第48話 若林紅太はその口を塞ぐ

「この数ヶ月。君を見ていて、思ったんだけど」


 若林くんは、空いていた数歩の距離を詰め、私の目の前まで来ると。

 あと少しで、額と額がくっついてしまうだろうかというところで止まり、じっと私をのぞき込む。

 私より頭一つ分高い彼のことを見上げながら、一体何を言われるのだろうと、固唾を呑んで待っていると。



「訳が分かんない」

「え?」



 拗ねたような口調でそう言われた。

 私こそ訳が分からず、ぽかんと口を開ける。


 えーっと。

 うん?


 私の脳裏で軽快に飛び交うクエスチョンマークをよそに、若林くんは、可愛らしく口を尖らせる。


「ろくに話したこともないうちから妙に鋭いと思っていたら、肝心なところで鈍感だし。

 しっかり考えて行動してるように思わせといて、むちゃくちゃばっかり。

 ちゃんと予防線を張ってると思いきや、無防備が過ぎる。

 見てるこっちが焦ってばっかりだ」


 訳が分かんない、ともう一度呟いて、若林くんは息を吐き出した。

 勢いよく言い募られたあれこれに、何がなんだか分からず、私はおずおずと口を開く。


「ええと。若林くん?」

「それに」

「はい!」


 口を挟む余地はくれず。

 心なしか早口で、彼は饒舌に続ける。


「緋人はところ構わず噛みつくし。あげく、めちゃくちゃ可愛がってるし。

 桜間は一番マシだけど、ポジション的に一番油断できないし。

 安室は過去のアドバンテージで最高にドヤってるし。あいつホントなにするか分かんないし。

 瀬谷はなまじ女子だから、ある意味で一番危ないし」


 私の頬を、うに、とつねって、若林くんはむくれる。


 うん。それを私に言われても?

 確かにどうかと思う案件、各種ありましたけどね!


 ええと、うん。

 これは、もしかして。


「若林くん、酔ってる?」

「酔ってにゃい」

「…………」

「……噛んだ」


 はい、ダウト!

 はい、完全に酔ってますね!!


 普段はノンアルのはずだけど、これは先輩に飲まされたかなー?

 あるいはソフトドリンクと間違って甘いお酒でも飲んだかなー?



 爪先立ちで、背伸びする。

 彼の口元に顔を近付け、すん、と匂いを嗅げば、ほのかにアルコールの香りがした。


 うん。飲んでる。

 完全に酔っぱらいだこれ。絡んでるだけだ。


 近くの自販機で水でも買うかな、と、地面にかかとを下ろそうとしたが。

 若林くんに肩を掴まれ、爪先立ちのままで止まった。

 同じ高さになった、視線が合う。



「ねえ。血ぃちょうだい」



 この至近距離だと、お酒の薫りがいっそう濃い。

 彼の呼気にあてられて、私まで酔ってしまいそうだった。



「あいつらばっかり、ずるい。

 俺に唯一、あるのは。血を、もらえることくらいだ。

 だから、血をちょうだい」



 酔っぱらいのフワッとした主張が、どういう理屈なのかは分からなかったけど。


 なにはともあれ。

 実を言えば、明日は満月である。


 彼が私と共に、早々に撤収した理由の一つもそこだった。万一、血が足りなくなっても、私がいれば対処できるし。

 昼のうちに、彼へは血をあげていたけれど。この様子だと、どうやら正解だったみたいだ。


「ごめん。足りなかった?」

「全然。ぜんっぜん、足りないよ」


 私に体重を預けるように、両肩に置かれた手からずしりと重みが加わる。流石に爪先立ちが限界で、私は地面に足を着けた。

 若林くんは疲れ切ったように頭を垂れると、肩に手を乗せたまま、気怠げに息を吐き出す。


「飲み干したい……」

「さすがに死にます!!!」


 あ、ダメだ。

 これ酔っぱらいですね?


 うん。これは、ちゃっちゃと血を飲んでもらった方が良さそうだ。お酒のせいで、いつもより余分に消費でもしてるのか分からないけど、どうにも枯渇してるみたい。

 飲み干されそうになったら止めよう。



 人目に付かないところに誘導しようとするが、ほろ酔いの大天使(酔っぱらいなのに可愛いなちくしょう)は、我慢できなかったのか見境なくなっているのか、そのまま私の首筋に口を近付けてくる。

 おおっとソレはいろいろ危険だぞ!!!


「待って待ってストップストップ若林くん!」

「いやだ」


 いやだと言われましてもここで飲んだらいろいろヤバいですよ旦那ァ!

 と、彼を引きはがそうとしたが。

 私の抵抗はもろともせずに、若林くんはおもむろに私の両頬を両手で包み込んだ。



「緋人も。桜間も、安室も、瀬谷だって名前なのに。

 俺だけ、名字呼びだ」



 ずるい、と私の顔を捕まえながら彼は呟く。

 じんわりと、彼の手の平の熱が頬に伝わって、妙に熱い。



「俺のことも。名前で呼んでよ」



 ……ええっと。

 そっち?


