感を危惧した警告だと思っていたコウシロウは、
金色孔雀は短い笑声を挟んでうなずく。
「当一座は自由主義でして、恋愛も結婚も足抜けも、特に制限してやしません。くる者は選びますが、去る者を止めはしない。入団したいなら、あっしの目に適うこと……代わりに、団が気に食わないなら、抜けるのは個人の自由です。もとよりあっしが金持ちの道楽でやってる劇団でやすからね。ファナティアさんが誰とくっつこうが彼女の自由。仮にその結果引退することになっても、笑顔で祝福するだけでさあ」
ただ──と、金色孔雀は数瞬、言葉を止める。
「ファナティアさんは、少々難儀な身の上でやすからね。手を出すなら、ダンナにもそれなりの覚悟が必要かと思いやす」
口調も声音も飄々としたまま、ただ、口許の笑みが苦いものに変わっていた。
覚悟。
それは大仰な言い方ではあるが、大袈裟ではないのだろう。
コウシロウは相変わらず舞台上のファナティアを眺めながら、
「彼女は、最初からああだったわけではないのでしょう?」
ポツリと、呟いた。
それは疑問ではなく、すでに確信していることで、だから金色孔雀もまた苦笑いながら肯定する。
「そうなんでしょうね。けど、あっしが出会った時は、もうあの状態でした。六年ほど前になりやすが、今でも忘れられやせんよ。月明かりの下、愛らしい笑みを浮かべて楽しげに歌い踊る、ファナティアさんの幻想的なまでの美しさ。いやあ、あの時は震えやしたよ。まさに、この世のものとは思えない光景でしたからね。こいつぁ放ってはおけやせんと、もう、すぐにその場で保護させていただきやした」
「以来、あの子は明るい笑顔を絶やさずに、歌い手としての才能を開花させ、今では当一座の看板スターになりやした。あの子は、あっしと出会った時から今までずっと、笑顔を絶やしたことはありやせん。常に明るく楽しく幸せに……いやはや全く、難儀なことです」
過去を振り返るように虚空を見上げて、仮面の団長はしみじみと哀れんだ。
「あっしが求めるのは観客を喜ばせて楽しませる技芸の才と華、それだけです。出会う前のファナティアさんの生い立ちには興味ありやせんし、知りたいとも思いやせんね」
そう言って、仮面の団長は立ち上がると、
コウシロウはその姿を見送ることはせず、ただ、脳裏に想像する。
月明かりの下、愛らしい笑顔で歌い踊る六年前のファナティアの姿。
なるほど、それは確かに震えるほどに美しい光景だったのだろう。
コウシロウは想像する。
月明かりに照らされた光景。盗賊に
それは確かに震えるほどに美しく、そして、狂気に満ち満ちた光景だったのだろう。
誰だって、痛ければ
その時は、立ち向かうか? それとも逃げ出すか?
彼女は、どちらを選んだのだろう。
どちらを選んで、ああなったのだろう。
いつも楽しげに笑っているファナティア。
銀色の髪に彩られたその微笑みは、コウシロウに、ある女性の姿を思い起こさせる。ファナティアと同じく、いつも笑顔を絶やさずに、常に明るく楽しげに、幸せそうに微笑んで寄り添ってくれていた女性。
胸もとに下がる首飾り。そこに連なる銀の牙の中央、ひときわ澄んだ輝きを宿すひとつを握り締めて、コウシロウはゆるりと目を閉じた。
思い出すのは、遥か東方の地での記憶。愚かな一匹の獣が犯した、黒い過ちの記憶。
『……
みんなと一緒にいられればそれで良いと言っていた。
コウシロウの隣にいられればそれで良いのだと微笑んでいた。
そんなささやかなぬくもりが、幸福の全てだと受け入れていた。
それが寂しかった。
コウシロウはみんなが大切だったから、妹が愛しかったから、そんな大好きなみんなに、自由に生きて欲しかった。
こうして獣の力を牙に結晶化して取り出すことで、〝人間〟の姿になれるのだから。
そのまま、本当に人間として生きることもできるはずだと、そう思った。
人間として、新しい時代に、広い世界に、みんなで生きて行ければ幸せだと思った。
呪いのごとき古い因習と掟に縛られて生きるのではなく、自由になりたかったのだ。
握り締めた銀の牙。
連なる
だから、もうわかっている。思い知っている。悪いのはコウシロウだ。
目を閉じれば、耳朶の奥に今でも響く声。
優しく呼びかけてくる、愛しかった声が──。
「……クーちゃん……」
透き通るような美しい声が、呼びかけてきた。
まぶたを開けば、目の前にたたずむ少女のシルエット。
照明の落とされた客席は暗く、明るい舞台上を背にして立つ彼女の姿は黒く陰って、その表情はうかがえない。
