第12話 トレミーの正体

 ルカはその場で詳細を語ることはしなかった。言葉で説明するよりも、実際に見た方が理解しやすいと判断したからだ。

 夜遅くに宿へ帰ってきた三人は順にシャワーを浴び、特にお喋りすることもなくふかふかのベッドにダイブするとすぐに眠りについた。といっても深夜一時を過ぎた頃だった。


 朝にはめっぽう弱いアダムや睡眠時間の長いニノンが寝息を立てるなか、ルカだけは朝六時きっかりに目を覚まし、いそいそと修復作業を再開した。ルカの朝はいつも早い。


「ボンジョルノ! 厚切りのベーコンはいかがかしら」


 ジルダの母に起こされてようやく目を覚ました二人を引きずり、ルカはダイニングテーブルの席についた。トチの木の一枚板でできた大きなテーブルには、焼きたての栗のパンポレンタ、ウッドボウルから溢れそうなほどのグリーンサラダ、スクランブルエッグにフルーツの盛り合わせが所狭しと並べられている。

  久しぶりの客だから少々張り切ったのだろうか、とルカは一瞬考えた。ジルダの母親がぎこちない笑みを浮かべているので、どうもそういうわけではないらしい。


「娘から話を少し聞いたんですけれどねぇ。なんでもあの連作を修復してくださっているとか……」


 話題は唐突に切り出された。口調は穏やかだが、和やかな雰囲気ではなさそうだ。


「はい。おそらく今夜じゅうには終わるかと」

「そうですか」

 ルカはグリーンサラダを口に運ぶ。採れたてなのか、苦みがまるでない。

「あの絵は、特に最後の一枚の痛みがひどくて。修復すればさぞ元の美しい絵画に戻るとは思うんですがねぇ。ジルダが無理にお願いをしたのでしょう?」


 自分の名前が出るとジルダはびくりと肩を揺らし、テーブルの隅の方で縮こまってしまった。


「ほら、うちも周りと同じ寂れた宿屋でしょう。だからその……あまり稼ぎもよくなくて。申し訳ないけれど、修復代金は用意できないの。その代わりといってはなんだけど、宿代は要りませんから」


 ジルダの母は焼きたての分厚いベーコンを各々の皿に乗せると、一気に話を終わらせた。寝ぼけ眼だったアダムは「代金」「用意できない」というワードを耳にしてぱっちりと目を覚ました。ものすごく何か言いたげに、口をひらいたり閉じたりしている。


「あの……」


 そうだ、言ってやれ! と隣からの視線が力強く鼓舞してくる。

 ルカはわかってる、というように頷き返した。


「もともとお代をいただくつもりはありません」

「そうだそう……なんだって?」


 全信頼を寄せて頷いていたアダムが、こちらを二度見した。


「待てよ、それじゃ商売にならねーだろ!」


 同じくこちらを見てくるジルダとその母は、驚いた顔がそっくりだ。


「でも、宿代がタダになるならそれは嬉しいです」

「こらこら無視すんな」と、アダムはルカの前に回り込み、肩を抱く。「考え直せよ、ルカ。世の中にはギブアンドテイクって言葉があってだな――」

「私もルカにさんせーい。だってこんなにおいしい朝ごはんたっぷり用意してくれたんだもん」

「おーい、余計な相づちを打つな!」


 ルカの意外な返答と周囲の騒々しさに、今度はジルダの母が口をぽっかりと開ける番となった。





「さっきはありがとう……ルカお兄ちゃん」


 ジルダは申し訳なさそうに、けれどもしっかりと礼の言葉を述べた。ルカは微笑み、再び修復作業に着手する。

 表面のワニスを溶かす溶剤を湿らせた綿棒をキャンバス上でくるくると転がしながら汚れを取っていく。それなりに大きい画が十枚も並ぶと単純作業も骨が折れる。


「ルカ、お前欲がなさすぎるぜ」

「欲……?」

「もっとさァ、”金持ちになりたい”とかないわけ? 人間なら誰だって富に憧れるもんだろ」

「アダムって絶対修道士じゃないよね……?」


 ニノンは瞳をかねの色に染める少年に疑いの目を向けた。アダムの言動を目にする度、彼が修道士であるという信憑性はニノンの中で急降下しているらしかった。後ろで一つ結びにした長めの髪も、華やかな顔立ちも、慎ましやかな・・・・・・という言葉とは正反対だなとはルカも思う。


