第47話 桜間環は静かに懇願する
慣れない駅に降り立ち、空を見上げる。
七月に入ったというのに、天気はぐずついており、ぱっとしない空模様だった。今は止んでいるが、朝は雨まで降っていた。梅雨明けにはまだ時間がかかりそうだ。
ようやく日常に戻って、一週間を過ごした後の土曜日。私は朝から、大学に向かうのとは反対方向の電車に乗り、また八王子に来ていた。
藍ちゃんの家で円佳さんに血をあげてから、既に一週間以上が経過している。
大学は、まもなく試験と夏休みを迎えようとしていた。
七月の中盤から本格的に試験期間のため、試験範囲が発表されたり、授業によっては先んじて授業時間内で試験を実施するものもあったりと、この時期の授業はいつも以上に重要だ。五月の連休以来サボりがちだった学生も、この時ばかりは出席をするので、大学にはいつもよりも人が溢れていた。
ただでさえ二週間近くブランクがある私は、ひいひい言いながら試験や授業をこなしていると、あっという間に一週間が過ぎてしまった。
そんな大事な時だというのに。
今週、環はほとんど大学に来ていない。
少なくとも私と一緒の授業では、一度も姿を見かけることはなかった。
スマホに頼りながら、どうにか迷うことなく目的地へと辿り着く。
見覚えのある大きな白い建物は、先週、貧血にて一日入院させてもらった病院である。
そして、同時に。
今は、円佳さんが入院している病院だ。
エレベーターで最上階に登り、事前に聞いていた部屋番号を探す。やがて発見した、既に引き戸の開け放たれていた部屋におそるおそる入ると。
そこには、久しぶりに見る、珍しい環の姿があった。
「……白香」
声をかける前にこちらに気付いて、彼は驚いたように振り返り、椅子から立ち上がる。
環の髪は、いつかカラオケで見た時みたいに短かった。
黒いTシャツに、同じく黒い細身のパンツ、耳にはシンプルな銀のピアスという装いだ。
いつもの環の服装とは全然、違う姿だったけれども。男性の姿でも、環は十二分過ぎるくらい、綺麗だった。
「どうして、ここに」
「だって。全然、大学来ないんだもん。だからノート持ってきたよ」
「あ――ありがとう」
四の五の言わせる前に、私は素早くトートバッグからプリントを取り出して、環に押しつける。
されるがままに、環はノートのコピーを受け取った。
「今週、どこもかしこも試験とか範囲発表とかやってたけど、大丈夫だったの?」
「語学の試験はちゃんと受けたよ。範囲は誰かから聞けば良いし、今までに出席はしてたから、今週一回くらい出なくても大丈夫だろ」
「あれ? 蒼兄は、クラスで会わなかったって言ってたけど」
「英語は一緒だけど、二外は別なんだよ。安室はスペ語だろ。英語の試験はまだ来週だからな」
なんてことのない、いつもの会話を、いつものように交わしてから。
言葉に窮したように環は私から目をそらし、窓へ視線をやった。つられて私もそちらを眺める。
開け放したカーテンの向こうには、どんよりとした曇り空が広がっていた。しかし最上階なので、眺めが良い。都会と緑とが入り交じった街を見渡す景色は、たとえ曇りでもすがすがしく感じられる。
環が先ほどまで腰掛けていた椅子は、ベッドの脇に置かれていて。
そのベッドには、幾つかの管につながれながら、静かに眠っている円佳さんがいた。
地下で見たあの時よりも、明るい場所で見る彼女の方がより美人だ。
肌が白いのは相変わらずだったけれども、病的な白さではなく、まるで人形のようだった肌には血色が戻っていた。
若林くんが血を分け、素人でも確認できるくらいにまで脈が戻った後。円佳さんは、若林くんたちの口利きにより、密かにこの病院に搬送されたらしい。
訳ありの患者なので、最上階の特別な個室に入っている。身内と一部の関係者を除き、存在が隠されているようだった。
彼女は、危険な状態からは脱したらしい。
