山咋カワズ

『蛙』

 ふと目を覚ますと、一匹のでっぷりと太った蝦蟇が、目の前にある机の上でゲコゲコと喉を鳴らしていた。露店で売っている食用ガエルよりも一まわり二まわりは大きく、ずっしりとした重さによって、その垂れた肉が机に沈み込んでいるように錯覚する。そんな立派な、ふてぶてしく無感動な蝦蟇だ。

 煤けた窓から、卓上に暗い陽が差し込む。どこかの学校の一室とおぼしきこの部屋は凍えたように静まり、私と蝦蟇を除いて、ただ一つの命も存在していないようだった。

 霞みがかかったような意識が、これが夢であると告げていた。その証拠に、瞳を動かさずともこの部屋にある埃一片の動きさえも知覚できるというのに、己の肉体については動かすどころか僅かの考えを巡らすことすらままならない。そもそも周りを見渡す『瞳』というものが、今の自分にあるのかも判然としない。物質的な瞳を有する肉体と私の視点は、同じ座標に存在しながらも完全に切り離されていた。

 状況に対する納得と同時に、私は異国の活動写真でも見ているかのような気持ちになって、どこか超越とした視点でこの奇妙な事態を眺め始めていた。不思議なことに、現実世界において私が常日頃抱いているような矮小な猜疑心は、夢の世界ではその姿を現すことがなかった。

そう、『なかった』という夢の結末に至るまで、私は知っている。だというのに、私は今もこの夢を見続けている。活動写真館のように暗く閉じた幻想の匣で、時間は排水溝へと飲み込まれる水流のようにぐるぐると同じ場所を巡っているかのよう。そんな虚無すらも、私は観覧席から俯瞰して眺めている……。

 そんな奇妙な物見を始めて、半時間ほどが過ぎた頃だった。私の肉体はおもむろに蝦蟇の両脚をつかみ、痛いほどに冷え切った机の上部に、その頭部を叩きつけた。

 これから彼が行う行為においては、蝦蟇の意識があっては甚だ不都合であったためであろう。蝦蟇は抵抗の素振りを欠片も見せず、濁った空気を吐き出すかのように一つ鳴き、じっと何かを見据えたままその意識を深淵へと落とした。

 肉体は着物の懐から一本のメスを取り出し、僅かに湿った蝦蟇の身体にそれを深く差し込んだ。私は生まれてこの方、虫の一匹も意識して殺せなかったというのに。肉体のそれは、まるで何べんも同じ工程を繰り返してきた老齢の職人のようであった。

だらりと弛緩した蝦蟇の腹をこじ開けるように切り開く。そのどろどろとした厚い皮の内には、彼岸花のように真っ赤に染まった臓腑がみちみちと詰まっていた。

 初めに一ばん大きな腸を引っ張り出し、付随してきた他の臓器を切り離す。内に詰まっているであろう汚物からは想像もつかぬほどにその色は美しく、朦朧とする意識に柔らかな芙蓉の花をよぎらせた。

 一しきり眺めた後、腸を机の隅にそっと置き、他の臓器を切り離しにかかる。

 腎臓、すい臓、肺などの目に付く臓器を全て切り取り、最後にその心臓を取り出した。一つの命を有しているかのように蠢くその部位は、宿主の意識が失われた今も懸命に血液を送り出そうとしており、その熱はじわりと、幻肢痛のように手のひらに染みた。

 臓腑をすべて取り除いた後は、内に残る赤い花びらのような血管や血片をメスでこそぎ取った。心臓を取り出してからもうかなりの時間が経過しているというのに、ぽろぽろと落ちるそれらの屑さえも僅かな熱を帯びて、まだ温かいようであった。

 全ての作業が終わり、がらんどうになった蝦蟇の肉体をじっと見つめる。赤黒い肉の内には暗鬱とした闇が広がるばかりであり、一見する限りではもう何も残っていないように思える。しかし僅かばかり鼻に神経を巡らせると、そこに籠った生臭い血の匂いに微かな他の臭気が混じるのを感じた。

