桃源郷に来た元不良は、后を手に入れる夢を見る

白雪花房

東へ

全てのはじまり

恐怖

「お、おい、どこへ行くんだ」

「逃げるんだよ。俺、もう知らねぇ」

「逃げるったって、どこへだよ。俺たち、迷ってるんだぞ」

「んなもん知るかよ」


 恐怖で思考回路がぐちゃぐちゃになる。

 夜の濁った空気が、死の臭いのように感じて、鳥肌が立つ。

 ドクンドクンと加速する鼓動が、死の宣告のようだった。


 森の中。

 不意になにかが視界を横切る。それは色や形というより、気配に近かった。元より、月光も差し込まない闇の中では、視界が利かない。

 それでも、分かる。なにかがいる。

 確信を持った瞬間、壊れた祠から禍々しい気配を放つなにかが、襲いかかってきた。


 とっさに目をつぶる。身をかがめた。頭上を影がすり抜け、後ろへと行った――ように感じた。


「うわあぁ」


 悲鳴が上がる。

 振り返った。足を止める。友人が見えない影にとらわれていた。助けを求めて、手を伸ばしている。


 俺はただ息を呑んだ。悲鳴を押し殺したような声を上げる。

 それだけしかできない。


 すぐさま踵を返して、前を向く。ただひたすら駆ける。自分が生き残ることだけを考えた。


 結論から言うと、俺は友人を見捨てたのだ。


 死にたくない。こんなところで人生に幕を下ろしたくない。

 無我夢中で暗い森を駆けた。敵の気配が消えても、息が切れても、足が疲れても、体を動かすことをやめなかった。


 だが、限界もやってくる。息も絶え絶えに足を止めて、顔を上げた。


 液体が滴る音を耳が拾う。遅れて、濃い鉄の臭いを嗅ぎ取る。嗅覚はすぐに麻痺して、なにも感じなくなった。


 そして視界に飛び込んだのは、圧倒的な赤色。大地が血に染まっていた。近くには獣たちが転がっている。液体の正体は彼らから流れたものだった。

 その中心に立つは、刃を持った男。その血に濡れた衣を見たとき、こちらの血が凍りつくかと思った。とにかく、ぞっとした。


 目が合う。そのなんの感情もなさそうな表情で、相手はこちらを見た。


「う、うわああああ」


 絶叫した。


 走った。ひたすらに走った。


 息が切れても、足がもつれても。体力がなくなっても、息が苦しくなっても。足がまったく動かなくなっても。

 体が壊れたとしても、走らなければならない。


 そうでないと、生き残れない。

 そうでないと、友人を見殺しにした意味がなくなる。


 だけどついには力尽きて、動けなくなった。地面の上に身を投げ出して、そのままいつまでもそうしていた。


 周りに見えるのはなにも変わらない光景。緑で覆われた空間。曲がりくねっていくつも分岐した、あぜ道ばかりだ。


 俺はここでついに死ぬのだろうか。そんな感覚が湧いた。


 土の匂いが鼻をつく。手のひらにじめっとした感触があった。だけど、心は妙に乾いている。

 なにもかも無駄なら、どうあがいても死ぬのなら、あがく意味もない。

 もちろん、生にしがみつきたい気持ちもある。そうしなければ、ここまで逃げてきた意味を失うからだ。


 最初から怨霊なんて、いなかった。だからここで死ぬことはないと、思わせてほしい。


 もうどうにでもなれ。

 目が覚めたときに全てが解決していることを祈ろう。

 やけになって、目を閉じた。

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