第17話 男の娘
「へくしっ」
大変に可愛らしい声をあげてくしゃみをしたのは、今日も全力で可愛い私の推しこと、若林くんである。
ほんのりと涙目になり、すんと鼻を鳴らす。
あーーーーーかわいそうだけどかわいい……。
「どうしたんだよ紅太」
「んー、合宿行ってから調子悪いんだよね。風邪引いたかな」
「もう十日近く経ってるだろ」
「治んないんだよ。むしろ今週になって悪化した」
不満そうに若林くんは口を尖らせた。
水曜日の二限目。私たちは例によって、若林くんに血を提供するためにサークル部屋に集まっていた。
前に奥村くんとレジュメの検討会をした時間帯だ。ちょうど三人の授業がなく、他の人があまり来ない時間帯だったので、そのままこの時間に定着したのだ。
「大丈夫? 血を飲めば、良くなるかな?」
「薬じゃないんだし、そう簡単にはいかないよ」
そう切り返す若林くんは、鼻声だ。心なしか頬もいつもより赤いし、目元は潤んで、表情もぼんやりしていた。
めっちゃくちゃ可愛くはあるけど、これはやっぱり風邪の引きはじめかもしれない。
どうしよう推しが体調を崩されている……。
世界が均衡を乱してしまう……!
「そうは言っても、飲まないと弱る一方だろ。今週末は満月なんだし、多めに飲んでおきなよ」
「でも、望月さんに悪いし」
「弱られる方が私に悪いですー! いつも遠慮がちなんだから、こういう時くらい好きなだけわがまま言っていいんですー!」
悲壮感を目一杯に滲ませながら、私は顔を覆った。
お願いだ、後生だから飲んでくれ!
私が心神耗弱してしまう!!!
「ほら、シロだってそう言ってるんだから」
「お前な。何度も言うけどシロって呼ぶのやめろよ」
若林くんは軽く非難したが、私たち二人に言われて渋々納得したらしく、血のことについては素直に頷いた。
その反応を受け、奥村くんは私の腕を取る。さすがに首は恥ずかしすぎるので、あれ以降、血を吸うのは腕にしてもらっているのだ。
そうしていつものように、奥村くんが私の腕に噛みつこうとした、その時。
ドガン、と背後から衝撃音がして、びくりと私は肩をはねさせた。
他の二人も一緒に、驚いて振り返ると。
そこには、環がいた。
環は、サークル部屋の奥に並ぶロッカーの一つから飛び出してきたらしい。
足を蹴り上げた状態で、仏頂面で立っている。白いプリーツスカートだったが、ミモザ丈なので幸いスカートの中は見えずに済んでいた。
「てめぇら。うちの白香になにしてやがる」
低いドスの利いた声で、環は据わった目で凄んだ。
突然のことに、思考が追いつかず。私はぽかんとしたまま、間の抜けたことを聞いてしまう。
「環? どうして、今は授業じゃ」
「サボった」
「なんで」
「それどころじゃなかったからな」
私の質問に短く答えてから。
環は奥村くんと、そして若林くんへ、冷たい眼差しを向ける。
「お前ら。吸血鬼だな」
その言葉に、背筋が凍った。
咄嗟に体が反応し、私は椅子から立ち上がる。
「やだなぁ環、何言ってるの?」
いつもと変わらぬふうを取り繕い。
私は、普段と同じトーンで弁解する。
「うちらはただ、暇つぶしに話してただけだよ。
二人はさ。ほら、班が一緒だったりして、話せるようになったんだけど。ほら、私がチキンで全然、友達できないから、環が授業の時なんかは、よくこうやって仲良くしてもらってるんだよ」
朗らかに、にこやかに。
何もやましいことはないのだと、そう言ったつもりだった。
けれども。
聞いた環の口が、ひくりと引きつった。
それで私は、言うべきことを徹底的に間違えてしまったのだと悟る。
別のベクトルで、環のスイッチが入ってしまった。
「何、言ってるんだ、白香。
お前に友達ができない理由だ? そんなの、分かりきってるじゃねぇか」
環。
