第28話 仮面職人の島
それはどこか不思議な空気の漂う島だった。
島と言っても歩いて回れば五分とかからない小ぢんまりとした大きさの、人工的な島だという。それにしては植物はうっそうと生い茂り、町のどこよりも自然は多い。頻繁に発生する霧のおかげで、建物のレンガ壁はびっしりと
ニコラスは目の前に佇む一軒の家を見上げてため息を漏らした。いびつに歪んだ赤煉瓦のトンガリ屋根から、曲がったパイプ状の煙突が突き出ている。建物の形は四角ではなく、円柱型だ。運河沿いの町の建物とは全然違う。まるでおとぎ話に出てくる魔女の家のようだった。
「なんだか随分と雰囲気が違うわね」
「ええ。ここは独立しているんです――この島が作られたときからずっと」
「どういうこと?」
少女は遠慮がちに俯くと、そのままペンキの剥げた扉を押し開き、ニコラスへ中に入るよう促した。
入り口をはいってすぐのところにあるダイニングテーブルに座っていると、少女は間を置かずにキッチンから戻ってきた。湯気の立ち昇るマグカップをニコラスの元へと置くと、改まって礼を言った。
「ここはヴェネチアンマスクを作る仮面職人が住む島なんです。職人以外は目の前の運河の向こう側で生活しています」
「じゃあ、あなたは――ええと」
「クロエです」
自らの名を名乗るのを忘れていたことに若干恥じらいながら、クロエはまたしても顔を伏せた。上品なベージュ色の髪の毛がさらりと落ちて、彼女の表情を隠す。
「クロエも仮面職人を?」
ニコラスの質問にクロエは小さくかぶりをふった。
「私は向こう岸で野菜売りをやってます。仮面職人は男の人の職業なので。今は父が……それと、本当なら弟も職人になる予定なんですが」
だんだんと声が小さくなり、最後の方は尻すぼみになって聞こえなかった。
「なんだか訳ありみたいだね。ま、言いたくないことは言わなくていいよ。それより、どうして仮面職人だけがこの島に住んでるんだい?」
「それは……」
一旦言葉を区切って、クロエは一瞬瞳に迷いを覗かせた。しかし直ぐに口を開くと、言葉を続けた。
「罪人に与えられた職業が、仮面を作ることだったからです」
「罪人……」
「昔々の先祖のお話ですよ」
この浮島は、罪人の収容島として何百年も昔に作られたのだという。彼らに与えられたのは仮面を作るという職業だった。
元々イタリアのヴェネチアでは、冬に仮面を付けて人々が街を練り歩くカーニバルが催されていた。そんなイタリアの街を模倣したコルシカ島のヴェネチアでも、例にもれず――季節は違うが――カーニバルが開催された。通称〈マスカレード・カーニバル〉と呼ばれるそのお祭りは、町民やあるいは外からやってきた人々が仮面を被ることで己の身分に関係なく騒ぎ、楽しむことができるというものだった。
「待ってちょうだい。イタリアのカーニバルは、もう何十年も前に廃止されたでしょう」
「ええ。この町でもそう。カーニバルは過去の歴史となりつつありました」
「だったら仮面職人は必要なくなるんじゃないの。それに、あんたらは別に罪を犯したわけじゃないでしょう。向こう岸へだって住めるでしょうに」
「現在でも、仮面は壁飾りや魔除けとして買われていくこともあるんですよ。……それに、今年は特別なんです」
「特別?」
「はい。ワズワース家の働きかけがあって、この町でカーニバルが復活するから……きっと仮面職人は必要とされるんです」
彼女があんまりにも嬉しそうに笑うので、ニコラスは後者の話題を掘り返すのは止めた。
他人が思うほど問題は浅くないのかもしれない。たとえこの島から出たとしても、人々の記憶から『罪人の血が数滴でも混じった人間』の存在が消えることはないのかもしれない。それだけ人間の精神に根深く息づく『意識』とは恐ろしくしぶといのだ。何度抜いてもいつの間にか生えてくる雑草のように、目に見えずともそれは常に息を潜めて、次に芽を出す瞬間を待ち続けている。
