第39話 仮面の修復(3)

「仮面作ってるって本当かよ!」


 ばーん、と壊れそうな勢いでアダムがロクスの部屋の扉を開け放つ。が、次の瞬間には「げっ」と呻いて一歩後ずさった。

 ひと足遅れて二階に上がってきたルカも、彼の肩口から部屋の様子を覗き込んで絶句する。


「これは……」


 部屋じゅうに、床一面を覆い尽くすほどのヴェネチアンマスクが溢れていた。仮面はどれも彩色済みで、目の前の光景は使い終わった絵具のパレットを思い起こさせた。


 荒れる海の中、突出した岩肌によじ登って助けを待つ遭難者のように、この部屋の主は作業椅子の上で身を小さくし、同じくぎょっとした顔でこちらを凝視していた。

 少年の目元を覆い隠すほど伸びっぱなしの前髪は、作業の邪魔になるからか、大きなヘアクリップ――ニコラスが毎朝顔を洗うときに使っているものだ――でおでこの上にひとまとめに留められている。クロエにどことなく似た形の目は、しかし姉と違って落ち着きがなく、不自然にきょろきょろと視線を彷徨わせている。


「ちょっとアダムちゃん、いきなり部屋に飛び込んでくるんじゃないよ。びっくりするでしょうが」

「えっ、お、おう。悪かったよ」


 ベッドに腰掛けていたニコラスが、入り口に集った面々へたしなめるような視線を向ける。その左手には仮面が、右手には絵筆が握られている。筆の先端は透明な液体でぬらぬらと輝いている。おそらく、仮面の最終工程であるニス塗りの手伝いでもしていたのだろう。

 クロードが、おもむろに足元に落ちていた仮面を拾い上げる。無精髭の生えた顎をさすっていたかと思うと、小さく唸った。


「正直驚いたな。これだけの量をたったひと晩で?」


 それが自分に向けられた問いかけだと理解するや否や、ロクスは大げさに肩を揺らし、くるりと背を向け作業椅子の上で膝を抱え込んでしまった。

 知らない人、しかも髭面の男が無遠慮に部屋に足を踏み入れようとしているのだ。同じ立場なら、自分もきっと身をすくめるかもしれない、とルカは思った。


 足元に視線を落とすと、仮面の装飾品が廊下から差し込んだ光を受けてきらりと光る。ルカは背を屈めて、仮面の山の中からアイマスク型の仮面を手に取った。

 下地は白と青のシンプルなグラデーション。アーモンドの形にくり抜かれた目の部分は金の絵の具で縁取られ、額から青い羽飾りが三枚飛び出ている。シンプルだが精巧で、細部まで丁寧に作り込まれた代物だ。


「きれいな仮面だ」


 素直な言葉がルカの口をついて出る。

 時間がないのに一つひとつをじっくりと眺めて回りたいと思うほど、ヴェネチアンマスクは人の心を惹きつける不思議な魅力を称えていた。膝を抱き込み顔を埋める少年の、その背中がわずかに揺れたことにも気付かずに、ルカは手元のそれに熱い視線を向け続ける。

 クロードもついには入り口を跨いで部屋の中に足を踏み入れ、値踏みするように足元に散らばる仮面を見て回っている。彼の場合、純粋な興味というよりも、取引予定の商品の出来栄えを確認する意味合いの方が大きいのかもしれない。


「なぁ、いったいどういう心変わりなわけ?」


 入り口に立ったまま、アダムがニノンにひそひそと耳打ちする。


「ニノン、お前色仕掛けでも使ったのかよ。俺みたいに?」

「アダムと一緒にしないで」


 むっと頬を膨らませたあと、ニノンは室内にちらと目をやり、ルカとアダムの腕を掴んで廊下に引っ張り出した。あまり聞かれたくない内容なのか、少女はいっとう声をひそめて囁く。