 その正体を探ろうと、肉体は更に顔を近づけようとする。すると微かな腐臭と、ジャコウのような甘い香りが混ざり合って、肉体のものだけではなく私自身の鼻孔をくすぐった。

その香りをさらに吸い込もうと、肉体が蝦蟇の亡骸へと鼻頭を寄せる。すると突如蝦蟇の皮が動き出し、内側で見る私ごと、肉体の顔をぐるりと呑み込んだ。

 視界が赤黒い液体に満たされ、肉体と私は混じり合い一つの混沌の塊となった。目の前を無数の螺旋がぐるりぐるりと廻っている。安らかな温もりに溺れるような感覚と共に、私の意識は深い暗闇に溶け込んでいった。


 首を絞められるかのような息苦しさから、飛び跳ねるように体を起こすと、そこは自身のよく知る四畳半の自室であった。

 部屋は暗闇に包まれており、人や動物に類する気配は何も感じない。周囲をぐるりと見渡しても、暗鬱とした闇の中にぼんやりと仕事用の机と座椅子が浮かぶばかりであった。 

 冬至を過ぎ、年の瀬を目前に据えた世間の忙しさをこの部屋から感じ取ることは不可能だった。その鬱蒼とした有様は、世の人に何処かの独房を彷彿とさせるものであった。

 息も絶え絶えの中、すかさず自身の顔に手を伸ばす。震える手のひらで顔中をくまなく撫でまわすが、既にそこには何の異常も存在していなかった。全身をぐっしょりと濡らしている汗が水糊のように指の隙間に染み込み、彼はそこで初めて肉体の存在を知覚することができた。どこか茫漠とした安堵とともに、先ほどの夢で見た光景が頭をよぎる。全身を恐怖が包み込み、ぶるりとする震えと共に足の先から体温が抜け去った。

 彼は自らの内から噴き出る恐怖に目を背けるかのように、自身が先ほどまで身を預けていた皺くちゃの煎餅布団に倒れこんだ。黴と樟脳の匂いが辺りに噴き上がる。その冷え切った匂いが、彼に一時の思考を行うだけの冷静さを授けた。

 一体どのような心理があんな夢を見せたのだろうか。未だ暗く、ぼんやりとした意識の中で思う。寝巻から突き出た脚の冷たさに身をよじらせ、手の開閉を幾度繰り返しても、未だ肉体が自身の意思下にあるという現実を本当のものと確信できないようであった。

「酒と催眠薬を、飲みすぎたんだ……」誰もいないはずの暗闇に向かって、彼は語り掛けるように独り言ちた。

 零れ落ちた言葉に、納得の響きは無かった。だが、彼にはもはやその言葉に寄り縋るしか無いようであった。意識は繰り返される取り留めのない思考で疲れ切っており、先ほど見た夢の記憶は、もはや思索の彼方に消え去っていた。

 窓の隙間から凍った空気が入り込み、彼の剝き出しの頬を切りつける。しかし、彼は次第にその痛みすらも忘れたようであった。感覚に限らず、肉体も、意識も、人性の全てすらも、この時だけは、全てを捨て去ったような心地であった。

 夜の帳が深い闇に閉じる。今度は、夢を見なかった。


 半分ほど日が昇った頃、矢島はふいにその目を開いた。そのまま身じろぎを繰り返し、鉛のように重たい筋肉を布団に押し込むようにしてほぐす。するとようやく、おぼろげながらもその意識が目を覚まし始めた。

 全身をよじるようにして、汗ばんだ体に貼りつく蒲団を引きはがす。濡れた寝巻に冬の空気が落ちる。そのままゆっくりと体を起こすと、一つ大きな呼吸をした。朝方に積もったのであろう雪のにおいを取り込んだ空気は、長い眠りで火照った身体によく染みた。

 ふと仕事机の方に目をやる。机の周りには、彼が先日まで取りかかっていた原稿用紙が散乱していた。それは、ある学生と資産家の令嬢がピストルで情死した事件をドラマティックに記した、新聞用のゴシップ記事であった。

