第29話 ベルナールの過去

 ベッキー・サンダースは良く言えば明朗快活な女だった。若干二十歳にして渡航歴三〇以上というフットワークの軽さ。それは思いついたら即行動、といった彼女の性格にも反映されている。

 市場に数店舗並んだバーガー店を手当たり次第に見て回り、結局一番値引きをしてくれた店で人数分のフィッシュフライバーガーを購入した。その日に獲れたという名前も知らない白身魚のフライが、バンズに収まりきらずにはみ出ている。四人はずいぶんと安くついたバーガーにかぶりつきながら、広場に置かれたベンチへと腰掛けた。


「約束通り、ベルナールの火災事件について教えてあげる」


 随分と使い込まれたぶ厚い手帳を、ベッキーは手慣れた手つきでパラパラとめくった。擦れたブラウンの皮カバーからはいくつもの付箋が雑草のように飛び出している。きっと、彼女が世界を飛び回ってかき集めた情報の全てがこの中に詰まっているのだろう。

「あったあった」と独りごちて、ベッキーはとあるページにびっしりと書き込まれた文字に目を留めた。


「ベルナール家十代目当主〈オーランド・ベルナール・ド・ボニファシオ〉。彼が四十歳の時に起きた、ベルナール邸が全焼するって事件だよ。彼はこの事件によって死亡してるわ」

「オーランド・ベルナール……」


 十、二十……指折り数えて、頭の中で軽く計算をした。五十年前に四十歳ということは、オーランドはニノンの祖父か曽祖父にあたることになる。


「俺たちが歴史の授業で習うのは、ベルナール家が『ラピスラズリ採掘をはじめた最初の人間』だってことだけさ。ベルナール家の末路にそんな事件があったなんて、知らなかったぜ」

「今みたいなきっつきつのカリキュラムじゃあ教えられる時間も短いし、授業内でコルシカの繁栄の歴史をクローズアップして教えるのは当たり前。というか、ただの事件なんて普通授業で教えたりしないでしょ」

「まぁ、確かに」


 アダムとベッキーの小難しい話についていけなくて、ニノンはぼんやりと薄らいだ水色の空を見上げた。


 オーランド・ベルナール――その名は何故だか妙に優しくニノンの心に浸透した。道野ルカという名前を聞いた時と同じように。記憶の中でダニエラという名前を耳にした時と同じように。じんわりと胸の内に広がる得体の知れない寂しさ。その向こうにある何かを見つけようと、ニノンは服の上からラピスラズリのペンダントを握りしめた。そうしていつものように白昼夢がやって来ることを期待した。けれど、視界の景色は変わらず鮮明なままだった。

 隣に腰かけていたルカは、力のこもるニノンの左手を見つめていた。声をかけることはないが、少女に何かあった時はいつもそうやって目配りをする。それが彼なりの心遣いだった。視線に気がついたニノンは、握っていた手をぱっと放して小さく微笑んだ。


「ねぇベッキー。どうしてベルナール家のお家は燃えちゃったの?」


 ニノンの質問に、ベッキーは待ってましたとばかりにニヤリと笑った。


「ラピスラズリがコルシカ島で発見されてから数百年。世界の需要に合わせようと、ベルナール家は必死にラピスラズリを採掘したの。でも、資源ってのは無限じゃない。それは私たちも身に染みて分かってるでしょ」

「エネルギーショックか」


 アダムの相づちに、ベッキーは「ビンゴ!」とウィンクを飛ばした。


「いずれ無くなると分かっていて、人々は地球の資源を貪り尽くしちゃったんだよね。ラピスラズリもそう。不運にも、オーランドさんの代で資源は底が見えちゃったってわけ」

「五十年前の話か。資源が底をついて、コルシカ島から採掘産業が廃れたって話は習ったな」

「そうよ。ラピスラズリの事業廃止が決まって、採掘に従事していた労働者たちが暴徒化した、ってのが俗説ね」

「ろう……ぼうとか……?」


 小難しい言葉に、ニノンは思わず首をひねった。


「つまり、働き口が無くなった人が『ふざけんな!』って怒って屋敷に火を付けたってことよ」

「そんな! だってラピスラズリが採れなくなったのはベルナール家だけの問題じゃないのに」


 その事実が本当ならば、末裔であるニノンにはショックが大きかった。

 己の先祖が人に恨まれて命を落とすなんて信じたくなかった。それに、話を聞く限りオーランドの死は労働者の八つ当たりだ。そんな不服なことがあるだろうか。ニノンは悔しさに拳を握りしめた。