少なくとも、死んだとみなされないところまで、医療から見放されない程度には、持ち直した。
けれども。まだ、意識は戻っていない。
「若林が、来たんだ」
ぽつりと、まるで独り言のように環は呟き、サイドボードの花瓶に活けられた花を見つめる。
多分その時に、若林くんが持ってきたものなのだろう。
再び、椅子に力なく座り込むと。
環は丸くなり、組み合わせた手を額に付けた。
「俺は。あいつを、見殺しにしようと、したのに。それなのに」
それきり。
環は、また黙り込んでしまった。
おそらく。若林くんが来た時に、今回のことで何かしら大事な話がなされたのだろう。
そして私の勘違いでなければ。既にもう、二人の間では、一定の和解のようなものが成り立っているようだった。
けれど。多分、環はそれを許せていないのだ。
若林くんに対して。自分自身が、したことについて。
でも。
環はきっと、最後の最後まで迷っていた。
そして、おそらくは。
助けて欲しがっていたのだ。
でなければ。
あの時、環の手が震えたことも、緋人くんに背後を取られる隙も、きっと見せていなかったはずだし、
私たちは、藍ちゃんの家まで辿り着いていなかったかもしれないのだ。
「桜間には。できるだけ、危害は加えるなよ」
八王子の藍ちゃんの家に向かう道中。緋人くんは、蒼兄にそう釘を刺していた。
言われた蒼兄は、やや渋い表情を浮かべる。
「どうして敵に温情をかける必要があるんだ」
「気持ちは分かるが、そう言っとかないと、お前はガチで殺傷沙汰をしかねないからな。相手は俺たちと違って人間だってことを忘れるなよ。それと」
サイドボードに取り付けられたタブレットを見つめ、緋人くんは静かに告げる。
「桜間は、場合によっては、こっちに引き込める可能性がある」
彼の言葉に、私は目を見開いた。
蒼兄はアームレストに肘をつき、悠然と尋ねる。
「ほう。その根拠は?」
「発信器が、正確に機能したままだからだよ」
一瞬、手にした自分のスマホに視線を落としてから、緋人くんは続ける。
「いくら小型と言っても、発信器はせいぜい親指サイズだ。カバンに仕込んだならともかく、さっきは服に仕込んだんだ。気付かれる可能性の方が高い。なのに発信器が有効なままってことは。
おそらく。桜間は、俺たちに止めて貰いたがっている」
緋人くんの言葉に鳥肌が立ち、私は強く自分の手を握りしめた。
一方の蒼兄は、少しばかり呆れ顔をする。
「なるほどな。だが結果として桜間がそうだったからいいが。もし桜間にその気がなくて、発信器を壊されてたら、どうする気だったんだよ」
「その時は別途、桜間のスマホに仕込んどいたアプリで追跡するつもりだった。因みにスマホが示してる場所と一緒だから、発信器がダミーにされてる可能性もないだろう。スマホの方は精度がいまいちだから助かった」
「何その二段構え、いつの間に!? 怖すぎるんだけど!?」
思わず私は口を挟み。改めて、緋人くんの周到さに戦慄したのだった。
と。緋人様が怖い件はさておいて。
思い切り首謀者の立場にはいたけれども。環はきっと、最後まで踏ん切りはつかなかったんだろう。
円佳さんを助けるために、若林くんを犠牲にすることについて。
そして今は。それを、後悔しているのだ。
加えて。
多分、若林くんから、許しだか和解だかの話がついてもなお、自分を許しきれずにいる。
環の今のようすを見れば、そんなことは容易く分かった。
だって、私は。
「あのね、環。藍ちゃんにもちょっと言ったんだけどさ」
環の隣、空いている椅子に座ると。
私は、仏頂面でずいと環の方へ顔を寄せる。
「友達として、若林くんを狙われたことに思うところはあるよ。でもその話は、二人の間のことだから、私からごちゃごちゃ言うのは置いておく。
私が言いたいのは、私が怒ってるのは、別のところなんだ」
「別のところ」
