第40話 マスカレード・カーニバル(1)

 翌朝も、ヴェネチアの町にはやはり濃い霧が立ち込めていた。

 丸窓から外の様子を眺めていたルカは、真っ白な景色から視線を外して手元を見た。前日の失敗を経て、今は十分な量の和紙がある。道野家に代々伝わる修復用の和紙だ。

 白く丈夫な紙を一枚、持ち上げて光に晒せば、わずかに繊維の模様が浮かびあがった。まるで葉脈や血管のような長い筋。何度か角度を変えて眺めたあと、満足げに微笑んで、ルカは修復作業を再開した。


 クロード直伝の和紙は強靭だった。

 仮面の裏側に貼り付ければ、まるではじめからそれらの一部であったかのように自然に吸い付くのに、決してビリっと破れたりしない。


「もともとは、お前のじいさんから教わった技術だ」


 男が珍しく謙遜したので、ルカは少し驚いた。反動で手元が狂い、ぶちゅりと紙の端から半透明のふのり・・・が飛び出る。慌ててパレットナイフではみ出た部分をこそげ取り、波打つ和紙の表面を親指の腹で押さえつけた。ふのりも道野家に代々伝わる修復材料で、日本発祥の素材である。


 当初はルカだけで進める手はずだった修復作業だが、和紙制作の難航により、クロードも作業員として加わることになった。

 たわんだり破れたりしている仮面は裏打ちして補強し、表面の汚れは絵画修復の要領で元通りにしていく。そうして修復を終えた仮面や、あるいは仮面職人ロクスの手により新たに作られた仮面は、待機するニス要員に手渡される。表面をニスでコーティングすることにより、一層強度が増すのだ。

 ニスを塗るのは、アダム、ニノン、ニコラスである。自分が一番協力したいであろうクロエは、申し訳なさそうに何度も頭を下げて、濃霧の中仕事へと出かけていった。


「そういえばさ」


 透明な液体をたっぷりと仮面に塗りつけながら、アダムは何気なく呟く。彼は左利きなので、絵筆もすべて左手で持つ。


「あのお喋りクソ女、あれから見かけねえな」

「クソ女って……まさかベッキーさんのこと?」

「そうそう。しつこく付き纏ってきたらとっちめてやろうと思ってたんだけどよ」

「まだ話を聞きたそうだったもんね。たしかに、最近は町でも見かけなかったかも」


 俺に恐れをなして逃げだしたのかな、などと言って、アダムは意地悪い顔で笑う。


「その件だが」


 会話に続いたのはクロードだった。彼の視線はアダムではなく、同じ作業机で修復作業を続けているルカに向けられる。話を半分しか聞きかじっていなかったルカは、視線を感じて首を傾けた。


「俺のところにもきたぞ。鬱陶しかったんで、お前の情報を譲渡して退散してもらったよ」

「え?」


 情報っていったい――訊き返すより先に、クロードはにやっと口元を歪めて。


「なに、ただの個人情報・・・・・・・だ。名前とか出身地とか、家族構成とかな」

「お、おじさん……!」


 ルカはあ然とした。それは、ただの・・・とは言わないのではないだろうか。れっきとしたプライバシー侵害だ。文句を言おうと口を開きかけて、出てきたのはため息だけだった。


「なんでそんなこと知りたがるんだ」

「さぁな。ただ俺は鬱陶しいのから逃げられて助かった。恩に着る」

「……」


 正直、まったく嬉しくない感謝だった。

 陰鬱な顔を晒していたら、同じような顔をしたアダムとばっちり目があった。アダムはぎゅっと眉間にしわを寄せながら、ものすごく不味い料理を食べたときのような顔をして、べっと舌を吐き出す。アダムはとにかくベッキー・サンダースが苦手なのである。女好きのあのアダムが、彼女とは掴み合いの喧嘩をするくらいなのだから、相当なものだ。隣でニスを塗りながら「なにやってんだい」と呆れた口調でニコラスが呟く。

 彼らのやり取りを背に、クロードはわるびれもせずニヤニヤしている。

 無責任な男の横顔に、ルカはじとりとした視線を投げかけてやった。


 作業は深夜近くまで続いた。

 眠気に勝てずに一人、また一人と部屋を去っていく。

 そうして最後には、年若き仮面職人と修復家の二人だけが残った。


「……アルチザンズ・ハイだね」


 二人を除き、最後の退出者となったニコラスが、部屋を出て行く間際にふと振り返って吐息のような独り言を漏らした。そんな声にも気付かずに、ただただ手元の作業に没頭している。

 パタンと音を立てて、扉が閉まる。

 室内が静寂に満たされる。あるのは、壁掛け時計の秒針が遠慮なしにカチカチと時を刻む音だけだ。


 夜はさらに更けていく。

 カーニバルの幕開けを告げる太陽が目を覚ますまで、あと数時間――。



 *



「おはよう! ハッピーカーニバール!」


 次に部屋の扉が開かれたのは、窓辺に太陽の光が差し込む頃だった。

 悦びに満ち溢れたニノンの朝の挨拶が、部屋の中に溜まったままだった静けさを吹き飛ばす。だが、机に突っ伏す二人はいっこうに動かない。


「こいつら、夜寝てないんじゃねえの?」


 生あくびを噛み殺しながら、アダムがのろのろとやってくる。そのままずかずかと遠慮なしに部屋に押し入って、彼は仮面だらけの部屋をぐるりと眺め回した。

 部屋にはまだ新しいニスのにおいが充満している。本当に、直前まで作業をしていたのかもしれない。ニノンが窓を開けて部屋の換気をしていると、作業机の方から呻き声がした。


「起きてるよ……」


 二人はぎょっとして振り返る。そこにはすっかり疲弊しきった顔がふたつ、首をもたげて並んでいた。目の下にはひどいくまができている。まるで今蘇ったばかりのゾンビのように、顔色もひどい。


「さっき完成、したから……」

「おうおう、わかったから。カーニバル始まるまで寝てろよ」

「仮面、町に持っていくの、頼んでいいか……」

「そんなの当然! どーんと任せて」

「飯はいいのか? 水は?」

「……いらなぃ……」


 ミミズのようなか細い音が終わらないうちに、ルカはゆるゆると頭を机に伏せた。瞳に前髪が覆いかぶさっているせいで、起きているか寝ているかわからないロクスも、無言でこっくり頷いて、やっぱり同じようにして机にぺたりと顔を伏せたのだった。

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