 「実はね――」



 ドロシーと共に、従者であるジルベールとの追いかけっこを繰り広げたあとのこと。ニノンはドロシーにある手紙・・・・を書いてほしいと頼み込んだ。


 受け取った手紙はオフホワイトのかっちりした封筒に入れられ、裏は真っ赤なろうで封をされている。ろうに「W」の文字が刻印されているだけで、宛名は書かれていない。


 家に戻ったとき、ロクスは不在だった。代わりにクロエの父親と会ったりもしたが、その後ニノンは当初の予定どおり帰宅したロクスに会うことができた。

 ロクスは、どうやらニコラスと二人でどこかへ出掛けていたらしい。弟が家の外に出ていたなんて、クロエが聞いたらどれだけ喜ぶだろう。瞳を輝かせながら、ニノンは忘れないうちに手紙を手渡した。


「これは……?」

「預かったの。開けてみて」


 ロクスは訝しみ、不審なものが入っていないか確認するように丁寧に封を開けた。少年の背後に立つニコラスの、不思議がる瞳と視線がかちあった。


 ミモザの咲き乱れる道の奥――この町を訪れるきっかけになった、仮面の少年。その正体はもしかしたらロクスなのではないか。

 漠然とした考えが確信に変わったのは、この家に世話になって三日目のことだ。

 夕食を済ませたあと、四人は即席寝床の上でぐるりと輪になり近況を報告しあった。そのときニコラスは「ロクスの部屋にあるのは未完成の真っ白な仮面ばかりだよ」と告げた。カーニバルで使うには彩色を施さなければならない。ロクスがやる気にならなければ、完成品として数えるのは難しいだろう、と。


 真っ白な仮面。

 森の中で見た少年の仮面もそうだった。からは真っさらなキャンバスのような、未完成にも見える仮面を身に付けていた。

 画面の在庫数を数えて回ったニノンだからこそ断言できる。そんな仮面は、この町のどの店にも売られていない。


 だからニノンは、ドロシーから仮面の少年の話を聞かされたとき、すぐにピンときたのだ。彼女が見たのは真っ白な仮面ではなく小花柄だったけれど、霧の中で出会ったという仮面の少年の正体もおそらく、ロクス・ロダンなのではないか、と。


 ロクスはもたもたと封筒から手紙を取り出し、ただ一枚の便箋をゆっくりと広げた。


――あなたのことをずっと応援しています。

――あなたのファンより。


 重厚な封筒に反して、手紙の文章はずっと短い。

 たった二文しかない手紙を、ロクスは何度も何度も読み返した。震える指で、揺らぐ瞳で、何度も何度も確かめていた。彼はなにかを発しようと口を開き、また閉じる。そんなことを何度か繰り返したあと、助けを求めるように少女を仰ぎ見た。


「あ、い……」


 久々に喋ったかのような、喉に引っかかる声を出して、ロクスはごくりと咽頭を上下させた。


「いつ、どこで、誰に」


 それでも掠れた声は変わらず、ロクスはぶつ切りの問いかけをかろうじて口にした。


「町中で、渡すよう頼まれたの。フードを被っていたから、どんな見た目かはあんまりわからなかったんだけど」

「そ、そっか……」


 ごめんね、とニノンは首をすくめた。

 もちろんそれは嘘だ。この手紙を書いたのはドロシー・ワズワースで、書こうと提案したのはニノンだった。手紙は内容が同じものを二通書いた。一通をニノンが受け取り「もしも仮面の少年を見かけたら、捕まえて手渡すね」と、ドロシーに約束したのだ。