 未だ不明瞭な意識で肉体を引き摺り、それを拾い集める。そしてその全てを集め終わると、机の上に鎮座する凍ったようなインク瓶の下にそれを差し込んだ。瓶の底に染み付いていたインクがべっとりとついたが、もはや自分の書いた筈の文章に対する興味は、めっきりと無くなってしまっていた。

 矢島は突如、何か致命的なものを想起したかのような表情を浮かべ、布団の脇に転がっていたカルモチンの瓶に手を伸ばそうとした。それはある種の反射に基づいた行動であったが、一瞬の躊躇いの後に、その手は机の上にある仁丹の瓶に向けられた。

 適当な数の銀色の粒を一息に噛み砕くと、その歯茎に染み入るかのような薬臭さが鼻に抜けて、腹の底に溜まっていた古い空気の悪臭が和らぐ。ここでようやく、矢島は自分が耐えがたい空腹であることに気が付いた。それが何かどうにも奇妙なことのように思えて、一瞬の自嘲を含んだ笑いでその感覚を誤魔化す。

 どうやら腹の具合はそこまで悪くないようである。そそくさと外行きの着物に着替えて羽織を被ると、全身の感覚を一つ一つ確かめるような足取りで、矢島は玄関口へと歩き出した。


 山の手を西の方に向かった処に、路面電車の交差点となっている幅の広い十字路がある。その十字路の間に建つ家々の隙間を抜けると、一筋の細く伸びた坂道がある。それを10分ほど下ったところに構えている神社を右に曲がり、立ち並ぶ露店の間を潜り抜けると、真新しい、ついこの間建てられたばかりのような店構えの鰻屋が建っている。まだ木目が明るい千本格子の真中に入り口を開けて、藍地の暖簾が掛けてある。暖簾には力強い字で白く、「昭和軒」と染め出されている。

 「昭和軒」は今代で三代目になる老舗の鰻屋だ。一口に鰻屋といってもその品ぞろえは豊富で、鯉やどじょう、すっぽんなどの河から獲れるものなら何でも調理して出している、昔ながらの江戸気質な食事処である。その店名も、元々は先代の付けたいかにも江戸前な名前であったのだが、6年前の大地震で焼けてしまった店を建て直す際に、3代目の店主がなるべく縁起が良さそうな名前にしようと目論んで、改号したばかりの昭和を取ってそのまま屋号としたのだ。何千匹も捌いてきた河に住まう生き物の血を吸い尽くしているかのような、粘り強いたくましさを持つ店だった。

 昭和軒に限らず、件の大災害はこの街の全てを一変させた。家や職場が焼け崩れ、炎に追い立てられた人々は荒れ狂う暴力の渦に飲み込まれた。しかし、彼らはその奔流に足を取られながらも歩みを止めなかった。それが実際には抗うことがままならない濁流の中であったとしても、復興の道は絶えず明るいものであった。罹災者は余燼の中から新たな生の道筋を見出し、今日の東京には既に新たな街並みが揃っていた。

 そうして、未曽有の災害で失われたものは一つの歴史となったのである。それはある輝かしい出立であった一方で、人々の内に秘められていた、茫漠とした将来に対する鬱蒼とした不安を呼び起こすものであった。

 そのような時世において、「昭和」という二文字には、何か鬱蒼とした空気を打ち破るかのような、黎明とした印象を与える効果があったのかもしれない。それもあってか、昭和亭の狭苦しい店内にはいつも学生やら文士やらがひしめき合っており、その賑わいは冬至を過ぎた今でも変わることがなかった。

 矢島は数年前からこの店に通っているが、そこに至るまでの道のりは未だに不慣れであった。露店に挟まれている道は細長く、たいていの場合そこは人混みでみっちりと栓がされている。

 人の波の隙間を潜って、むせかえるような人の匂いに顔をしかめながら昭和亭の暖簾をくぐる。すると、焼けた醤油の香りが乗った生暖かい煙が、自身を挟んで外気と入れ替わるのを肌で感じた。