ニコラスはバニラの香りが漂うマグカップに口を付けた。
昔の記憶が脳裏に過ぎる。靴さえ履けずに裸足で二人、町の冷たい石畳を踏みしめた頃の記憶だ。道ゆく人々から迫害されてきたその理由を、読み書きも出来ない双子は到底知り得なかった。
もしかしたら理由なんてなかったのかもしれない。
何のために生きているのか分からずに、それでも耐え凌ぐように生きていた双子と同じように。
ひと口飲んだ紅茶は驚くほど味がしなくて、ニコラスは思わず視線だけでマグカップの中身を覗き見た。色は確かに紅茶の紅色をしている。しかし、まるで香りと色のついたお湯を飲んでいるようだ。
「ごめんなさい。味、薄いですよね」
「あ、ううん、違うのよ。いい香りね、この紅茶」
年の随分離れた少女に気を遣わせてしまったな、とニコラスは少し反省した。
「私も母も頑張って働いてるんですけど、この島に住んでいるとなるとやっぱり稼ぎが少なくて。それに仮面職人って、驚くほど割に合わないんですよ。ここずっとカーニバルなんてなかったし。情けで向こう岸のお店にいくつか置かせてもらっていますが、外からやってきた人がたまに購入するくらいで」
クロエは言葉数を増やしながら、健気に笑ってみせた。冬でもないのに指に細かなあかぎれの跡が見える。視線に気付いた少女は、恥ずかしげに手を机の下に忍ばせた。
「ねぇ、この島の他の住民もそんなに貧しいの?」
「……いいえ」
クロエは微笑みを絶やさずに、感情の薄まったような声で淡々と続けた。
「みんな出ていきました。この町で仮面職人を続けているのは、私たち一家だけです」
それから彼女は、時々口にする言葉を模索しながらも、ニコラスに説明を続けた。元いた仮面職人は皆稼ぎのある画家に転向し、向こう岸に住む者もあればそのまま町を出ていってしまったものもいたという。
それでもクロエの一家がこの島に留まり続けた理由は――そんな質問を投げかけるような野暮な真似はしなかった。彼女の瞳を見ればニコラスにだってすぐに分かったのだから。この一家が、仮面職人という職業に誇りを持っていることぐらい。
「ですが、もうずっと父の体調が思わしくなくて」
一転してクロエの表情が暗くなった。カーニバルを目前に控えた今、肝心の職人が不調のために、仮面の製造が追いつかないのだ。
「これで見限られたら、もうこの町で仮面職人としてやっていけない気がするんです」
震える声で呟くクロエの顔色は真っ青で、彼女が俯いた視線の先には、スカートの裾を力いっぱい握りしめる、あかぎれだらけの両手があった。
ニコラスは、ふとその姿に昔の自分が重なったように見えた。寒さの凌ぎ方すら教えられることなく、路頭に迷っていた幼い自分と弟。しかしそんな双子にも差し伸べられる手があった。暖炉の火種のような、温かくて大きな手だった。
彼らは救われた。そして知ったのだ。人は人に助けられる生き物だということを。
またそこから学んだのだ。人は人を助けることができる生き物だということを。
「私は何をすればいいかしら?」
クロエははっと頭をあげた。しな垂れる蛍光黄緑の前髪を揺らしながら、ニコラスはにっと笑みを作った。
「遠慮しないでね。私にできることがあれば何でも協力するから」
*
コン、コン。二階にある部屋の扉を叩く小さな音が響く。中から返事はない。クロエは小さくため息をついて、もう一度扉を打ちならした。
「ロクス? 開けてもいい? 今日はお客さまが来てるの」
扉の前に張り付くようにして二人は耳をそば立てた。ややあって部屋の奥から「会いたくない」とくぐもった声が聞こえてきた。クロエはニコラスを仰ぎ見て、いつもこんな調子で部屋に引きこもってるんです、と瞳で訴えた。
