第44話 アダムのスケッチブック

 マーカブラ――不気味な・・・・ホテル。

 いったい誰がどんな心境で命名したのかは知らないが、随分とセンスのないネーミングだとルカは思った。もし自分が支配人なら、わざわざ『不気味な』なんて不安を煽るような形容詞を選んだりはしないだろう。

 そのような偏見を、及び腰になっているアダムも強く感じていたらしい。このホテルの支配人ジーノ・トワイニングが口にした“最後の宿泊客”という言葉が、さも恐ろしい物語の幕開けのように聞こえたらしく、本人に見えない方向に顔を背け、うへぇ、と舌を出した。


「ここマーカブラホテルは、本日をもって閉館いたします」

「閉館?」


 アダムが眉をひそめて繰り返した。


「ええ。最後の宿泊客というのは、そういう意味でございます」

「なるほど……」


 どおりで人気ひとけがないわけである。


「どうして閉館になっちゃうの?」

「バカ、ニノン」


 頷くだけにとどまっていた一同の空気を少女がぶち壊す。アダムが小さな声で叱責すると、ジーノは喉で笑いをくぐもらせながら「かまいませんよ」と言った。


「旧街道はやがて人の通らぬ野道になる――新街道が通ったころから、いずれこうなることはわかっていたのです」


 いまや砂塵も立たない道沿いに立つこの建物も、かつてはたいへんな賑わいを見せた一等級ホテルだったという。


「需要がなければ廃れるのは自然の摂理……。これは、時代の波に乗ることのできなかった者の末路なのでございます」


 ジーノは一寸の未練も見せず、淡々と語った。雷はいまだどこかでゴロゴロと喉を鳴らしている。


「やっぱり、間違えて旧街道を進んでたのか」


 アダムはばつが悪そうに頬を掻いた。


「このホテルに来客など珍しいとは思っておりましたが、道に迷われたのでございますか?」

「ああ、まぁ。そんなとこ」


 コルシカ島には南北を繋ぐ大きな街道が存在する。南は〈ボニファシオ〉という街にはじまり、中央に位置する町〈コルテ〉を境にY字の形に分岐する。それらは左右に北上し、各々が北の港町〈カルヴィ〉と〈バスティア〉に通じている。

 南方面からコルテに向かう区間で工事が行われたのは何十年も前のことだ。逆に今まで経営を続けてこれたことが不思議なくらいだった。隆起の激しい山々がそびえるコルシカ島では、車や列車は必要不可欠な移動手段であり、道に沿って興廃が起こるのは当然のことなのだ。


「さぁ、立ち話もなんですから。まずはお部屋でシャワーでも浴びて、ごゆっくりされてはいかがでしょう」

「そうだね。大雨で全身びっしょりだよ」


 ニコラスは随分と濃いピンクに変わってしまった己のシャツをつまみ上げた。したたる水滴が、床の絨毯にしみを作る。


「お部屋まではメイドのヴァネッサがご案内いたします。みなさま、最後の夜を存分にお楽しみください――」



 ジーノ・トワイニングの計らいにより、各々にはスイートクラスの客室が一つずつ用意された。

 にもかかわらず、アダムは「無償タダでそんな恩は受けられない」とか「四つも部屋を占拠するのは気がひける」などと至極妥当なことを述べているように振る舞って、その申し出を断った。

 普段からケチ臭い彼らしからぬ発言である。なにを今さら遠慮しているのだろうか。と、ルカが前方をゆく背中に珍しい生き物を見るような眼差しを向けていると、ニコラスがワケ知り顔でぽつりと呟いた。


「アダムちゃん、一人で寝るのが怖いのね」

「はあー? ちげえし」


 アダムは声を尖らせる。

 だがニノンはそれを無視して、「へー、そうなんだ」と勝手に話を進める。


「もしかしてアダム、暗いところが苦手なの? あっ、幽霊の噂を信じてるのもコワ……」

「怖くねーわ!」


 アダムはついにぐるんと首を回し、三人に向かってガンを飛ばした。威嚇している犬に似ている、とルカは場違いな感想を抱く。

 レヴィの丸太小屋でルカと共に暮らしてきた愛犬レオも、時おりこんな風に反抗してきたことがあった。懐かしい記憶が過ぎって、ルカの口から思わず笑みが零れる。


「おいこらルカ」

「え」


 はたと立ち止まったアダムは、頬をぴくりと痙攣させながら手をゆらゆら伸ばす。


「うわ、待った。違うって」

「待たねえ! 笑っただろ、今!」


 暗い廊下を走り回っているうちに、どうやら今日泊まる部屋に到着したようだ。


「お客様。どうぞこちらへ」


 ヴァネッサは静かに扉を開いて四人を招き入れる。

 案内された部屋は、今まで目にしたどの客室よりも大きくて豪勢だった。向かって右側の壁際には、キングサイズ二つ分はあるであろう規格外のベッドがどっしりと置かれている。その対面に、同じように巨大なクローゼット――きっと四人が持っているすべての服を詰め込んでも、スペースの半分さえ埋められないだろう――が鎮座している。