 生臭い空気に混ざり、幾つかの視線が臆病な身体に染みる。それに呼応するように、眼球のみを動かして店内をぐるりと見渡した。

 昼時をちょうど過ぎたばかりだからか、どうやら客の入りは勢いを減らしているところであった。店員がせわしなく動いているのを横目で見ると、矢島は手近なテーブル席の椅子を音を立てぬように引いて、臆病さを押し殺すように強張りながら腰を下ろした。

「あら、矢島さん。お久しぶりね」

 ぼんやりとしていたところに声を掛けられて、置き場所に悩んでいた目線を急いで声の方に向ける。声の主は、注文を取りにやってきた給仕の娘であった。

「ああ、うん、どうも」と、かすれた声で返事を返す。

 その親しげな声音を受けて、娘についての思い出を靄のかかった記憶の中に探す。そういえば、以前この店に来た時に、この給仕とは幾らか話したことがあった。その時に、記事の載った新聞を見せてやったこともあったような気もする。名前は、そう、とみ子だったか。

 呆けたような様子で眺める矢島を、とみ子は若干訝しむような眼で見つめた。しかしすぐに調子を取り戻して、「ご注文は?」と跳ねるような声で言った。

「それじゃあ、うなぎと……。骨を、一人前」

 とみ子は「ハーイ」と、大きな声で返事を返すと、着物の裾をパタパタと振りながら、煙の立ち込める厨房の奥へと姿を消していった。

 大した間を置かず、目の前に湯気の立った白湯と骨煎餅が差し出される。それをぽりぽりと齧りながらやり場の無い視線を宙に泳がせると、店の端のテーブルにたむろする学生の集団がふと目に付いた。

 集まった青年たちは、テーブルの中心にある何かの鍋をつついては、取り出した骨をしゃぶって、机の隅の方に置かれたガラ入れの壺に吐き出している。マルクス主義やらプロレタリアートやらなにやらと繰り返し聞こえることから、鍋を囲んだ文芸議論に興じているようである。

 それは傍から見ると、鍋に話しかけているのか、人に話しかけているのか、一向にわからぬような有様であった。あるいは、鍋の底にいる何者かとの対話なのかも知れない。あるいは、鍋から跳ね返ってくる声に耳を澄ませ、自らに向けてその論説の正しさを復唱しているのかも知れない。そこまで考えると、なんだかその様子が生命力を浪費して灯す生々しい色のランプのように見えてきた。目を伏せ、口腔内をザラザラと傷つける骨片の感触に意識を集中させる。

『おれは、何故ここにいるのだろう』

 学生の声、雑然とした調理場の音、店中に満ちた醤油の焦げる臭い。それら全てが自分というものの全てを非難し、拒絶しているかのように思えた。口の中に残る骨の滓がざらざらと舌に刺さる。すっかりぬるくなった水で流そうとすると、それが黒焼きを磨り潰した粉薬のように喉に貼りついて、行き場のない不快感がさらに増す。

『何で鰻なんか頼んでしまったんだ。どこか適当な露店で饅頭の一つでも買えば、それで空腹なんかどうとでもなっただろうに』

 周囲の熱気を吸い込んだ臭気が、黒くぬたぬたとした情念となって彼に巻き付いている。それは机に置いた腕から這い上がって来て、生ぬるい両生類のように顔をぺたぺたと這い回る。そのうちに鼻や、耳や、色んな所の毛穴から、べっとりとした悪臭が皮脂に混じって体内に溶け込んでゆく……。熱を持った意識がゆらぐ。肺まで浸食されて、息が詰まる。

 できることなら、今すぐにでもこの場から立ち去ってしまいたかった。空腹を癒すために頼んだはずの鰻は、もはや彼にとっては一種の呪詛でしかない。しかし本人の意識とは裏腹に、空腹は絶えず彼の肉体を蝕んでいることは明らかであった。