ごめん、そんなつもりじゃなかったの。
その先は、私、聞きたくない。
「俺みたいな野郎とつるんでるからだよ!」
すらりとした長身の、上から下まで完璧に美しい女性の装いをした環は。
私の大好きな、恰好良いテノールの声で、そう叫んだ。
桜間環は、身長一七五センチ、体重五五キロの、スタイルの良い美人さんだ。
いつも凛として、格好良くて。
センスがよくて、服装も化粧も素敵に洗練されていて。
一見そっけなく見えても、内実は情に厚くとても優しくて。
私みたいな変態のバカな話にもつきあってくれる、心の広い人で。
私の大好きな親友で。
それから。
紛うことなき、男性だった。
世間で言うところの、男の娘だ。
環は、見た目は完璧に女の子だった。背が高いというところ以外、引っかかる要素はない。それだって、モデルみたいだなと逆に惚れ惚れしてしまう人の方が多いだろう。
だけど声を出すと、どうしても男性だということが分かってしまう。男性にしては高い声だったけれども、それでも女性の声では絶対なかった。
だから。環は、どうしても周りからいろいろと言われてしまう。
授業中だって、校内にいたって、外に出たって。気付くと、人は好奇の眼差しで環を見た。
環はいつも、他人の目なんて全然気にしていないみたいに、すっと背筋を伸ばして毅然と佇んでいたけれど。
だけど本当は、いつだって環の目は悲しげに曇っていたことを、私は知っている。
だから。私だけは、そんなこと、環に思わせたらいけなかったのに。
私の友達が環しかいないことが、環のせいだなんて、ちょっとでも思わせたらいけなかったのに。
私のせいだ。
もっと早く、もっと沢山、環以外にも友達を作って、環を安心させてあげなくちゃいけなかったのに。
環はそれ以上、何も言わなかった。
私も、何も言うことができなかった。
普段はあんなにうるさく、環につきまとっているのに。
私は、こんな時に限って、ろくに言葉が出てこない。
全員が動揺する中。
一番最初に我に返ったのは、奥村くんだった。
「そうか。あんたが、桜間か」
納得したように、彼は静かに頷いた。
「なるほど、分かったよ。だからお前は俺たちのことを知ってるんだな」
「嫌という程にな。反吐がでるお前らの習性含めてね」
「そういうことか。
無駄だよシロ、そいつに言い訳は通用しない。どのみち今の会話を聞かれていたのなら完全にアウトだ」
環から目は逸らさず、奥村くんは私にそう告げた。
敵愾心に満ちた眼差しで、更に環は彼を睨む。
「気安く呼ぶな。白香は返してもらうぞ」
「待ってよ環」
金縛りが解けたように、私は慌てて環の袖をつかんだ。
「別に私は、二人に強要されてるわけじゃない。
たまたま事情を知っちゃって、それで協力してるだけなの。二人を責めないでよ」
何故かは知らないが、環は二人の正体に勘付いている。奥村くんの言うように、この状況で誤魔化せはしないだろう。
だけど二人に血を提供しているのは、私の意志だ。環の反応からして、きっと二人に私が無理強いされているとでも思っているのだろう。その辺りの誤解なら解けるはずだ。
環は黙って私のことを見下ろしてから。強く、私の手を握った。
「帰るぞ。話をさせてくれ」
私の返事を待たずに、環は私の手を引いた。空いた方の手で、机に置いてあった私のバッグを回収し、有無言わさず出口に向かう。私はされるがままに、サークル部屋の外に押し出された。
「覚えとけよ」
環は自分もサークル部屋から出る間際、中の人物へ告げる。
「白香の優しさは。お前だけに向けられたものじゃない」
私は、若林くんたちのことを振り返ろうとしたが。
環に強く背中を押され、一瞬姿を見ることすらもできなかった。
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