第七節
手術から3ヶ月。
順調に回復し、今日は経過観察で受診に来ていた。
大学病院に移ってから、ここへ来たのは初めてだった。
術後しばらく容態が安定せず、投薬を続けている間に随分と日が経ってしまった。
秋雨前線もすっかり姿を眩ませ、正午を過ぎた空は冷たく澄み渡っている。
病院は自宅からバスで一時間ほどの位置にあり、母は仕事場から直接病院に来るらしく現地集合することになっていた。
早めの行動が染み付いている僕は随分と早く着いてしまい、送迎レーン近くのベンチで座って時間を潰している。
誰かが僕の頭の上に手を置いた。
振り返ると、そこには私服姿の暮さんがいた。
「あれ?帰りですか?」
「うん。夜勤明けだから明後日までお休み」
暮さんが隣に腰掛けた。風でふわりと長い髪が広がる。
私服姿の暮さんはいつもの大人びた雰囲気とは違っていた。
就職して2年目の23歳だと聞いた時には首を傾げたものだが、今は歳相応に見える。
体調はどうか、運動はできているかと訊かれるのに苦笑しながら答えていると、暮さんの携帯が鳴った。
暮さんが僕に謝りながらトートバッグから携帯を取り出す。
手持ち無沙汰になった僕は周囲の様子を見渡し、暮さんのトートバッグに目を留めた。
六角柱に小さな穴が空いた、5センチほどのストラップ。
朱季が持っていたものとそっくりだった。
ただの骨折なのだからどうせ退院しているはずだと、僕は探すのを諦めていた。
会えるものなら会いたいが、それも叶わないだろう。
「そのおみくじ、前にも持ってる人に会ったんですよね」
携帯をしまった暮さんが僕の視線を追う。
「朱季ちゃんでしょ?」
僕は少し驚いた。同じ病院にいたのだから、知っていても不思議はないのだが。
「なんだ、知り合いだったんですか?」
「うん。それに、これ朱季ちゃんから貰ったものだから」
暮さんは指先でおみくじを転がしながらそう言った。
「あぁ、そうなんですね。朱季はもう完治しました?」
「・・・え?」
暮さんの表情が曇る。その様子に、僕の心臓が一度強く脈打つ。
「だって、足の骨折ですよね?」
その時の暮さんの顔を、僕は生涯忘れられないのではないかと思う。
驚愕と、悲哀と、焦燥を混ぜたような表情。
鈍い僕ですら只事ではないと分かる。
「そっか・・・。言ってなかったんだね」
「どういうことですか?言ってないって何を?退院してないんですか?」
焦りで捲し立てる僕を手で落ち着かせながら暮さんは語り出した。
朱季はALSという難病であること。
一部を除く全身の筋肉が弱り、やがては動くことも話すこともできなくなること。
朱季が骨折したのは本当だが、階段から転落したのは足が思うように動かせないのが原因だったこと。
ALSは治療法がないため、一度進行したらもう元には戻らないこと。
頭が追いつかなかった。考えたこともなかったのだ。
『随分とお気楽みたいだね。羨ましいよ』
『難病を患った人間の気持ちなんて君にはわからないかもしれないけどさ』
投げつけた言葉が返ってくる。朱季は不治の病だったのだ。
僕が考え無しに放った一言で、どれだけ深く傷つけてしまったことだろう。
心臓が早鐘のように脈打つ。呼吸が浅い。顔だけは血の気が引いたように寒い。
「君に渡しておきたいものがあるの」
暮さんはそう言って僕に紙袋を手渡した。
中身を出すと、そこには僕が破り捨てたノートとパンフレット、少し厚みのある封筒が入っていた。
「そのノート、朱季ちゃんが直してたんだよ」
弾かれたように顔を上げた僕を、暮さんはじっと見つめていた。
「あの子ね、君の為にずっとそれを直してた。君が転院したって聞いてもやめなかった。君がまたいつか写真を撮りたくなった時に使うだろうから、元通りにして自分の手で渡すんだって」
ノートのページをめくる。最初は綺麗にテープで繋がれていたのが、少しずつ乱れていく。
紙が重なり、テープが縒れ、所々読めなくなっていた。
「ALSは疲れるほど身体を使うと悪化するの。でも、朱季ちゃんはそれを分かって毎日ずっと直してた」