 常ならば働き盛りであるはずの彼の肉体はウイスキーと催眠薬でやせ細っており、健全さの面影は、その陰のある鋭い眼差しの端に僅かに残すのみであった。

 それに加えて、空腹による血色の悪さとみすぼらしい着物が容貌をより惨めなものに貶めている。その風貌は、道行く人にある種の病的なものを連想させるに容易かったが、それと同時に、どこか俗世から離れた人間にも似た雰囲気を纏わせていた。しかし、その表情の影に深く染み付いた自他に対する皮肉と嘲笑の色は人々に好感を抱かせるようなものでは無かった。真っ当な人間的魅力を欠いた彼の様相は、そこに座っているということすらもどこか希薄に感じさせた。

 そうして数分が経ち、ゴトリという乾いた音を立てて矢島の目の前に大きなどんぶりが置かれた。嫌気がさしながらも、観念したかのように蓋を開けると、その内より飛び出したひときわ熱を持った湯気が顔にかかった。ゆっくりと箸を差し込んで、適当な量の鰻の身を切り取って米と一緒に口に運ぶ。

箸で切り取ったその皮と身は膿んだ肉のような食感となって口の中で溶け、味はまるで鉛筆の先を舐めたときのように感じられた。ただ、それに含まれる滋養を取り込まねばならぬという肉体の本能のみが、彼に一連の流れを淡々と、淡々と繰り返させる。

「そんな不味そうにうちの鰻を食べる人、初めて見ました」そう言って空になった器を眺めながら、先ほどの女中が目の前の席に着いた。

 手に持ったお盆にはまかないらしき沢庵の置かれた米と味噌汁が乗っている。見れば周囲の客はすっかりと捌けており、店の中に籠っていた慌ただしい空気は消えていた。気が付けば随分と長く飯を食っていたらしい。店の者もこの合間に食事を採る腹積もりであるようで、適当な席に座って黙々と飯を食う姿がちらちらと視界の隅に写った。

「不味いなんてことは無いよ。ただ、ちょっと腹の具合が良くなくてね」バツが悪そうな顔を作りながら矢島は呟いた。

「腹が悪いのに飯屋に来るなんて、やっぱり変な人」沢庵をパリパリと鳴らしながら、少し意地の悪そうな笑みを見せて女中は言った。

 話しかけられたのだからいきなり席を立つわけにもいかず、手持ちぶさたになった矢島は、テキパキとした動作で米と味噌汁を交互に食べ続けている目の前の少女の姿をじっと眺めてみた。滑らかに通っている目鼻立ちには、飯屋の女中に似合わぬ知性を感じさせる美しさがあった。特に、その高くなだらかな形をした鼻は、少女らしからぬ異国風の色気を有していた。しかしほのかな赤みを帯びた頬と、整っていながらも丸みのある顔立ちは、未だ彼女が少女と女の境目に立つくらいの年齢であるということをつぶさに示している。その身に纏う赤と白の絣模様をした銘仙が、この娘の溌剌とした可愛らしさをそのまま表現しているかのようであった。

 飯を食う姿を見ていると、ふとした拍子にこちらをちらりと見る眼差しと度々視線がぶつかった。いい加減こちらから話しかけてみるかと思い始めたところ、決心した様子で女中が口を開いた。

「矢島さんって、新聞記者をしていらっしゃるんでしょう」

「あぁ、まあ」

「記者の方ってもっと、お喋りなのだと思ってましたわ。矢島さんったら、初めて話したときに記事を見せてもらって以来、ろくに話しかけてもくれないんですもの」

「咄家じゃないんだから、そんなことないさ。必要なときに、必要な分だけ話すもんだよ」

「あら、そんなこと言う」少しむくれた顔でとみ子は言った。すぐに彼女の聞きちがいには思いあたったが、その様子がなんだかおかしくて、思わず口の端に漏れた笑みもそのままにした。それを見たとみ子がはにかんだような笑顔を浮かべると、そこでようやく、二人の間にあたたかな血の通った雰囲気が流れ出したように感じられた。