 奥の壁際には高級そうなビロードのソファと、重厚なコーヒーテーブルがある。壁にかかったいくつもの額縁には、やはり中身がなかった。


「お食事のご用意ができましたらお呼びいたします。それまではどうぞ、ごゆっくりとおくつろぎください」


 相変わらず抑揚のない声でヴァネッサはそう告げる。彼女は一度もにこりとしないまま、ついぞ薄暗い廊下の中へ消えていった。


 *


「ルカ、また修復してんのか?」


 オレンジ色の髪の毛をタオルでがしがしと拭きながら、アダムがバスルームから出てきた。


「うん」


 ベッドの上で背を丸めながら、ルカは顔も上げずに相槌を打つ。


「ずいぶん綺麗になったよ」


 白金の乙女――膝元に置かれた絵画の一部を、ルカは慈しむように撫でた。

 黄ばんだニスや埃で濁った色彩は、ルカが綿棒で地道に洗浄を施したことで本来の姿を取り戻しつつある。淡い色の柔らかなワンピースに身を包んだ少女の肌は、かつて古い油の色をしていたが、いまや真珠のように白く輝いている。アルカンシェルの団長・ウィグルから譲り受けたときの悲惨な状態を思い出すたび、ルカはこの絵画に庇護欲のようなものを掻き立てられる。

 今日の作業の出来栄えをじっくり確かめていたら、いきなりベッドにアダムがダイブしてきた。反動で浮わついた絵画を慌てて手繰り寄せ、ルカは非難の視線をさっと向ける。


「そういやさ、俺気になってたんだけど。ニノン、あれから記憶はどうなってんだよ。なにか思い出せたのか?」


 あれから、というのはおそらく彼がニノンに出会ったころのことを指しているのだろう。

 ドレッサーの前で髪を梳かしていたニノンはふとその手を止めた。


「あ、えっとね。実はちょっとずつ思い出してて。夢を見たり、なにかの拍子にパッと思い出したり……」


 そこでニノンは言い淀んだ。

 初めて出会ったころから考えれば、ずいぶんと昔の出来事を思い出しているはずだとルカも思う。目にしたものすべてに疑問を抱く幼子のようだった彼女は、ここにきて確実に誰かへ質問する回数が減ってきていたからだ。

 ニノンは、おがくずみたいに散らばる思い出を、どこから話せばいいのか考えあぐねている様子だった。


「私、海の見える大きなお屋敷に住んでたんだ。そこにはパパがいて、お姉ちゃんもいて、それから……仲のいい男の子も住んでた」

「姉ちゃんがいたのか」

「まだちゃんとは思い出せてないけど……」

「姉ちゃんも今ごろニノンのこと探してるんじゃねえの。おやっさんも」

「そ、そうかな」


 緩んだ頬を隠すように、ニノンはうつむく。

 故郷を発つ前、ルカたちは村唯一の駐在所に立ち寄り、ニノンの事情を話していた。なにか手がかりが掴めたら、ルカの父親である光太郎経由で、アダムの携帯端末に連絡が入るようになっている。だが、今の今まで吉報が届いていない。顔には出さないが、ニノンはそのことについてそれなりに憂えているのかもしれない。

 ベッド脇でストレッチをしていたニコラスは会話には混ざらず、ただ注意深く耳を傾けている。その鋭い視線に気づくものはいない。


「お姉ちゃんと夜中にこっそりお屋敷を抜け出して流星群を見に行ったこととか、ベッドの中で夜中じゅうずっとお喋りしたこととか……断片的にだけど、少しずつ思い出してきてるの。私、毎日楽しかった。それだけはわかるよ。だって、思い出の中に出てくる人たち、みんなとっても優しくていい人なんだもん」