「町の人じゃないわ。あの『アルカンシェル』の『ニコラス』さんよ」
アルカンシェルとニコラスという単語を強調したクロエの声に、扉の向こうから何か重たい物でも落っことしたようなけたたましい音が響き渡った。しばらく騒がしげな音が続いたかと思うと、バタバタと室内を駆ける足音と共に、勢いよく扉が開かれた。
「ニコラスさんだって!?」
勢い余って、少年は扉を開けた瞬間廊下につんのめった。とっさにニコラスがその細い体を支えてやる。クロエと同じベージュの髪は、何十年もの寝癖がこびりついたみたいにぼさぼさだった。「大丈夫?」とニコラスが顔を覗きこむと、少年は口をぱくぱくさせながら、一瞬にして顔を真っ赤に染め上げた。
「だっ……だ、じょうぶ、です……」
「いや、大丈夫そうには見えないけど」
「…………あのっ!」
「はい?」
突如うわんと響いた大きな声に驚いて、ニコラスは危うく少年を落っことしそうになった。
「さ、サイン、……ください!」
「――え?」
瞬く間に部屋の中から紙とペンを引っ張りだした少年は、一度たりともニコラスと目を合わせることなくそれらをずいっと差し出した。引きこもっていたにしては随分と俊敏な動きをする。
おずおずと白紙の紙にサインを書き終えると、今だに緊張しているのか、上ずった声で礼を述べてロクスはまた部屋に舞い戻ってしまった。
呆気にとられていた二人だったが、クロエははっと我に返り、もう一度扉を叩いた。
「ロクスー、せっかくだからダイニングで一緒にお茶しましょうよー」
しかし、その後どれだけ呼びかけても扉の向こうからロクスの声が返ってくることはなかった。
「随分と引きこもりに磨きをかけてるわね」
「ニコラスさんに会えばもしかしたら治るかも……って思ってたんですが」
クロエは乾いた笑いを漏らした。そして、ものの数秒で扉が開いたのは本当に凄いことなんですよ、とも付け加えた。
「ま、しがないサーカス団員の一人じゃあね」
ニコラスはふぅっと息を吐き出して己の前髪を揺らした。すると、
「そんなことありません!」
とクロエが大きな声を出した。ニコラスは思わず二度見した。人形のようにさらさらな髪の毛が、彼女の桃色に染まった頬にかかる。
「二年前、アルカンシェルがこの町に来てくれた時のことです。お金もないのに、両親は私たち姉弟をサーカスに連れて行ってくれたんです」
虹色の旗をはためかせながら、中央広場に大きく盛り上がったテントが姿を現した春の終わり。クロエは風呂敷をそっとめくるように優しく思い出を語った。
その公演のプログラムはニコラスが主演を務めるものだった。言葉のない世界で、ニコラス扮する主人公が、ダンスを通して様々な生き物と心を通わせていくというストーリーだ。ステージ上で繰り広げられる躍動感あるパフォーマンス。男、女、種を越えて伝わりあう感情。ダンスに対するほとばしる情熱。受け止めきれなかった様々な思いは、涙となって姉弟の瞳からこぼれ落ちた。
「悲しみ以外で涙を流したのは初めてだったんです」
すっと顔をあげて、クロエはニコラスを見据えた。
「あの時私と弟は、確かに勇気をもらいました。それを、もう一度弟に思い出してもらいたいんです」
彼女の瞳に宿る意志は煌々と燃え盛る炎よりも熱い。それはニコラスが思っているよりもずっとずっと高く火柱をあげている。
「今じゃないと駄目なんです。ロクスに仮面を作ってもらわなければ……仮面職人という職業はきっとなくなってしまう。だから――力を貸してください、ニコラスさん」
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