第57話 とんでもない推しが顕現した
苦しくて、息が、できない。
ううん。
できない、というより、息がしづらい。
数秒経って、ふと違和感に気付く。
その手から逃げられるほど、甘くはない。
だけど即座に息の根を止めようとするほど、本気の力を込めてはいないようだった。
まるで反応を弄ぶように。
まるで感触を確かめるように。
じわじわと、ゆっくり首の皮へ紐が食い込む。
真綿で締める、というのは、まさにこういう感覚を言うのだろうか。
こんな感覚、別に知りたくなかった。
とはいえ。このままの状態が続けば、酸欠になる。どうにかして逃げ出さなくては。
首の紐を振り払うのは、無理そうだ。ならば、と背後にいるだろう犯人に背中で体当たりする。が、思うように体が動かせず、力はほとんど入らなかった。
私の抵抗を受けて、紐を引く力が強くなり、いよいよ駄目かと思った時。
どん、と背後から衝撃がして、呼吸は不意にふっと楽になった。
同時に、背中にまとわりついていた誰かの気配が消える。
咳き込んで、私はその場に崩れ落ちた。
ああ、酸素だ。
酸素美味しい。酸素って素晴らしい。
いや、空気は酸素ばかりではないな。
ありがとう空気。ありがとうエアー。
空気ってこんなに美味しいかったんだね……。
うずくまった状態でぜいぜいと息を吐き出しながら、顔を横に向けると。人影が視界に入り、我に返る。
おそらく、さっきまで私の首を絞めていた人物だ。黒いパーカーに、黒いぴたりとしたハーフパンツ。いかにも怪しい、黒子のような格好である。フードを被ってマスクを着けており、当然のように顔は見えない。
ただ、そこまで体格がいい方ではないことはシルエットから分かった。どちらかといえば、華奢な方だろう。ヘタをすれば私よりも小柄かもしれなかった。
その人物は、既に玄関近くまで飛びすさり、私の居る位置からかなりの距離をとっていた。
いや、正確には。
おそらく、私からそいつを引き剥がしてくれた人物――私と黒子の間に身構えて立つ彼を、警戒するように距離を取っていた。
先ほど背中に感じた衝撃。それはおそらく私を襲った犯人を、彼が突き飛ばすか何かした気配だったのだろう。
彼はそいつに向かって床を蹴った。だがそれより早く、犯人は身を翻し、外の闇に飛び出す。
玄関前まで駆け寄るが、既に夜に紛れてすっかり見失ってしまったことを悟ると、彼は苛々と舌打ちした。
「逃げられたか」
そう小声で独りごち、ずれたメガネを手の甲で直した救世主は。
私も、よくよく見知っている人物だった。
同じ一年生の、
若林くんと同じ班で、バスの中から打ち合わせに励み、到着早々に発表をしていた彼だ。
今は着替えて、宿に備え付けてあった白と紺の縦縞模様の浴衣を着ている。素晴らしいことに、温泉地なのでペンションながら部屋には浴衣も備えてあったのである。
さっき先輩たちとのキャッキャウフフトークで、彼のことは好みではない方で引き合いに出してしまったけれど、別にディスったわけではない。何かの運動で鍛えたのだろうガタイの良い体つきは、私の性癖でこそないけれども、たとえば筋肉は秋本先輩の性癖である。
そしてメガネと筋肉は、性癖ではなくとも普遍的な
メガネは法律だし。
筋肉は全てを解決してくれる。
とは、いえ。
えーっと。
助けて貰ったのは、もちろん、大変ありがたいんだけれども。
確かにメガネは法律で、筋肉は全てを解決してくれるのかもしれないんだけれども。
も。
も。
ももももももももももももももももも!!!!!
「えっと。村上くん……?」
いろいろと、こう。
なんというか、こう。
とにかく諸々聞きたいことがありすぎて、まだ呼吸が本調子ではないながらも、かすれた声で話しかけると。
「えっ!? 望月さん!?」
肩をびくりと震わせて、動転した声をあげ村上くんは振り返った。
めちゃくちゃ驚かれた。
そんな疑問形で言われても困る。
君が助けてくれた当事者だよ?
人型のマネキンとかじゃないよ?
こちらが困惑している一方で、彼も何故か困惑しているようで。
村上くんは私をまじまじと見つめながら、あちゃーといった様子で顔をしかめた。
「うっそ、マジか。……マジか」
「えっと。何が?」
「なんで意識があるの?」
逆になんで意識がないと思ったの???
えっ待って。
助けられたと思ったけど、私が既に昇天してると見越してあの犯人の隙を突きに乱入してきた系?
あれ、現場を見られたから口封じのために今度はこっちにやられる系!?
やだ、それだととっても不穏なんですけどぉ!!!
などと、物騒な出来事に遭遇したついでに、サスペンス劇場な思考で身構えてしまったけど。
「あ、いやいやいやごめん! 最初に言うことじゃなかった!!
なんにせよ無事でよかったよ!!!」
その人の良さそうな口ぶりと、慌てた表情から察するに、とりあえず村上くんを警戒する心配はなさそうだった。
よかった。不穏劇場の延長戦かと思った。
延長戦されても白香さんに武器なんてありませんしね。
アレに勝てる気がしませんしね?
……って。
そう!
そうだよ!!!
問題はアレだよ!!!!!
「参ったな……」
そう。
困ったように頭をかいている村上くんの右手には。
何故か、きらりと光る、抜き身の刀が握られていたのだった。
…………。
ホワーイ?????