けれど、わかっている。彼女はきっと笑っている。明るく楽しげに、幸せそうな笑みを浮かべているのだろう。
「稽古は、終わったのですか……?」
半ば回想と
舞台から届く光が後光のように差して、彼女の綺麗な銀色の髪がキラキラと──。
煌めくその光輝がまぶしく、寂しくて、コウシロウは微かに呻きをこぼした。
そんな彼の頬に、白い指先が触れる。雪のように白く細い指先が、優しく労るように、コウシロウの頬をなでた。
それは、かつて愛しい誰かが触れてくれたのに同じく、そして、コウシロウが愛しい誰かの頬に触れたのに同じく、大切な宝物を愛でるのに似た優しい所作。
「……あなたは、僕が怖くないのですか?」
問いかけながら、愚問だと思った。
人ならざる巨大な魔獣。鋭い爪と牙で引き裂き合い喰らい合う異形の怪物。そんなもの、普通は恐れ
「……あなたは、僕が怖いはずなんですよ?」
それが道理であり、当然であるのに、それなのに、眼前のファナティアは穏やかで楽しげな声音で、否定を返した。
「怖くないわ。だって、わたしはクーちゃんが大好きだもの」
静かで、透き通るような告白。
そう、なのかもしれない。
彼女は言う通りにコウシロウが大好きで、愛しい相手を信頼し受け入れているがゆえに、恐れていないのかもしれない。
けれど──。
彼女は怖くないと言う。笑いながらそう言ってくる。いつでも楽しげに朗らかに、幸せそうに笑う彼女は、全てが楽しくて、嬉しくて、幸せにしか感じられない。
きっと彼女は、たとえ怖くても、それがわからないのだろうから──。
「……僕は、神様を殺しにきたんです」
遥か東方から、コウシロウは神を追ってこの地にやってきた。
「うん、そうらしいね。団長から聞いたよ」
ファナティアは笑って首肯する。
「その神様は、黒い獣の神様で、負の感情を喰らうんです。怒りや、憎しみや、恨みや嘆き、悲しみや絶望を、糧にする」
「うん、それはこないだクーちゃんに聞いたね。わたしは、マズそうだって言われちゃった」
不機嫌で悔しいはずの台詞は、恥じらうような笑声で紡がれた。
やはり、彼女には、負の情動は発露しない。
それは耐え難い恐怖に
否、それは、おそらくはきっと──。
「僕が追っている神様は、女性の姿をしています。長く黒い髪と、金色の瞳をした、とても綺麗な女の姿を、しているんです……」
あなたは──。
「あの〝
コウシロウの問いかけに、ファナティアは今度は何も言わずに黙したまま。
逆光に陰った表情は、やはりうかがえない。
「あなたの故郷を襲ったのは本当に盗賊だったのですか? あなたから家族を……奪ったのは、本当は……」
「いやだなあ、それは違うよ」
コウシロウの言葉をさえぎって、歌姫はクスクスと笑声を上げた。
「違うよクーちゃん。あの人たちは、わたしの家族なんかじゃない。家族なんかじゃないんだよ」
そこを誤解されるのは我慢ならないのだと、笑いながら念押すように繰り返す。
「だって、ね? 家族っていうのは、あったかいものでしょう? 優しく想いやるものでしょう? 家族なら、我が子を鎖につないだりとかしないと思うの」
クスクスと笑いながら、ファナティアは首に巻いた白絹のチョーカーを外して見せる。
白い、どこまでも白い雪色の肌に刻まれた、赤黒い線。
グルリと首を一周しているのであろうその色彩は、コウシロウがまとう鎧に染み込んだ色と良く似ていた。
「手首にもあるんだよ? もちろん足にも、あんまり見ていて気分のいいものじゃないと思うから、色々工夫して隠してるの♪」
上手に隠していたでしょう? と、ファナティアは笑う。
それはまるで、子供が己の描いた絵を褒めてもらおうと見せてくるように、無邪気に、得意げに、虐げられた傷痕を曝け出してきた。
「だからね、あの村の人たちは、わたしの家族なんかじゃなかったのよ」
楽しそうな声で、さも愉快そうな声で、ファナティアは頭を振る。
「あの人たちはね、わたしに何もくれなかった。ただ、わたしから奪うだけだった。わたしを傷つけるだけ、苦しめるだけ……。だからね、あの人たちは家族なんかじゃない。わたしの敵だったんだよ」
だからずっと呪い続けていたのだと、彼女の声音は明るく笑う。
自分を苦しめてくる敵を、苦しめられる自分の境遇を、そこから抜け出せない不自由を、毎日毎日、ひたすらに呪い続けていたのだと。