「そう。それはよかったわ」


 ニノンは満面の笑みを浮かべたが、そのまますぐに首を傾げた。ニコラスはその後に会話を続けることなく、再びストレッチを始める。


「そういうニコラスだってよ、一回記憶失くしてんだろ」


 口を開いたのはアダムだ。


「やっぱまだ頭ん中こいつみたいにパーパーなのか?」

「パーパーってなに!」

「正直に表現しただけだろ」


 アダムは続けて気持ち悪い裏声で「オバケってなに? ホテルってなに?」と悪意を含んだものまねをやってのけた。

 歯を剥いて対抗するニノンに、意地悪い笑みを浮かべるアダム。まるで犬同士の喧嘩だ。ルカとニコラスは冷静な眼差しで目の前の争いを見守った。

 二人がついにベッドをトランポリン代わりにして騒ぎはじめたので、ルカは絵画の断片を筒の中へ避難させることにした。


「こら! ほかの客がいないからって、ベッドを粗末にするんじゃないよ」

「だってアダムが!」

「俺がなんだよ――っと、と、うわ」


 勢い余ってバランスを崩したアダムの足が、ベッドの上にあったメッセンジャーバッグを踏んづける。はずみでフラップが開き、中からなにかが滑り落ちた。

 丁度バッグと同じくらいの大きさの――それは使い古されたスケッチブックだった。空中でページが開き、スケッチブックはある一ページを上に晒す形で床に落ちた。


「あれ、それってアダムが描いた……」


 ニノンの言葉を遮るように、アダムは素早く動いてスケッチブックを勢いよく閉じた。

 しんと静まりかえる室内。スケッチブックが落ちていた場所に伸ばされたニノンの腕は行き場をなくし、その場で固まった。

 見開かれた琥珀色の瞳が、わずかに揺れ動くのをルカは見た。


「――そうそう、これ、俺のスケッチブック。へったくそだからさ、あんまり見られたくなくてよ」


 アダムは取り繕うように笑って、誰とも目を合わせることなくスケッチブックをカバンにしまいこんだ。


「アダム。俺、それ見てみたい」


 ルカは思わず手を伸ばしていた。

 フラップのボタンを留めようとしていたアダムは、その手を止めて「は?」という顔をこちらに向けた。


「俺の話聞いてた?」

「うん」

「フィリドーザで見せてやったろ? ほら、村のポスターだよ。あれは特別に見せてやったんだぜ」

「うん。でも、そのスケッチブックは見せてもらってない」

「いや、だからさ……」


 それでも渋るアダムをじっと見つめれば、彼は助けを求めるようにニコラスを見やった。だが、ストレッチを続ける彼の顔には苦笑いが浮かぶばかりだ。

 やがて根負けしたアダムは、長い長いため息をついた。


「――わかったよ。見せるから、そんな捨て猫みたいな目を向けるな」


 アダムは仕方なくメッセンジャーバッグからスケッチブックを取り出し、そのままルカの顔に押しつけた。


「五秒だけな、五秒!」

「わかった。ありがとう、アダム」


 絶対わかってないだろ、と顔じゅうで訴えてくるアダムの横で、ニノンが勢いよく手を挙げる。


「じゃあ私数えるね。いーちーーいぃい」

「うるせえ、数えんな! あーもーいいよ、普通に見ろ!」


 ふんっと勢いよく鼻を鳴らして、アダムはベッドの上で腕を組み、あぐらをかいた。

 スケッチブックは年季が入っており、モスグリーンの表紙はところどころ色が剥げている。常に持ち歩いていないとこうはならないだろう。潰れて丸くなった角を指の腹で触りながら、ルカはパラパラとページを捲った。

