第39話 胡乱な相手の怪訝な応酬
スライドドアを開けると、暗闇から流れ込んできた、梅雨の湿った生ぬるい空気が鼻をつく。ほんのりと混じる土の匂いに、ここが一応、山の中なのだということを思い出した。
つまり。何かが起きても、そうそう人はやってこない。
皆がいる藍ちゃんの家にも。
そして、私のところにも。
そんなことを考えてしまい。暗闇の中へ降りるのを、少しだけ躊躇していると。
先に外へ出ていた黒崎が、こちらへ
「お手をどうぞ、お嬢さん?」
「触らないでくれます?」
「辛辣ぅ」
思いのほか素直に手を引っ込めると、黒崎は口を尖らせる。
「さっきはオレの手を取ったくせにぃ」
「物理的には取ってません!」
誤解を招くような発言をするんじゃあない!
そこまで私は暢気じゃあないぞ!
登場時の姿のまま、黒崎は今も藍ちゃんの姿である。
それはつまり、藍ちゃんの『触れた相手を眠らせる』能力を使えるということだ。
一旦、手を組むことにしたとはいえ、迂闊に触らない方がいい。
先ほどの話を経て。私はこの黒崎と、一時的には協力することにした。
だけどコイツはさっき、『最良のエンドは、若林紅太が死に、安室蒼夜の血を入手すること』だのと宣った人物である。
今は、若林くんを死なせないために動いてはいるが。コイツにとっては、自分が望まない展開を回避さえできれば、若林くんの安否はどうでもいいのだ。
そんな奴のことを、手放しに信用するわけにはいかない。
ぶーたれる黒崎と、一メートルほどの距離を開けながら、夜の山道を歩き始めたところで。
警戒しつつも、我慢しきれずに尋ねる。
「ねえ。どうして蒼兄の能力を使おうとしてるの?」
思えば。コイツに関しては、未だに謎だらけだ。
環と藍ちゃんの動機や目的は、分かりやすい。
基本的には徹頭徹尾、円佳さんのためだ。
だけど黒崎は、一体何をしたいのか、どうして二人の側についていたのか、理由がよく分からない。
今回の一連の出来事で、この黒崎は結構な立ち回りを見せている。
蒼兄の血を盗んだのも黒崎なら、それを使って私を騙したのも、バーから私を連れ去ったのも、偽の記憶の刷り込みをしたのも黒崎だ。かなり主体的に動いている。
環や藍ちゃんだって裏で動いていたんだろうし、情報源はこの二人なんだろうけど、目立った実行犯はほとんどコイツだった。
しかし、その割に。
彼らの最大の目的である『円佳さんの復活』という点において、今ひとつ、二人のような必死さは見えないのだ。
私と黒崎が目指す終着点だって、円佳さんを復活させる方向にあるけれど。
コイツが主に論点としていたのは、あくまで『蒼兄の能力を入手できるか』であって、円佳さんを復活させるのは、まるでついでみたいな感じだった。
その一方で、円佳さんを壊されるのは困る、とも言っている。
うーん。実際、どうなんだろ。基準が全然分からない。
そもそもコイツは最初、これとは無関係に、緋人くんの依頼を受けて私のところにやってきている。
緋人くんは、『契約』って言い方をしていた。
普段からそういった依頼を仕事として受けて、血を集めているんだろうか。黒崎の能力は他人に擬態するものだし、需要がありそうではある。
だけど。ビジネスライクな契約関係なのだとしたら、環と藍ちゃんとの契約を反故にするような真似なんてしないだろう。
自分の目的が、それほど重要だったのか。
または緋人くんの時と違って、今回に関しては、契約というよりは私的なものに近いのかもしれない。
さっきの話しぶりからして。
黒崎の目的は、『蒼兄の能力を自分の目的のために使うこと』なんだろう。
なら、おそらくは利害が一致したから、環と藍ちゃんと組んでいたのだ。
けれど。
黒崎は既に、目的である蒼兄の血を、手に入れているはずなのだ。
コイツはその血を使って、蒼兄に化けて私を呼び出し、偽の記憶を私に刷り込んだ。
黒崎がそうしたことで、彼らにとって事がスムーズに運んだことは間違いない。
ただ、それは必要不可欠とまではいかなかったはずだ。
私を呼び出すことは、他の手段を使っても可能だっただろうし。
藍ちゃんのアパートに閉じ込めておくときだって、極論、無理矢理に監禁してしまえば良いのだ。
わざわざ、能力を使わなくたっていい。
私なんかに使うより、さっさと自分の目的のために使っちゃえば良かったんじゃないの?
「蒼兄の能力が必要だっていうなら。もう血は手に入ってたでしょ?
私に使っちゃったせいで、今はもう、ないのかもしれないけど。
でもそれなら、どうしてわざわざ私に蒼兄の血を使ったの?」
私の問いに、黒崎はこちらに顔を向けて。
一瞬、目を丸くすると。
奴は、鼻で笑った。
「どうしてオレがそれを馬鹿正直に君に話すと思うの? バカぁ?」
クッソ腹立つなこの男!!!!!
もういい知らん!
会話しても無駄だ!!
対話を試みた私がバカでしたよ!!!
瞬間で沸騰した私は、無言で歩調を速める。
「おーい、無視しないでよぉ」
どの口が言いやがるんだ?
先に会話を打ち切ったのはどっちだ???