 いやうん。

 別に全くそれは構わないんだけどさ。


 だけど、なんだ。

 ずっと若林くんって呼んできたもんだから。


 ちょっと、照れますね?



「呼んで」



 けれど、有無いわさぬ口調で催促されて。



「紅太、くん」



 初めて、名前で呼ぶ。

 妙に照れくさくて、口元が緩んでしまう。なんだか背中がむず痒い。


 当の本人は――紅太くんは、それを聞くと。

 にんまりと、実に満足そうな笑みを浮かべてみせた。



「やった。呼んでくれた」



 かつて私は彼の笑みを太陽と表現したけれども。

 今のこれは、夜闇を明るく、怪しく照らす、灯火のようだ。


 本当にこの吸血鬼の末裔は。

 本当に、もう、その可愛さたるや、反則なのでは、ないでしょうかね。


「じゃ。いただきます」

「それは待て」


 血を飲むときはTPOを弁えよう!

 総武線沿いの道ばたじゃ、すぐ誰かに見つかるぞ!?


 ちょうど通り過ぎっていった電車の音を背にして、私はどうにかこうにか、若林くん……紅太くんを、路地裏に引きずり込んだ。


 緋人くんは不在だったけど、本日はちょっと指先に怪我をしてしまっていたので、おあつらえむきにまだ完治していない傷があった。環に渡した授業のコピー用紙で切ってしまったのだ。地味に痛くて嫌だよね、これ。

 まだ塞がりきっていない傷口を彼に示すと。いつものように、紅太くんは患部へ力を込め、血のぷつりとにじみ出たそこへ唇を添わせる。


 私も例によって気を紛らわすために、電線の入り組んだ狭い空を見上げる。

 視線を巡らせ、建物の隙間から夜を照らす、血のように紅い月を見つけた、途端。


「だめ」


 不意に、血を飲むのを止め。紅太くんは、私の頬に手を伸ばした。

 驚いて視線を向けた私と、私を見下ろす彼の、視線が絡まる。


「知ってるんだから。血を飲むとき、いつもいつも、そうやって気を紛らわせてること」


 不満げに眉を寄せ、そう言うと。

 彼の髪が、目が。

 吸血鬼の、銀と紅に変わる。




「今は。俺だけを見ててよ」




 紅太くんは。

 そのまま顔を近づけて、私の唇にキスをした。


 何が起こったのか、理解ができず。

 頭の中が、真っ白になる。


 ファーストキス、では、ないけれども。

 正気の状態でした、初めてのそれは。



 熱くて、生っぽい。

 血の、味がした。




 多分、数秒間だったんだろう。だけど、何分にも感じられたその時はやがて過ぎ、ちう、と音を立てて紅太くんが離れる。


 彼の口元から滴り落ちていたのは、血だった。


 煌々と私たちを照らす、明るすぎた満月のおかげで。黒い筋のようになって垂れるそれが、確かに血液で、決して何かの見間違いなどではないことが分かる。

 これが真昼の太陽の下だったとしたら。きっと彼の白い肌に、さぞかしその鮮血は映えたことだろう。


 それに、そうだ。

 そもそも私は、彼の口元に付着した液体の出どころを、一部始終を、この目でしっかりと見ていたのだ。



 ――私の、血だ。



 彼は私からそっと目を逸し、「ごめん」と今にも消え入りそうになって身をすくめた。


「ごめん。こんなこと、するつもりじゃなかった」


 掠れた声で、後悔に苛まれたように言うその人は。

 目の前にいる彼は、私のよく知る友人、若林わかばやし紅太こうたその人だった。


 けれども私は。

 よくよく知っているつもりでいて、その実、彼のことなんて、ちっとも分かってはいなかったのだ。


 私の意思とは関係なく、手が、指先が、小刻みに震える。

 慌てて震えを止めようと、私は自分の頬にその手を押し当てた。

 やはり震える唇を必死に押し開きながら。いつの間にか、からからに乾いてしまった唇を舐めて湿らせ、私は満月を背に立ちすくむ彼を見上げる。




「……それ、なんて二次元?」




 違う。

 絶望的に違う。


 動揺しすぎて盛大に台詞のチョイスを間違えた気がする。



「君の血の味は」



 私の間抜けな反応を見るや、その憂いを湛えた顔に怪訝な色を浮かべ――しかしすぐ、いつもの調子を取り戻したように彼はそう言うと。

 垂れた血液を、ぺろりと舌で舐め取り。私の皮膚からも垂れるそれを、長い人指し指で掬い取った。

 左手で私の頬を押さえ、逃げられないようにすると。その赤で染まった右の人差し指を、まるで紅をさすように、私の唇へ、つ、と塗りつける。


 捕食者に睨まれた被食者のように。

 私は、動くことが出来ない。


 長い睫毛を少し震わせ、目を細めると。

 紅太はその赤い目で私の瞳をじっと覗き込み、妖艶に微笑んだ。



「本人と同じように。やっぱりちょっと、うるさいね?」



 本当、死活問題だ。

 こんなことを、目の前でされて。




 ――どうして、平然としていられるだろう?