「良かったわ。ひょっとしたら、怖い人なのかも知らないなんて思ってたから」

「良かったって?」

「前からもっとお話を聞きたいと思っていたんです。記者の方って、世の中の事なら何でも知っているんでしょう?」

「僕らが知っていることなんか皆が知っているよ。それをまるで、誰も知らない事みたいに書くだけさ」

「いやですわ。そんなこと言って」

「本当だよ。新聞に載ってることなんか、大抵は町のひとの噂話さ。君みたいな飯屋の女中や、下手すりゃ豆腐売りなんかの方がよっぽど物知りだよ」

 ただ、と付け足して矢島は述べる。

「世間は物知りだけど、そんな自分たちが話してる事やその様子についてはあまりよく考えて、観察しようとは思わないのさ。自分や他人が何をして、まわりに何が起きているのかなんて考えていたら疲れて仕方がないだろう? その事で言い争いが起きたり、将来について現実味を持って考えてしまったりしたらもっと大変だ。だから新聞記者ってのはそのうわさ話を戯画化してしまって、どこか遠い、自分の世界の外側で起きた出来事みたいに外面を整えるのが仕事なんだよ」

 ここまで話して、矢島は自分が饒舌になってしまっていることにようやく気が付いた。ハッとして正面に座る千代の顔を見つめてみると、彼女は人懐っこい微笑みを浮かべながら、何か興味深いものを見るようなまなざしで矢島をじろじろと眺めていた。その様子に矢島が一瞬たじろぐと、千代はその笑みをより一層深くして、くすくすと笑いながら、口元を着物の裾で隠した。

「……?」

 ふと、何か違和があるように感じて矢島は眉をひそめた。けれど直後に女中が快活に笑ったので、矢島は自分の裡にぞわりと浮かんだ悪寒を、常日頃と同じように見て見ぬ振りすることにした。

「やだ、もう。意気地が悪いですわ。矢島さん、前に新聞の記事を見せてくれた時もあまりお喋りにならなかったけど、意外と饒舌な方でいらしたのね」

「いや……君が話をさせるのが上手いだけだよ。今日だって本当は、もっと憂鬱な気分だったんだ。こんなに勢いづいて話すとは、自分でも思わなかった」

「憂鬱って?」

「少し変な夢を見ただけだよ。良くある話さ。もうどんな夢だったかは覚えていないけれど、まあこの時期だと、ちょっと陰気な夢を見るくらい誰にでもあるだろう」

「ああ、私も女学校に通っていたころから、この時期になるとそんな夢を見ました。大抵の夢は最近に見た芝居や授業の内容ですけれど。こんな時季は、このお店ばかりが夢に出て来たような気がします」

 後半に行くにつれて、正面の矢島にしか聞こえないほどに声を小さくしながら、しかしはっきりと文子は呟いた。

 矢島は、自らの胸の底から、泥混じりの汚水がぐるぐると湧き上がってくるように感じられた。ヘドロの発酵した熱が渦巻くような疑念が、不快感の泡を吐き出しながら喉元に迫る。その嫌悪ごと右手で胸を押さえつけながら、やっとの思いで言葉を返す。

「……君はこの店の娘だろう。なのにここで将来働くのが、そんな嫌だったのかい」

「男が買い出しや料理場を受け持って、女が雑事をやりながら帳場を守るのが、この店の代々の習わしなんです。祖母や母もそうやって過ごしてきたから、私もそうしているだけですわ」

 だってここは、まるで薄暗い牢屋みたいですもの。彼女はわざとらしく、ツンと鼻を立てながらそう呟いた。

無邪気なその仕草を見て、矢島は薄っすらと微笑む。けれどふと気を緩めたその瞬間、矢島の瞳の裡に、奇妙な既視感が浮かんだ。胸の底から湧き出してくる汚泥の悪臭が口の端から溢れるのを感じながら、噛み合わぬ歯の隙間から言葉を漏らす。