 落胆の色を滲ませるロクスの後ろで、ニコラスがなにか言いたげにこちらを見つめてくる。


「あ、ひとつ伝え忘れてた」


 ニコラスから目をそらしながら、ニノンは慌てて付け足すように口を開いた。


「仮面舞踏会で会いましょう――って、その子、言ってたよ」

「舞踏、会……」


 これは嘘ではない。ドロシーは舞踏会に仮面の少年がやってくると信じている。大げさに言ってしまえば、そのためにカーニバルは開かれるのだ。

 ニノンはこの町でできた友だちの願いを叶えてやりたかった。だから、探し人である少年に、こんな狭っくるしい檻の中で閉じこもっていられては困るのだ。


「会えるといいね」

「……うん」


 耳を真っ赤にしながらロクスは頷く。相変わらず鬱陶しい長さの前髪の奥に、僅かな光が見えた気がした。町の水路のような深い青緑色の瞳に、水面にきらめく太陽の光のような、細かな光が。

 それからロクスは、よし、と小さく気合を入れて、作業机に向かった。ニコラスは事情が飲み込めず、一瞬唖然としていたが、ニノンと顔を見合わせると、安堵したように微笑んだのだった。



「ああ、クッキー買ってきた日か」

「そそ」

「昨日じゃねーか。知ってたんなら、さっさと俺たちに教えろよ!? 俺たち、朝から大変だったんだぜ。その話を知ってたら焦らずに済んだのに」

「だって、言ったらアダム、だらけるんだもん」

「まてまてまて。聞き捨てならねえな。俺のせいなのか?」


 反論しようと一歩踏み出したアダムの肩を、途中から話を聞きかじっていたらしいクロードが鷲掴んだ。その顔には似合わない笑顔が浮かんでいる。


「お前のせいか、アダム」

「お――俺のせいじゃないッス!」


 賑やかさを取り戻し始めた一同を眺めてから、ルカはロクスの部屋に溢れるヴェネチアンマスクに目をやった。

 時代の流れとともに、この町の人々の喜びに寄り添ってきた唯一無二の存在。そんな仮面を自らの手で修復できると考えただけで、胸の内からはふつふつと静かな興奮が湧き上がってくる。丸一日かけて和紙を天日干しすれば、明日早朝から動くことができる。

 早く修復作業に着手したい――はやる気持ちを抑えようと、ルカは小さく息を吐き出した。


「楽しそうだね、ルカ」


 振り返ると、騒がしげな輪から離れたニノンがすぐそこに立っていた。


「そう見えた?」


 嬉しそうに頷く少女に、ルカは「ニノンこそ」と返した。

 するとニノンは急にそわそわと体を揺らし始めた。気を抜けば簡単に緩んでしまいそうなぎこちない固い表情で、所在なさげに視線を彷徨わせている。

 どうかしたのだろうかと、不思議そうにルカが首をかしげると、ニノンは意を決したように口を開いた。


「ルカはカーニバル参加する、よね?」

「うん。町の人たちが仮面を被ってる姿を見たいし」


 そうだよね、うん、とニノンはうわ言のように相槌を打つ。


「じゃあ、その後の……舞踏会は?」


 遠慮がちに呟かれた問いがうまく聞き取れなくて、ルカは「え?」と訊き返した。


「ほら、マスカレード・カーニバル最終日にあるメインイベント。ワズワース家の屋敷の大広間が開放されて、そこで仮面をつけたまま踊りを踊るっていう……あっ、でもルカ、踊りとか好きじゃないよね。ごめん、今の忘れて! それよりカーニバルの準備、急がなきゃね。なにかお手伝いできることある? 私、手が空いてるんだけど――」

「踊りたいの?」

「えっ……」


 ニノンは短くうめいて、それきり固まってしまった。


「ニノンは踊りたい?」


 ルカはもう一度尋ねた。すると、ニノンはなぜか顔を赤くしてこくりと頷き、そのまま顔を伏せてしまう。そんなに踊りたいのか、と、少女の必死な様子にルカは思わず笑いを漏らした。


「いいよ。一緒に踊ろうか」


 足、踏まないように気をつける、と付け足す。ニノンは軽く笑い声を漏らしたが、伏せた顔を上げることはしなかった。


「そのためには、まず修復を終わらせなきゃな」


少女の心などつゆ知らず、ルカは明日の修復作業に想いを馳せて、意味もなく腕まくりをした。

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