徒労

蜜本 郁

七月二十日土曜日

 空中に浮かび上がる画面の「送信」を押そうとして、片波はしばし躊躇った。今まで自分が頑張ってきた成果の結晶を、この「送信」を押すだけで、警察に渡してしまうのだ。ここまで来ると、特許を取って保護したいぐらいだったが、この案件はそういう類のものではない。深呼吸を一つした。これ以上、自分はどうすることもできない。後は、警察に任せるより他ないのだ。片波は知能犯罪を選択していることを確認し「送信」を人差し指でそっと触れた。押すより、触れる方が正しかった。パソコンのエンターキーを押す感触は、もう何年も味わっていない。次の画面には「ご協力ありがとうございました」とだけ映し出されている。終わってみると、片波は今日まで誰かの役に立ったことがあったかと思い始めた。一人でハッカー技術を学んで何年経ったか。どこで間違えたのだろう。

 窓の外は蒸し暑さに埋もれていて、複層ガラスを隔ててまで部屋に熱気が伝わる。空中の画面を消した。目が悪くなったのも、昔からネットを使い過ぎたせいかもしれない。

 年々早まる異例の暑さを前に、片波はぐたりと横になった。


 七月二十二日月曜日


 冷気が充満した研究室の隅で、男女の笑いや話し声が巻き起こる。皆一様に嬉しくて仕方がないようだった。

「まさかここまで稼げるとは思ってませんでした」

 女が、上司のような男に話しかけた。男は指を左右に振った。

「お膳立てが完璧に揃っていた結果だ。ことを起こすには段取りが必要なんだよ」話しながら、にんまりと口を歪ませた。

「でも、よくここまで来れましたよね。免疫の弱い人が服用したらどうするんですか。疑われそうですけど」別の男も、話に入ってきた。

「心配することはない。俺の知恵を絞ったからな。それに、会社の名前も当時と変わったんだ。そうだ、祝いに、今度打ち上げでも──」男が打ち上げの話を言いかけた時、研究室の電話が鳴った。男は話を中断し、壁に取り付けられた電話へ歩み寄った。シャーレほどの黒い円形型が今、固定電話として使われている。受信中に中央のボタンを押すと、押した指からDNAを判別する。それから音波を出し、DNAに合致した人の耳小骨に伝導させ、直接耳に聴こえる仕組みになっている。男は、ボタンを押した。瞬時に男の聴覚は無になって、雑音が消える。

「視覚製薬二代目所長の本田さんはいらっしゃいますか」若い男の声が男の耳に入った。しっかりとした口調で、はきはきしている。

「はい、私が本田です。あなたは」

「全検察庁捜査第二課付属情報処理担当の葛城と申します」長い肩書きなど、男にはどうでもよかった。

「……警察の方ですか」男は恐る恐る尋ねた。

「はい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る