「君は……誰なんだ?」

 口をついて出たのは、矢島自身にも意味がわからない疑問であった。

 矢島の発言に訝しげな表情を浮かべる文子の顔に、彼女によく似た無数の娘の姿が浮かんでいる。その誰もが、きめ細やかな肌が張り裂けんばかりの生命力をその身に宿らせて、うなぎ屋の女中の格好でここに座っている。その誰もが、受け継いできた店への恨み言を呟きながらも、確かな愛情の秘められた視線を店内へと向けている。

 そもそもなぜ、自分はこの昭和亭に通うようになったのか。思い返してみれば、それは新聞に描くネタ探しで訪れたのがきっかけではなかったか。その時にいた女中は、どんな顔をしていただろう。どんな名前だったろう。あるいは、目の前の娘のような――。

矢島の胸の底が苛ついて、店内に満ちた煙とともに言い知れぬ嫌悪感が体中にべたべたと纏わり付く。その不快な感覚から逃れるようにして、勢いよく席を立ちあがった。

「あら、もうお行きになるの?」

「午後からの、取材があるんだ」もはや何者やも知れぬ女中に向けて、独り言のように呟く。そして使い古した財布から鰻の代金を取り出して、卓上へと乱雑に置いた。それを掌の上に並べて数える娘を尻目に、逃げるように店を出る。

『馬鹿か。まるであの店から、逃げるみたいじゃないか』

 急かされるように早足で人混みをくぐり抜けていると、怖気と羞恥が混ざりあった汗が矢島の背筋を伝った。

 本当はわかっている。事実、矢島は逃げたのだ。女中から、あの女中の裡に秘められた、その祖母や母から脈々とその川筋を保ってきたのであろう、いのちの源流に怯えたのだ。

『やっぱり、鰻なんて喰いに来るんじゃなかった』

 あの生臭い粘液が胃袋の内から漏れだして、乾ききった肌の表面をずるりずるりと撫でているように感じられた。人ごみの間を、岩の隙間に潜る様にくぐり抜けながら焦燥する。早足で通りすがる民家の隙間から、何か湿った臭いを纏う視線が覗いているような気がした。

 何も、鰻の味そのものが嫌いという訳ではない。むしろ学生だった時分には嬉々として食べて、階級意識の意義だの何だのについて熱を持って語っていたような気もする。

『いや、だからこそ、俺は鰻なんてものが嫌いなんだ』

 人混みの合間で目を細めて、生まれ育った街の、見知らぬ街並みを眺める。行き交う人の顔は誰もが生命力に満ちていて、その活力は年末の冷えた空気に湯気となって浮かんでいる。人の波は絶えず新しい熱気を運び込み、死人のような顔をしている男の顔などに目を遣ることもなく、誰もが何処かに向かってゆく。仕事道具を抱えた畳屋の男、分厚いコートを着込んだ学生、腰が半ばから直角に折れ曲がってしまっている老婆ですら、その視線の先に何かを捉え乍ら歩んでいる。

 そんな人でできた河の流れで、矢島だけが行き場を持たなかった。言い訳に使った取材の用事などは存在せず、そもそも勤め先の新聞社にはもう三か月近くも顔を出していない。向かう先と言えば、あの座敷牢のような埃に塗れた部屋だけだろう。けれども胃の中に満ちた鰻が、とうに枯れ果てた活力を無理やりに振り絞ろうとする――。

 胃の中からあの黒い粘液の塊が這い上がってくるように思えて、思わず吐きそうになる。その酸っぱい感覚を喉元で押さえながら、よろよろと前のめりになりながら、ただ、歩く。

 一筋の北風が通りすぎる間に、矢島の姿は人混みの中に掻き消えた。霞の様に消え去ったその姿を捉えた者は、何処にもいなかった。

 僅かな空白の後、濁流の様に押し寄せる年末の喧騒が、男の存在全てを流し去った。

 人の流れは留まることなく進む。一刻一秒を惜しんで、生ける者は茫漠とした視線の彼方へとただ歩く。滔々と流れる時の中では、死人だけが過去に遺される。

 後に残ったのは冷たい虚空。そして水底を蠢く、留まる事の無い人の群れ。

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