 中身はコンテや鉛筆で描かれたラフ画がほとんどで、時おり薄く色の乗ったページが挟まっている。

 いつの間にかニコラスも近寄ってきて、三人は顔を寄せ合いながら、めくるたびに現れるラフ画を目で追った。


「エスキースばっかでつまんねえだろ」

「エスキース?」


 耳馴れない言葉だったのだろう。ニノンがパッと顔を上げて尋ねた。


「キャンバスに描きはじめる前に、別の紙に全体的なスケッチをすることだよ」


 と、ルカが補足する。


「へえ。すぐにキャンバスに描くわけじゃないんだ」

「そのまま描く人間もいるけどな。俺はエスキースから描くんだよ」


 三人は再びスケッチブックに視線を戻した。

 それまでパラパラと紙を捲っていたルカは、とある一ページで手を止める。床に落ちたタイミングで一瞬だけ見えた一ページだ。これだけ水彩絵の具で色が塗ってある。


 黄色、ピンク、赤、紫――綺麗なグラデーションが織りなす夕暮れの空。そのふもとから溶けるように広がる海も、やはり暮れの色に染まっている。

 小石のようにぽつぽつと下方を埋める黒い影は、おそらく家の屋根だろう。そこからずんと上に伸びた細長い鐘楼しょうろうが、影絵のようにそびえ立っている。

 剣にも似た塔の左隣、向かい合うようにして不思議なものが描かれている。

 灰とも銀ともとれる色の、大きな塊だ。


「……ドラゴン?」


 ルカがぽつりと呟いた。

 鉄の塊のような体から、一本の太い尻尾がだらんと伸びている。嵐に吹き飛ばされた傘のような一対の翼が、太陽より数倍も大きく描かれた巨大を支えていた。


「そうだよ」


 アダムはばふっと音を立ててベッドに仰向けになった。


「俺がまだ孤児院にいたときにさ、一緒に育った奴と考えた物語の絵なんだ。塔に住んでる一人ぼっちの男の子が、ある日年老いたドラゴンと出会って冒険するって話」


 アダムは天井に目を向けたまま言葉を続けた。

 語られる物語に耳を傾けながら、ルカは今一度その絵をじっと眺めてみる。鐘楼のてっぺん。大きな鐘の隣には、確かに一人の少年が描かれていた。髪にだけ色が乗っていないので白髪に見える。その少年は、ドラゴンに向かってぐうっと腕を伸ばしていた。


「男の子はドラゴンの背中に乗って、見たこともない景色とか、不思議な生き物たちに会いに行くんだ。時たま危険なシーンもあったりしてさ。あとはとんでもなく美味うまいものを食べたりとか――」


 子どものように無邪気な声色が、一瞬だけ途切れた。


「そんなもんばっか描いてたんだよ俺。価値のない絵ばっかりさ」


 アダムは屈託なく笑って、ベッドに寝転んだ。

 彼の表現手法は決して写実的とは言えない。例えるならおとぎ話の挿絵、あるいは絵本の一ページのよう。幻想的で柔らかい夢のような景色が、きっと彼の描写スタンスなのだ。

 だとすればやはり、それは価値がないと定義されるのだろう。

 AEP還元率が高い絵画には、より写実的で色彩豊かな描写が多く見られるからだ。


「そうかなぁ。私は価値がないとは思わないよ」


 ニノンが真顔で返すと、アダムは一瞬目をぱちりと瞬き、すぐに鼻で笑った。


「そりゃお前が無知なだけだからだろ。いいか、エネルギーにならない絵には価値なんかつかねえの」

「そうかな?」


 説かれてなお、ニノンは食い下がる。


「世の中のことを私はなにも知らないけど、でもいろんな絵画に触れてきて思ったの。誰かの想いが込められているって、それ自体がとっても価値のあることなんじゃないかなって」

「そんなの……」


 そう呟いたきり、アダムは口を閉ざした。そして、難しい顔で天井をじっと見つめている。ニコラスは、そんな彼の様子を神妙な面持ちで見守っている。

 彼らの傍らで、ルカは絵画の価値についてそっと思いを馳せた。思い出すのは、ヴェネチアでのクロードとのやり取りだった。

 世間において、絵画の価値・・・・・修復家の役割・・・・・・は隣り合わせの存在だ。ルカは一度たりとも修復家としての己の役割が揺らいだことはなかった。

 なのに今さら価値についての定義が曖昧になるなんて。

 ルカはちらりとニノンを見やった。彼女にはなにか、自分たちとは違う世界が見えているのではないか。ルカが知りたいと願う、絵画の価値についての本質が。

 ルカはベッドに寝そべったままのアダムの顔をそっと覗き込んだ。


「俺、キャンバスのほうの絵も見てみたい」


 途端に、端正な顔が「あ?」と眉をひそめ、ルカを見上げた。


「やだよ、恥ずかしい」

「えー。私も見たい」

「い・や・だ」

「確かトランクに積んであったわね?」

「布に包まれてたやつだよね」

「お前ら、私物を勝手に漁るなよ」


 いつの間にかニノンとニコラスもアダムの側に寄ってきて、ベッドの上では談笑がはじまっている。ルカは口元にそっと笑みを浮かべて、賑やかな光景を眺めた。

 利便性の陰に埋もれてしまった数多の絵画に価値・・がつかないとしても――そこには確かになにか・・・が潜んでいる。目に見えないというだけで安々と葬り去られてゆく絵画たちの、感情の煌めきが。

 それらを表す言葉を、ルカはまだ知らない。

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