「事業主ってのはそういう役目だからね。人の恨みを買うのが仕事」


 きゅっと眉間にしわを寄せたニノンが反論を口にするのを遮って、ベッキーは続けた。


「でもあたしはそんな俗説は信じてない。だからこうやって色々調べてるんだけどね」

「……どうして、そう思うの?」

「どうしてって? あはは、それはね。オーランドという男が『類稀なる人格者』だったからよ」


 ベッキーは食べ終えたバーガーの包み紙をくしゃくしゃと丸めて、それを片手で放り投げた。紙くずは弧を描いてベンチの隣に置かれたゴミ箱に吸い込まれた。


「別のネタを追ってた時にさ、偶然オーランドのことを知ったの」


 運河を大きなエネルギー船が走る、バシャバシャと言った音が広場を横切った。それに負けないくらい熱情を込めて、ベッキーは語る。オーランド・ベルナールとは、聡明で思慮深く、どんな人をも平等に扱う、上に立つには十分すぎるほど素質のある人物だったと。ボニファシオの人々は彼に厚い畏敬いけいの念を抱いていた。


「誰よりも未来を見据える眼を持っていた彼の決断に、市民が暴徒化するなんて有りえない。っていうのがあたしの言い分ね」

「なるほどな。どっちも根拠がないんじゃあ、俺もあんたの説を推したいね」


 やはりベッキーの口から溢れだす言葉はニノンには少々難しい。だけど、少なくともオーランドは町の人々から嫌われてなかったんだと思えただけで、ニノンの心に溜まっていた沢山の石はみるみると姿を消したのだった。


「根拠が無いわけじゃないよ」

「あ? 証拠があんのかよ」

「証拠ってほどでもないけど」

「どっちだよ」


 ベンチからすっと立ち上がったベッキーは、そのまま数歩先へ進んで、独立図書館の方角を指差した。アダムたちは指先を目で追う。建物の右端に設置されたポールのてっぺんで、一枚の旗が風にはためいている。


「……島旗がどうかしたのか?」


 コルシカ島は歴史の中で様々な国に支配された。イタリア、ジェノバ、そしてフランス……。どんなに支配されようとも、心だけはこの島と共にあった。

 そんな島民の気持ちの表れなのか、コルシカ島には国旗とは別に『島旗』というものが存在する。コルシカ人の誇りと名誉の象徴。肩ほどの長さの髪を風に揺らす乙女の横顔。


「コルシカ島の英雄、〈ディアーヌ〉」


 ふいにルカがぽつりと言葉を発したので、隣に座っていたアダムはぎょっとした。


「あんまりにも喋んねぇから、寝てるのかと思ったぜ」

「こんなところで寝ないよ」

「ジョークだよ、ジョーク。で? なんでディアーヌが出てくるんだよ」


 ふふ、と笑い声を漏らしながら、ベッキーはくるりと振り返った。


「ディアーヌが島の英雄だって話は、この島ではどんなおとぎ話よりも先に聞かされるお話なんでしょ?」

「そうなの?」


 期待にそぐわないニノンの質問にベッキーは拍子抜けした。「え、君たちここの島の子じゃないの?」と驚く彼女に、アダムは慌ててフォローを入れる。


「ディアーヌってのはさ、コルシカ史上最後の『独立戦争』を指揮した乙女のことだ。最終的には独立は叶わなかったけど、それでもコルシカ人の誇りを捨てずに最後まで戦ったディアーヌの姿は、いつでも島民の憧れなんだよ」


 熱く語るアダムに「ふぅん」とそっけない相づちを打ったせいで、ニノンは彼に軽く頭をはたかれた。


「彼女は腕っぷしが強かったから島のトップに立てたんじゃないんだよね」

「というと?」

「彼女が持ってたのは抜群の『リーダーシップ』ね。人々のやる気をたぎらせ、目的の達成へと導く術を知っていたの。最後の独立戦争が始まった時、コルシカ島には決して分があるとは言えなかった。それは周知の事実だったはず。なのにどうしてディアーヌは島民の半数以上を集めることができたんだと思う?」