「俺は。君が思ってるほど純粋じゃないよ」


 思考がショートしている私は、何も答えられず。

 おもむろに始まった彼の話に、ただ耳を傾ける。


「あの日。サークルの前に、桜間といただろ」


 壊れかけた脳みそが、なんとか考える。

 あの日、とは。

 きっと、私が彼の秘密を知った日のことだ。

 今日みたいに。


 そうだ。

 さっきも彼は、その話をしようとしていた。


「焦ったんだ」


 フリーズしたままの私に構わず、紅太くんは私を捕らえたまま続ける。


「このままだと。桜間と望月さんが、付き合ってしまうんじゃないかと思ったから。

 時期尚早だとは思ったけど、このままじゃまずいと思ったから。

 だから、賭けることにしたんだ」


 ええっと。


 なんの。

 話?


「俺が満月に打ち勝って、あの道中を君と普通に過ごすことができたら。

 俺は、君に告白しようと思ってた。人間として正体は隠しながら、君と一緒に過ごすことが、できるんじゃないかと思ったんだ」


 待って。

 待って待って待って。


 何を、言われているんだろう。私は。


「勝算はあったんだ。事前にいつもよりは多く血を飲んだし。対策はしたつもりだった。

 だけど、だめだった。

 実際、目の当たりにしたら。

 君の血が。飲みたくて、飲みたくて、欲しくて欲しくて仕方なくなってしまった」


 彼は、ちろりとまた唇を舐める。

 その仕草に、思わず、びくりと肩が跳ねた。


「結果は最悪だった。でも、まさか。君が自分から被血者として名乗りをあげてくれるなんて思わなかった。

 正直、怖さはあったけど。これでもっと近づけるって、してやったりと思ったんだ。

 君が、こんな子だとは、思わなかったけど、でも。

 前よりも。ずっとずっと、惹かれていった。

 おまけに。血の味まで、こんなに俺好みなんだもの」



 本当に。

 本当に、ちょっと、待って欲しい。


 これは、ただの、いつもみたいに血をあげる、それだけのはずだった。


 私は。

 一切、なんにも、心の準備ができてない。



 混乱したままに、私はうわずった声をようやく絞り出す。


「血って。そんな、私のは、だいぶ、くどいって」

「くどいなんて、誰が言ったの?」

「だって。ビーフストロガノフだのなんだの、例えが濃いものばかり」

「あぁ。あれはね、全部、俺の好物なんだ。気付かなかった?」


 分かる、訳がない。

 そんなの、分かる訳がなかった。


 だけど。血が、好きっていうのは。

 それが、吸血鬼にとって。きっと、結構な意味をもつんだろうことは、想像できる。

 誰かも、言っていたじゃないか。



――吸血鬼と被血者にだって『相性』というものがあるんだよ。

――君の血で。若林紅太の能力はそれこそ、うるさいくらいに増強される。



「言ったでしょ。『一度、味をしめてしまったら。そう簡単に手放したりなんか、できないよ』って」



 紅太くんは。

 私の耳元で、熱っぽく告げる。



「つまり。望月さんの言葉を借りれば。

 君の外から内から、血の一滴に至るまで、君はどうあがいても性癖でしようがないんだってこと」






 つまり。

 これは、平たく言えば。


 私こと、望月もちづき白香しろかという名の変態が、若林わかばやし紅太こうたという名の吸血鬼の末裔と、出逢ってしまったというお話。

 不器用な人間が、臆病な吸血鬼と出会って。




 そうして、恋に落ちたというだけの、どうでもいいお話。




 いや。

 どうでも、よくない。

 死活問題、だ。


 だって、ほら。




「これだけ言っても。まだ分からない?」



 私の唇をもう一度、すっとなぞりながら。

 普通の人より少しだけ尖った犬歯を見せて、悪戯っぽく笑う。


 分からない、わけじゃない。

 だけど、待って、思考が全然、追いつかないんだ。


「ねえ。酔ってる? 酔ってるよね? ぜっっったい、そうだよね?

 だって私みたいな変態がそんな好かれるいわれなど」

「酔ってない。弾みをつけるのに力は借りたけど、俺は至って正気だよ。

 だけど、強いて言うなら。君に、白香に、ずっと酔ってる」


 真剣な眼差しで、そう言うのは。

 反則、である。



 どうやら私は、この吸血鬼の末裔に。

 血だけではなく、心の臓までとられてしまったみたいだった。



「その目も、その声も、うるさいくらいに賑やかな血も。

 みんな、みんな、大好きなんだけどさ」



 紅太くんは。

 また、吐息がかかるくらいまで、そっと顔を近づけて。






「今だけは。少し、黙って?」









【1.紅ノ月:完】

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