「仕方ないなぁ。
早足で追いついてきた黒崎は、ポケットに手を突っ込んだまま、悪びれる素振りもなく言う。
「実験台だよ」
「実験台?」
「安室蒼夜の能力は未知数だったからね。瀬谷から『暗示』だと聞いちゃいたけど。安室蒼夜の能力が、オレの手におえる代物かどうかは分からなかった。
まず血を盗んで実際に試してみて、それが分かった後で、オレも環たちの計画に深入りすることに決めたんだ」
緋人くんが、若林くんに近付く人を警戒していたように。
蒼兄も、自分の血と能力の取扱いには、相当に慎重だった。
蒼兄の能力は、彼らからしてみても、かなり特殊なものなのだろう。
それだけに、いかな黒崎でも、能力をトレースしきる確証がなかったということだろうか。
それに『暗示』という性質からして、そう一筋縄ではいきそうにない。いきなりその能力を手にしたとしても、まず使いこなすのが難しそうだ。
「『偽の記憶の刷り込み』と『本当の記憶の忘却』。
どのくらいの精度で再現できるか、どのくらい保持できるか、事前に試す必要があったからねぇ。
もし。途中ですぐ元に戻ってしまうようであれば、かえって逆効果になりかねないからさ。
だから実験がてら、利用がてら、支障のない人物の支障のない範囲の記憶を、ちょこちょこーっといじらせてもらったってわけ」
「支障のない人物の、支障のない範囲の記憶」
「君のことだよぉ?」
「流石に分かってるわ、ってか面と向かってよく言えるな?」
そうかぁ、私は有象無象で一石二鳥な実験台だったという訳ですね!
本当に腹が立ちますねコイツは?
叶うものならマジで一発殴ってやりたいな??
前に紗々を食べられたことも忘れてないからな???
「もう一つの理由は。オレの能力には、使用期限があるから」
「使用期限、って。血を飲んでから一定時間しか能力を使えないってこと?」
「そっちのタイムリミットも当然あるけど、それ以前に。
例外はあれど。オレの能力は基本、血を採取してから一週間程度しか効かない。
『摂取』じゃなく『採取』だ。だから君に使わず、後生大事に血を取っておいたところで、安室蒼夜の血は、既に効力を失ってる」
なるほど。そのセンは考えてなかった。
詳しいことは覚えてないけど、献血した血だって、確か期限があったはずだもんね。
でも、そうだとしても。
「私に試した後で、効果が切れる前に能力を使えば良かったんじゃ?」
「生憎と、オレの目的を達成するには、環たちの計画後でないと意味がないんだよ」
「意味がない」
「ざぁんねん、ここまででーす」
しかし黒崎は、いきなり話を打ち切った。
「じゃあ。ひととおり話したところで、今のことは忘れてね?」
そう言うと。黒崎は私の顔の前へ、おもむろに手の平を広げた。
びくりと身構え、顔を腕で覆う。
が。
ワンテンポ置いてから、奴はげらげらと笑い出した。
「だから言ったでしょ。オレの能力が効くのは一週間。もう安室蒼夜の血の力は使えないよぉ。
さっき話したばっかりなのに、実に愚かだねぇ、脳が可愛いねえ」
本当にいちいち腹立つなコイツは!!!!!
奴は、ひとしきり笑った後で。
目尻を拭うと、独り言のように呟く。
「ま。オレの理由は、全てを開陳してしまえば、すこぶるシンプルなものだよ。
どーせ君には分かんないだろうけど。
……さぁて、到着だ」
黒崎の言葉が気になりはしたが。
話をするうち、目的地に辿り着いたので、私は眼前にそびえる建物を見上げた。
藍ちゃんの家は、年季の入った二階建ての洋館だった。
三角屋根に白い外壁のそれは、横浜や神戸にあっても遜色ないだろう。
建物自体は、少し大きめだが、一般的な住宅といえるサイズ感だ。
けれど庭はだいぶ広く、この敷地の中にあと五軒は家が建ちそうだった。
本来は、狭い道路沿いに構えられた門をくぐり、正面の玄関から入るのだろうが。私たちは途中で、生け垣の壊れた隙間から庭に侵入している。今は、洋館を斜め後ろから見上げている状態だった。
だから、緋人くんと蒼兄がどこにいるのか、何をしているのか、ここからでは分からなかった。
ただ、辺りはしんと夜の静寂に満ちており、物音はしない。
「今、どうなってるんだろう」
「あの二人だって、正面から戦争を仕掛けはしないだろ。まだ鉢合わせしてないか、屋敷の中で膠着中かだろうな」
抑えた声で答えながら、黒崎は洋館にぴったり添うように作られた、物置の前へと足を進める。
しかし物置かと思ったそこは、扉を開けると、地下へ続く階段が続いていた。
「ここが地下室の入り口。階段を降りたら、すぐ若林紅太が拘束されてる部屋だ。同じ部屋に桜間円佳も寝てる」
「直接、ここから入れるの?」
「大きいものを、棺桶を運ぶのに、その方が都合がいいでしょ?」
棺桶、という言葉に思わずどきりとするが。
ぶんぶんと首を振って、気を取り直す。
しっかりしろ。
これから、本人と対峙するんだぞ。
「普通は屋敷の中側の階段から出入りしてるみたいで、さっきまでこの出入り口は封鎖されてたから、瀬谷もこっから侵入されるとは思ってない。邪魔が入る前に、ちゃっちゃと済ませちゃってよ。
それじゃあ、手筈通りに」
黒崎は、あらかじめ隠しておいたのだろう、階段に置かれた小さなクーラーボックスを私に手渡した。
「後はよろしくね、共犯者さん」
いつの間にか。
黒崎の声は、既視感のある声音に変わっていた。
そのまま奴は、私の首元へ顔を寄せる。
紅い月が照らす黒崎の顔は。緋人くんと、同じ顔をしていた。
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