 ベッキーは石畳を踏み鳴らしていた足をぴたりと止めて、三人を見据えた。


「それは、彼女が素晴らしい人格者だったからよ」

「うーん。それは理解できるけど……だからって英雄ディアーヌとオーランドは関係ないだろ?」


 すると、ベッキーはケタケタと耳につく声で大きく笑い声をあげた。まるで馬鹿にされているようで、思わずアダムは眉間にしわを寄せた。


「ディアーヌは『戦死した』って歴史書には記されているけど、それは歴史を美しくする為のただの嘘」

「え?」

「彼女は過去も名誉も捨てて、ある一人の男の伴侶になったんだよ。もう分かるでしょ?」


 彼女の口元が挑発的にニヤリと歪む。ごくり、とアダムの生唾を呑みこむ音が聞こえた。


「英雄ディアーヌは、ベルナール家の先祖だったのか……?」


 ベッキーは「エクセレント!」と嬉しそうに指を鳴らした。


「血ってのは受け継がれるものよ。一般市民がそうそう恨みを持って彼を殺すなんてことはない。そんなに安い人格者じゃないってのが、証拠とは言えないけれど、私が持論を推す理由ね」


 証拠は無いと言いつつも、その声色からは自信がたっぷりとにじみ出ている。さらにベッキーはブロンドの毛先をいじくりながら、声のトーンを下げて、控えめに続けた。


「それでも恨まれるというなら、原因は一つしかない」


 一旦言葉を区切って、彼女は一度あたりをちらりと見た。そうして、誰に聞かれているでもないのにいやに声を潜めた。


「――『ヴェンデッタ』よ」


 一瞬、風が凪いだ。そのおぞましい単語が彼女の口からついて出た途端、空気はざらざらとしたものに変わり、アダムやルカの肌を不愉快に撫でた。ヴェンデッタという単語の意味を知らないニノンだけがけろっとした表情をしている。教えたくはないが、教えねばならない。アダムは嫌そうな顔を隠しもせずに、無理やり口をこじ開けた。


「ヴェンデッタは……『復讐』のことだよ」


 この島には古くから伝わる『ヴェンデッタ』と呼ばれる習慣があった。

 それは人殺しの習慣だ。殺人が起こった時、被害者の一族は加害者の一族へ復讐することを誓うのである。復讐の殺人はさらなるヴェンデッタを生み、それらが繰り返されることによって復讐の連鎖は終わることなく続いていく。


「警察がまだ生まれていなかった時代、人々は自ら過ちを犯さないようにヴェンデッタという縛りを作ったんだ。それがずっと受け継がれて――でも今じゃあそれも黒い歴史だ。だってきちんと罪を取り締まる役目が作られたんだからな」

「そ。このヴェネチアにもヴェンデッタに次ぐ新たな取り締まり方法を模索した結果の『罪人収容島』が、名残として残ってるけど……」


 どこかに小さな教会があるのだろうか。ゴーン、ゴーンと鈍い鐘の音が鳴り響いた。


「何百年、何千年と染みついてきた習慣って、簡単に消せるものかな?」


 その瞬間、ぴくりとアダムの眉が痙攣したのを、ルカは見逃さなかった。


「――それは、俺たちコルシカ人が、復讐の為なら人を殺めるって言いたいのか?」


「やだやだ、そんなに怒らないでよ。あたしが言いたいのは、ベルナール家に火を付けた犯人は、歴史の中で根深く育った『復讐』を動機にしたんじゃないかってことだけで……」

「同じだろ!」


 突如声を張り上げたアダムに、ベッキーはおろかニノンまでが肩をびくりと揺らした。黄色がかったブラウンの瞳が、怒りを内包して静かにわなないている。


「そういうこと……あんまり軽々しく口にすんじゃねェよ」


 あたりはしんと静まり返った。遠くに魚屋の男の歌声が聞こえる。ざわめく人々の声が偽物のように奥の方で充満している。夕暮れ時のような午後二時。ルカやニノンにとって、こんなに取り乱した彼の姿を見るのは初めてだった。何かが彼の心の琴線をかき乱している。