「俺は孤児院で育ったんだよ。だから、いくら口が悪かろうが肩書きは修道士なの。っつか牧師おやじのほうがもっと口悪い。オマケに人相も悪いしな」

「なにそれ……本当に孤児院?」


 ヨーロッパの国々と同じように、コルシカ島にも村や町によっては孤児院が設立されている場所がある。教会に所属して修道士になる者もあれば、孤児院で育ちそのままそこで修道士になる者もいる。だからといって、それが口の悪い言い訳にはならないだろうが。


 盛り上がる二人の会話をバックミュージックに、ルカは集中して修復作業をこなしていった。アダムたちが傍らで休憩している間も作業の手は止まらず、昇りきった太陽が西に傾きいよいよ空がオレンジ色に染まり始めた頃、ようやく絵画から目線を外して一息ついた。


「修復完了です。ありがとうございました」


 十枚もの連作に向けて深々とお辞儀をした。終始ゆったりとした作業風景だったのは、トレミーのゆっくりと絵を描くスタイルが作業中のルカに無意識にうつり込んだからなのかもしれない。

 生まれ変わった『アルマゲスト』は昨夜の夜空を切り取ったかのように精巧にキャンバス上に再現されていた。一枚一枚を丁寧に眺めていき、ジルダはついに最後の絵画の前で目線を止めた。


「『星の降る村』が……蘇ってる!」


 そこには夜空を翔かける数多の流れ星が描かれていた。澄んだ湖畔に流星群が映り込む様は、まるで村に星が降っていると言っても過言ではない。幻想的なその景色は、現実に起こったと思い難いほど美しかった。


「でも、どうしてこれが実際の風景を見て描かれた絵だって言えるの?」

「それをこれから証明するんだよ、ジルダ。君が――天文学の力で」


 ルカは三人を手招いた。X線照射装置とよく似た小型のライトを持ち出して、持ち手の付け根にあるスイッチを入れ、目に見えない光を絵画に照射した。すると不思議なことに、キャンバス上に乗せられた絵具とは別の線画が浮かび上がってきた。ニノン達は驚きの声を上げる。


「赤外線をあてるとキャンバスの最下層、つまり線画を見ることができるんだ」


 ルカはキャンバスの右下に焦点を合わせた。やがて浮かび上がってきたのは線ではなく、謎の計算式の羅列だった。


「cosθ……π……これ」


 何かに感づいたらしいジルダに、ルカは目線で「話して」とそっと促した。


「天文学で使う、計算式よ。星と星の距離を出すための。どうしてこんなところに――」


 ジルダははっと息を呑んだ。そしてすぐさま客室を飛び出すと、自室からたくさんの本を抱えて戻ってきた。背表紙には全て天文学に関するタイトルが記されている。ジルダはその中のひときわ大きい一冊をおもむろにベッドの上に乗せると、パラパラとページをめくりだした。

 開かれたページには一面に星空の写真が印刷されている。星と星が線で結ばれ、傍らには星座名、下側には撮影された日付と時刻が明記されていた。星座の早見表だろうか。

 大きな本を両手で抱えると、ジルダはアルマゲストの一作目まで戻り、ページと絵画を見比べながら息つく間もなく話し始めた。


「一枚目、四月、夜の九時、しし座。二枚目、六月、夜の九時、おとめ座。三枚目、七月――」

「おい、一体どうしたんだよ」


 一心に何かを呟くジルダを見てひ弱な声をあげるアダムに、「静かに」とルカは注意した。


「この絵画、すべての星の位置が正確すぎる・・・・・。ルカお兄ちゃん……これは……」

「トレミーさんは星の位置を正確に記すことにこだわってたみたいだから」


 ルカは再度赤外線を絵画にあて、線画を浮かび上がらせた。そこには細やかな縦線と横線で作られたマス目が描かれていた。計算で出した距離を正確に描写するためだ。

 しかし、そこまでして正確さにこだわる理由は何なのか。アダムやニノンは首をかしげた。


「ジルダはもうわかってるんじゃないかな。おじいさん・・・・・の正体に」

「おじいさんだって?」

 アダムは素っ頓狂な声をあげた。

「半分ツタで隠れてたけど、この宿屋の門に『トレミー』ってプレートが貼られていたよ」


 そもそも稼ぎの少ない宿屋に一つの欠けもなく連作がすべて揃うことなど珍しいのだ。トレミーは画家であり、またジルダの祖父でもあった。そして、この家の倉庫に望遠鏡が眠っていたということから考えられる事実はひとつだけだ。