「ねえ、クーちゃん。クーちゃんも言ってたでしょう? 誰かを憎んだり恨んだり、そういうのは良くないことだよね? 悲しいのや、ツラいのは、イヤなことでしょう? わたしはねえ、ずっとそれしかなかったの。みんなが憎くて、大嫌いで、わたしを苦しめるものは、何もかも消えてしまえばいいと、いつもいつも、それだけを願ってた……」
そして、あの黒い神様がきてくれた。
憎悪と悲哀にさいなまれるファナティアに、手を差し伸べてくれた。
〝──其方を縛る絶望の〝枷〟を消し去ってやろう──〟
黒い神様は、金色の瞳を煌めかせて、そう言った。
「だからね、わたしは、あの黒い神様に、わたしの悲しみと憎しみを食べてもらったの」
ファナティアの声が、かつてのその時を思い起こして、喜悦に揺れる。
「わたしの中の黒い心、暗い想い、全部食べてもらったの。だから、ね? 今のわたしは幸せだよ。苦しみも悲しみもない、喜びと楽しさだけの世界。わたしはもう誰も憎まなくていいんだよ? 誰も恨まなくていいんだよ? ずっとずっと、楽しく幸せに笑っていられるんだよ?」
いつも通りの朗らかな態度、楽しそうな声。
ファナティアはその幸福を知らしめるように、大きく両手を広げ、歌うように声を響かせて宣言する。
「あの黒い神様は、わたしの中の黒い痛みを食べてくれた。わたしを苦しめるあの人たちを食べてくれた。わたしを縛る全てを消し去って、自由にしてくれたの。嬉しかったんだよ? 本当に、本当に嬉しくて、わたしはあの時、生まれて初めて心から楽しいって想いが込み上げてきて、自然と歌を口ずさんでた……。楽しくて、嬉しくて、その想いのままに歌うことができたんだから!」
月明かりの下、
己を苦しめ虐げた憎い者たちの骸に囲まれて、喜びに歌い舞う少女。
負の感情を失って、全ての情動を喜楽でしか感じられなくなった彼女が、歌い舞いながら抱いた喜楽は、果たして、本当に喜楽だったのか?
あるいは、別の感情が喜楽として発露しただけだったのだろうか?
それは誰にもわからない。ファナティア自身も知り得ない。
だからね──と、続けた彼女の笑声が、微かに沈んだような気がしたのは錯覚か。
「もしも、クーちゃんがあの黒い神様を殺したら、せっかく食べてもらった黒い心が、わたしの中に戻ってきちゃうかもしれない。それが……うん、それだけは、今でもとっても怖いの」
──もしも負の感情が戻ってしまったら。
そうなれば、また、何もかもを憎んで嫌悪する自分に戻ってしまうかもしれない。
なぜなら、ファナティアは本来そういう黒く暗い心に沈んだ人間だったのだから。
今感じている喜楽も幸福も、本当は哀怒や絶望がねじ曲がったものかもしれない。
全てを憎み嫌悪している負の情動が、正の情動に反転しているだけかもしれない。
ファナティアは、本当は歌うことなど好きではなくて、本当は舞台に立つことも楽しくないのかもしれない。
本当は、コウシロウのことも──。
抱いた喜びも幸せも、愛しいと感じている想いさえも、真実そうなのだという確証はどこにもない。
「ねえ、わたしはクーちゃんが大好きだよ?
本当に、本当に、大好きなんだよ?」
楽しげに弾む声で、再び好意を告げてくる。
その事実を確かめるように、己に言い聞かせるように、不確かな感覚を、少しでも確かなものなのだと
彼女はコウシロウの頬をなでながら、ひたすら楽しげに繰り返す。
ファナティアはコウシロウが大好きで、ずっと大好きでいたいから。
「だから……ね、あの黒い神様を殺したら、わたしはあなたを、絶対に赦さないからね?」
願いながら、間近に寄せたその顔は、どこまでも優しく穏やかな微笑。
その痛ましい微笑みに、コウシロウは返すべき答えが見つけられずに黙したまま。
ジッと見つめ返す彼の眼差しに、笑顔の歌姫は軽やかな足取りで身を離すと、そのまま踵を返して舞台上へと駆けていった。
逃げるように、駆けていった。
稽古を再開した彼女を遠目に見やりながら、コウシロウは抱いた苦い想いをどうにも持て余して、溜め息を吐き捨てる。
「絶対に赦さない…………ですか」
しみじみと噛み締めるように、彼女の言葉を反芻した。
笑顔のまま、楽しげに告げられたそれは、嘆願だったのか、糾弾だったのか、当のファナティアでさえ判別できないそれを、コウシロウがわかるはずがないのだけれど──。
今し方のファナティアの笑顔が、本当は笑顔ではなかったことだけは、それだけは確かな事実なのだと、そう思った。
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