 ややあってアダムは「悪ィ、ちょっと熱くなっちまった」と頭を下げた。


「とりあえず、あたしが教えてあげられるのはこれくらいかな。満足した、ニノンちゃん? ――いや、英雄ディアーヌと同じ『脱色症』のお譲さん」


 未だに空気に含まれる気まずさにどうすれば良いか考えあぐねていたニノンの、横顔に垂れる長い髪の毛を、ベッキーの手がさらりと撫でた。日の光に透けた桃色が黄金色に変わる。ルカはとっさにニノンの体を引き寄せた。女の瞳が獲物を見定めるようにぎらついたからだ。ルカが警戒心を滲ませた目で見つめると、ベッキーはぷっと吹きだしてまたしても大声で笑った。


「やだやだ、止めてよ。とって食おうってんじゃないんだから。あたし、悪者みたいじゃん!」

「こんなにたくさん情報を開示して、何が目的ですか」

「あはは、そんな恐いカオしないでよ。目的ねぇ……強いて言えば勘かな」

「勘?」

「そ。ベルナール家について調べようと図書館に行ったら、偶然にも読みたい本を先に手に取る人物がいてさ。しかもその一人は世にも奇妙な桃色の髪の女の子! 瞬時にピンと来ちゃったのよね」


 嬉しそうにまくし立てる女を、ルカは変わらぬ表情のまま見つめ続ける。


「あれ、知らない? 脱色症って、男は突発の変異だったりするんだけど、何でか女の子は遺伝色が強いのよ。だからベルナール家の女の子は普通よりも脱色症発症の可能性が高まるってわけ。うそ……ビンゴ?」


 沈黙を肯定――ニノンがベルナール家の末裔だということ――と取ったのか、ベッキーはヒュゥっと口笛を吹いて喜んだ。


「ワオ、奇跡だわ! やっぱりベルナール家は絶滅してなかったのね。ねぇ、何でもいいからパパやママから話を聞いてない? いやぁ、あたしの勘もすさまじいわ。ホント、君が脱色症で良かった!」

「おい、脱色症って何回も言うな!」


 虫の居所が悪いままだったアダムが再び吠えた。今度はベッキーが眉根を寄せる。


「……なんで君が怒るの? ニノンちゃんが怒るのなら分かるんだけど」

「上っ面ではニコニコしてるかもしれないけどな、心ン中では傷ついてんだよ。傷だらけなんだよ」


 おろおろとした口調で「私は……」と言いかけたニノンを押しのけて、テンションの高い声でベッキーはアダムに食いかかった。


「はあ? それって偏見じゃん。君の押しつけがましい同情心でしょ」

「違う!」

「何が違うってのよ。君は脱色症じゃないんだから、当事者の気持ちなんてわかんないでしょ」


 ふん、と鼻から息を吐くベッキーを、アダムは力の限り睨んた。その瞳にどす黒い色の感情を宿して。


「わかるんだよ。脱色症――色ナシだってだけで世間からさいなまれてきた奴を俺は知ってる。そいつがどんだけ辛い思いをしてきたかも知ってる。だから、他人事なんかじゃねえんだよ。とにかく、お前にとやかく言われる筋合いはねえ!」


 アダムはもの凄い剣幕で一気にまくし立てた。誰も何も言い返さない。力みすぎたのか肩で息をするアダムを、遠くの方からちらちらと通行人が覗き見ていた。叫んだ声があまりにも大きかったのだろう。

 だけどそんなことはもうどうでも良かった。アダムは何年ぶりか分からない、はらわたが煮えくり返る思いを感じていた。人間、頭に血が上るとこうも顔が熱くなるものなのか、と。頬の薄い皮のすぐ下をドクドクと血液が流れているのを感じる。


 肺の中に溜まった熱い空気を一気に吐き出した時だった。


「おいおい、随分ハデに言い合ってるな……またお前か、ベッキー・サンダース」


 突如、見知らぬ男性の声が投げ入れられた。

 その瞬間、ルカの心臓はどくりと跳ね上がった。驚きに真っ青な両目を見開いて、ゆっくりと声のした方へ顔を向ける。


――これは幻聴だろうか?


 ドクン、ドクン、と心臓が打ち鳴らす音が耳元で響く。使い込んでツヤが出てきた革製品のような、年季を感じさせる声。なのにいつでも気怠げな大人の男の声。忘れるはずもない、それはルカの記憶に残るものと全く同じだった。

 間違いない。幻聴なんかじゃない。そう思った瞬間、緊張で喉がからからになった。視線の先にようやく男の姿を認めたルカは、懸命に喉から声を絞り出した。


「クロード、おじさん……」

「よぉ、ルカ。元気だったか」

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