次第に動かなくなっていく手で、恐怖と闘いながら、僕の為に直していてくれたのだ。
酷い言葉を投げつけた僕の為に。
ゆっくりとページをめくっていると、違和感で手が止まった。
徐々に乱れていった紙面が突然綺麗になっている。
その意味を悟ったとき、僕は凍りついた。
最後の数ページは朱季が直したわけではない。それはつまり、続けられなくなったということではないか。
あるいは途中で諦めたか。それならまだいい。むしろそうであって欲しい。
たとえ朱季が僕に渡すことを諦めたとしても、少しでも元気でいてくれたなら。
「ねぇ、暮さん」
声が震える。この違和感の意味を知ってしまったら、僕は後悔するかもしれない。
それでも訊かずにはいられなかった。
「...そこから先とパンフレットは私が直したよ」
暮さんも僕の意図を察しているようだった。
「朱季ちゃんはね、もう...」
言い淀んだその先を、僕は息を殺して待っていた。耳を塞いでしまいたいほど怖かった。
「もう、ほとんど指を動かせないから」
左胸に痛みが走る。発作とは違う、身を貫くような痛みだった。
暮さん曰く、僕が転院して暫く経った頃から朱季は毎日のように泣いていたそうだ。
病状の進行が怖いわけではなかった。
修繕していくにつれて動かなくなっていく手では、どれだけ必死になったとしても継ぎ目が乱れてしまう。
焦りとは裏腹に手の震えが悪化していく。このままでは最後まで直すことができない。
朱季はそう言って泣いていた。
医師が病状の悪化を懸念して止めさせようとノートを取り上げたとき、朱季は普段の姿からは想像できないほどの剣幕で猛った。
どうして僕のためにそこまで出来たのか。どうして他の誰でもない僕だったのか。
植物学者になりたいと、そう言っていたのに。
「暮さん。朱季の病室、どこ?」
「...東棟の532号室」
聞いた途端、僕は思わず走り出していた。
エレベーターを待つのももどかしく、横の階段を駆け上がる。
人にぶつかりそうになり、勢い余って壁に身体を打ち付けた。痛みも気にせず踵を鳴らす。
訊きたいことは山ほどあった。それ以上に、声が聞きたかった。ただ会いたかった。
朱季の病室があるフロアに着いた。もう目前だ。
ふらふらと足を動かし続け、最後の曲がり角を曲がったとき、足が絡まり倒れ込んだ。
紙袋が手から離れ、中から封筒が飛び出す。封筒に入っていた写真が散乱した。
膝を強く打ち付けて立ち上がれず、思わず呻き声をあげた。
ふと、一枚の写真に目が留まる。
それは朱季がインスタントカメラで最初に撮ったツーショットだった。
満面の笑みの朱季と、無表情にレンズを見る僕。
ゆっくりと命を蝕まれていく少女と、助かってしまった少年。
他の写真を拾い上げる。
屋上からの景色。僕のいた病室。棚に積み上げた小説。一緒に頬張ったクッキー。
全て僕のために撮ったものだった。朱季は僕が生き永らえるまでの軌跡を写していた。
「好きに使っていいって言ったじゃないか...」
震える手で写真を封筒の中へ戻し、膝の痛みを堪えて立ち上がる。
視線の先には532と書かれた病室があった。
ゆっくりと近付いていく。距離が縮まるほど足が重くなる。
扉の前に着いた。中からは何も聞こえない。
僕は立ち竦んだまま名前の書かれたプレートを見つめていた。
この扉の向こうに朱季がいる。
写真に写る姿とはもう違うかもしれない。それを目の当たりにするのが怖かった。
扉の取手に手をかけた。震える腕をもう片方の手で押さえる。
目を閉じ、何度も深呼吸を繰り返す。
こんなとき朱季はどうするだろうか。
迷わず扉を開き、笑顔で寄り添い、心を通わせられるまでじっと待つのだろう。
快活で、寂しがりで、真っ直ぐで。そんな朱季に僕は魅せられた。
たとえどんな姿だろうと構わない。
きっと朱季のように上手くはできないだろう。
それでも、今度は僕の番だ。
君の名前に似た季節を迎えられることを、誰より君に伝えるために。
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