「なんで。――なんで、それを、話してくれなかったかなぁ」
言いながら、少しだけ鼻の奥がツンとした。
だけどそれを無理矢理に押し込めて、私は続ける。
「私は。環の親友なんだよ?」
私は、ただの人間で。
そして、若林くんの被血者で。
そのことを、環も知っていた。
だからこそ、円佳さんのことを、彼女の惨状を、私たちが知れていれば。
それこそ、吸血鬼と人狼との間で、表向きにそうとされた筋書きのように。安全で平穏に済ます道があったかもしれないのだ。
今回は、結果オーライな結末ではあったけれども。
一歩間違っていたら、誰がどうなっても、おかしくはなかった。
「心情的にも。状況的にも。それが難しかったことも、嫌だっただろうことも、分かってるつもりだよ。
だけど。誰かを犠牲にするとか、まして環が誰かを傷つけるはめになるとか、そんなことをするくらいだったら、いくらでも私を巻き込んでよ。
苦しんでる時に助けられないなんて、甲斐がないじゃない。いくら私が全部を忘れたとしたって、環が傷付いてるんだったら、そんな平和なんてごめんだからね」
一息で言い切ってから。
「気付けなくて、ごめん」
「ごめん。――ごめんな」
声を詰まらせて。環は俯いたまま、ぎゅっと私の手を握った。
「ただ、一つだけ。一つだけ、頼む」
やがて環は、顔を上げると。
真剣な面持ちで、じっと私を見つめる。
「お前が何を選んで、何を好きになったって構わない。
……いや正確には構うんだけど、それはひとまず置いておく。ただ、だけどな。
それなら、俺だって同じなんだよ」
環は、握りしめた手に力を込めた。
「お前が笑ってないなら、意味がないんだ。
お前まで。この世界から、いなくならないでくれ」
形のいい眉を下げて。
私の親友、桜間環は、懇願するように言った。
******
その日の夜。
私は若林くんと二人、夜道を歩いていた。
環と円佳さんのところを訪れた後、私は今度は大学へ足を運んでいた。
普段であれば土曜日は一日オフだが、本日午後からはサークルの前期総会だったからだ。
総会では、前期のサークル活動の締めくくりに、前期の振り返りと後期の予定確認をして、夏休み中に実施される夏合宿の事務連絡などが行われる。
そして夕方からは、これまた総括と称しての飲み会が実施されるのだ。
総会の時は例年、二次会三次会とひたすら飲み会が続き、朝まで飲み明かすらしいけれど。私と若林くんは、二次会の途中で抜けさせてもらっていた。
私が貧血で倒れたことは周りにも知られていたので、病み上がりの私の送迎役を兼ねて、早々に帰宅させてもらったのだ。
とはいっても、既に日付が変わそうな時間になっているんだけれど。
しばらく、ぽつぽつと当たり障りのないことを話していたが。
やがて、不意に会話が途絶えた。
二人黙って並んで歩きながら。私はあの日のこと、若林くんの秘密を知った日のことを思い出して、くすりと笑う。
あの日は焦って、盛大にテンパってたなぁ。
気まずさに耐えられなくて、冷や汗だらだらだったもん。
だけど。
今はこの沈黙が、気詰まりじゃない。
そう、思っていると。
「聞かないの?」
突然、若林くんがそう尋ねてきた。
なんのことか分からず、首を傾げる。
「なにを?」
「どうして俺が、あの日に図書館に着いていったのか」
まさに思い返していた出来事の話をふられ、のんきに「タイミングいいなぁ」と思った後で。
「疑問に思わなかった?」
若林くんは、至って平然とした声音で続ける。
「普通なら。どう考えたって、わざわざあの日に出歩きはしない。
そこに、狙いがないならね」
私は足を止める。
数歩先で彼も立ち止まり、私を振り返った。
「まだ。気付かない?」
そう言って。
若林くんは、怪しげな笑みを浮かべた。
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