「れい!!!!! わ!!!!!」
「はいッ!?」
うっかり口から漏れ出てしまった絶叫に、またもや村上くんが素っ頓狂な声をあげる。
……正直。私はこれまでそんなに村上くんと話をしたことがない。
バスに乗るときにつらつら思ったように、私が気兼ねなく話をできる人たちは、吸血鬼の末裔二名と男の娘一名と人狼の末裔二名の彼らくらいでして、アッそう考えると私、大学で人間の友だちって環しかいないな?
それはともかく。
村上くんとは挨拶はするし、必要があれば会話は交わすけど、積極的に近寄って談笑することはなかった。
つまり、別に彼とはそんなに仲良くないし、気軽に軽口を叩くような間柄ではないのである。
でも、駄目だった。
これは限界だ。
マジで限界だ。
限界突破中だ。
「今! は!!
平成も過ぎ令和の御代!!!
戦国でも幕末でもないし!!!!
世の人々は帯刀してないの!!!!!
「じかんそ……なんて?」
村上くんは更に輪をかけて混乱した素振りをみせるが、私の方だって大変に混乱しているのでそこは許して欲しい。
だってだってだよ? 突然、浴衣に刀なんていう二次元ではよくあるけど三次元では珍獣ものの性癖が転がり込んできたわけですよ、ヒューウ粋だね! たくましいその体躯にお似合いですよ! それなんて鴨葱、
ってちょっと待って。
ふと、思い当たることがあって、私は思わず息を止めた。
村上くんの手に握られた刀を、じっと凝視する。
見覚えのある鍔。
彼が左手に持つ、つややかな赤い鞘。
……まさか。
あれは、もしや……!?
「
「なんで知ってるの!?」
知ってるよ!
知ってるともさ!!
分かれ!!!
ググれ!!!!
推しです!!!!!
「えっ待ってちょっと待って、どうして加州清光がこんなところにいらっしゃって、ハハーンさては村上くん
「待って全然分からない話をしないで! さっきから望月さんちょっとかなり怖い!」
村上くんは刀を守るように私から遠ざけ、のけぞる。
おっといけねぇグイグイ行き過ぎた。ビークールビークール。
因みにあれね。加州清光ってのは、刀の名前でありまして。幕末に活躍した『新撰組』の一番隊は隊長・
同じ新撰組で例えるなら、局長の
要するに私は!
新撰組で一番!!
沖田総司が好きです!!!
だからそんな沖田さんが持っていた刀も胸熱に好きなのです!!!!
あ、もちろん
「だからちょっと鑑賞させて」
「論理ッ!!!」
耐えかねたように村上くんが叫ぶ。
あ、そっか。心の声は、彼には聞こえていないのだった。緋人様があまりにエスパーだからうっかり忘れてた。
「要するに、そちらの加州清光をじっくりにやにやほくほくと眺めたいんですけれども」
「『鑑賞』の意味くらい分かるわ! じゃなくて説明になってねぇよッ!
ていうか望月さん、さっき襲れてたよね!? 覚えてるッ!? 不届き者に首締められた直後にとる人間の行動じゃないよねッ!?」
「そりゃあそうですけれども、推しがいたらまずは愛でなきゃ」
「さっきから色々どういうことなの!?」
相手がさほど親しくないことも、本性を隠すことも、すっかり忘れて賑やかに応酬していると。階段から、ざわざわと人の話し声が聞こえてきた。私たちが騒ぐ声を聞きつけたのか、それとも飲み会の時間が迫って更に人が集まってきているのだろうか。飲み会場はこの上のフロアなのだ。
気付いた村上くんは、焦ったように加州清光を鞘に収め、それを背に隠した。
ああ……。
推し……。
「ごめん。今はゆっくりしている時間が」
「加州清光……」
「そろそろ飲み会の時間だし人の気配が」
「加州清光……」
「後でッ! 後でじっくり見せてあげるからッ!」
根負けした様子で村上くんは折れた。
言ったな?
言ったね?
村上くんは、階段の方を仰ぎ見ながら、困ったように額へ手を当てる。
「こうなった以上、ちゃんと説明する。だけど、とりあえず今はスルーして欲しい。悪いけど、さっき襲われたことも含めて、このことは黙っててくれないかな。
飲み会も始まるし、今は不審な動きを周りに悟られたくないんだ」
辺りの気配を気にしながら村上くんは真面目に告げた。
うん。このままだと大騒ぎになるもんね。おもむろにサークル員が帯刀してるんだもんね。
状況からして、さすがに単なる趣味だとは思わない。事情があるんだろうし、それを悪戯に吹聴して回る趣味はないけど。
「口止め料として、後でなんか奢るからさ。ないしは、他に俺ができることならなんでもいいけど」
ほう?
どのみち黙ってはいるつもりでしたけれども。
そういうことならば、是非。
「その浴衣の下に白シャツを着て、書生みたいな格好してくんない?」
「どういうことだよッ!?」
声量は抑えつつも、彼はまたもや叫んだ。
私は上から下までじっくりと村上くんを見回し、腕組みする。
「浴衣に帯刀も素敵に粋だけど、村上くんはメガネをお召しになっているので、大正浪漫に書生の方が最の高かと思って」
「そういうことじゃぁないんだよッ!!!」
かくして。
新たな萌えと不穏をひっさげて、波乱の夏合宿は幕を開けたのだった。
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