「おじいちゃんは、天文学者だったのね」


 ジルダは両手で口元を覆った。肉親に、自分の夢を叶えたものがいるということ。そしてその信念が絵画に込められ今も残っているということ。心臓のドクドクという音が周囲に聞こえてしまいそうなほどに、ジルダの心拍数は上がっていた。

 ルカは『星の降る村』を持ち出してアダム達に見えるように掲げると、ある一点の空を指差した。


「この星座ってふたご座かな」

「え? ああ、そうだな。ふたご座だ」

「私たちが昨日見たのと同じ形だね」


 ルカはこくりと頷くと、ジルダに大いなる信頼を寄せた目線を送った。興奮と感激に上気したジルダの頬は桃色に染まっていた。


「そう。そうなの」


 今だにバクバクと脈をうつ胸に手をあて、ジルダは気持ちを落ち着かせようとしていた。そうでもしないと喜びの気持ちを叫びだしてしまいそうだったのだろう。


「『星の降る村』は春の終わり頃に描かれた絵。春の終わりはふたご座が湖畔の上あたりに輝く時期だから。そして今日の夜――フィリドーザの夜空に流星群が現れる」


 毎日望遠鏡で夜空を眺め、天文学の本を読みふけり、いつしか星の動きを目で追わずとも理解できるようになっていた。小さな天文学者には、今日の夜一体何が起こるかなどすべてお見通しだった。


「流星群はたまに夜空に現れるけど、でも、おじいちゃんの描いたような――水面に映るほど鮮明なものなんて見たことない」

「そうだろうね」

 そつなく頷くと、「教えろよ、ルカ」とアダムが顔をずいっと突き出してきた。

「どうすればトレミーのじいさんと同じ景色が見れんだよ?」

「今夜メンヒルの遺跡に行けば見られるよ、たぶん……ニノン?」


 ルカは何気なくニノンに視線をやってぎょっとした。彼女の表情は人形のように虚ろで、焦点の合わない瞳はしめやかに絵画を見つめている。

 あのときと同じだ。ポルトヴェッキオでムーランルージュの踊り子のポスターを修復したときと――。


「この絵画から伝わってくるの、イメージが……胸の内から込み上げてくる……喜びと、興奮……まるで隠されていた宝箱を見つけた子どもみたい。絵が綺麗になったからはっきり感じられるようになったのかな。さっきまで、わかんなかったのに……」

「ニノン、お前さ、ポスター見たときも不思議なこと言ってたけど……ビアンカさんの声が聞こえるとか何とか。それってつまり、ほら……あれか? 超能力?」


 アダムの訝しげな物言いに、ニノンは目を覚ましたようにぱちぱちと目を瞬いた。


「ふつうは感じない?」

「少なくともここにいる奴らはな」


 そっか、と頷いてニノンは黙りこくってしまう。どう説明したらいいのか迷っているらしい。


「自分でもよくわからないんだけど、言葉というよりも――絵画からこう、感情がイメージになって頭の中に流れ込んでくるんだよ」

「りんごの絵を見て”うまそうだな”って感じる……みたいな?」

「うーん、違うかな……」


 それはモデルになった人物の感情であったり画家の想いであったり様々だが、要するに強い気持ちの念が絵画に染み込んだものではないか、とニノンは説明した。


「ルカが修復したこの絵から伝わってきたのはね、トレミーさんはこの世のものとは思えない美しい夜空を、確かにその目で見たんだっていうこと。その瞬間の感情がこの絵の中にたっぷり詰まってるから、わかるの。だからね、ジルダ」


 ニノンは立ち竦む少女の前に屈み込むと、両手でやさしく肩を包み、にっと笑った。


「星の降る夜は存在する。この村には、世界に誇れる綺麗な景色が残ってるよ」

「ニノンお姉ちゃん……」


 ジルダの声は波打っていた。そこへ、「そうだ」と何かを閃いたようにアダムが呟いた。


「いいこと思いついたぜ」

「……アダムお兄ちゃん?」


 すっくと立ち上がったアダムは座り込む残りの三人を呼び寄せて、客室のドアを開け放つ。


「この村を救う方法さ」

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