十三

 二日ほどして、アナンは久しぶりにクリスと二人きりで会った。だいたい、わずか数軒隣にクリスは住んでいるというのに、慰霊祭が終わって以来、不思議なほど顔を合わさなかった。アナンは朝早くから農作業に出て、夕方まで家に帰らなかったせいもあるだろう。クリスも最近は家で裁縫に余念がなく、あまり外に出ない日々が続いていた。もっとも、顔を合わすたびにあちらこちらふらふらと遊びまわっていては、これから結婚するというのに全く責任感のない人間だと思われてしまう。

 二人はいつものあの丘に行くことにした。アナンにとっては数日前の夜、あのノートを読んだとき以来だ。それまでアナンの心を落ち着かせてきたあの景色の記憶は、今彼の心の中でファーストビジターの恐ろしい事件と重なり合い、何かしら不穏な気配を内包していた。それもあの夜の、不思議な月の光に照らされた景色のせいだ。

 しかし、もう一度行ったときには、あの日の妖しい景色の面影は全くなかった。アナンは少しほっとした。

「──そういえばアナン、変な噂があるのよ」

「変な噂って?」

「アナン、カレルと一緒に北の森に行って、ファーストビジターの遺品を発見したんだって?」

「え、あっそうだけど」

「アナン、あなたがそこから大事なものを盗んだっていうのよ」

 ついにアナンは盗人にされてしまった、と思った。

「僕は何も盗んじゃいないよ」

 アナンはとっさにそう言った。もう、アナンはあのノートのことを封印するためには、こう言い続けるしかないと悟ったのだ。

「だけど、カレルがそう言っているのよ。何か薄いノートのようなものを持ち出したって」

 カレルを何とかしなければいけない。アナンはそう思った。恐らく、アーロンは長老の会合などで、アナンがノートを持ち出した事実はないと弁明しているに違いない。

 もし、ザハールやカレルがまだアーロンの長老就任について恨みがましく思っているのなら、アナンがノートを持ち去ったことは、我々親子を叩く絶好の口実に違いない。アナンはカレルに裏切られた気持ちでいっぱいだった。もし、本当にこれからもアナンと付き合っていくつもりなら、こんな噂を流す前に、まずアナンに会いに来てノートのことを問いただすべきだ。恐らくカレルにとってノートの内容などどうでも良いことなのだ。アナンがノートを持ち出し、その内容を秘密にしている。そして今、それを持ち出したことさえ否定しようとしている。これを糾弾しない手はないだろう。

 しかし、良く考えてみればカレルやザハールの言っていることの方が正しいとも思われる。アナンは、村の掟を犯して、島で見つかったファーストビジターの遺品の一部を自分のものにしてしまったことになる。そして、これまでの村の慣例からいえば、その罪は問われなければならない。

 カレルに会いに行って、彼らを納得させることが出来るだろうか。アーロンのように、何となく真実を察してもらおうか。しかし、もうアナンは彼らを信用していなかった。そんなことを話しても、話の分かる連中だとは考えられない。特にザハールは。

 そうなると逆に命取りだ。そこに書いてあったことが言えないので、アナンが事実を公にできないなどと話が広まってしまえば、あのノートに書いてある内容そのものが人々の関心を集めてしまう。村の人々は、その内容に興味を抱くだろう。そして、それが公開されれば、それはアナンの想像では大変な事態をこの村に起こしかねないのだ。


「──クリス、僕を信じてくれるよね。僕は何も悪いことはしていない。カレルとはまた近いうちに話をしてみる。何か誤解をしているんだ。もうそんな根も葉もない噂を立てないよう言ってこなきゃ」

「アナン、疑うわけじゃないわ。でも、アナンがノートをもって歩いているのを見たって人もいる。私には正直なことを言ってほしいの。だって返しさえすれば事は解決するんじゃないの」

「クリス、僕を信用しないのか!」

 アナンは声を荒げた。まさか、クリスが自分の言うことを信用してくれないとは思わなかった。逆に言えば、相当噂に確証性があり、村の誰もが、アナンが盗んだと疑っていないということなのかもしれない。クリスまでもがその噂を信じているのだから。もっとも、それは仕方がないともいえる。噂は、実際のところ真実であったのだから。

「──アナン、あなたは事の重大さをわかっていないわ」

「どういうことだよ」

 クリスはもういつものあの優しさを湛えていない。彼女の眼差しは厳しかった。

「ザハールは公然とアーロンの批判をしている。このままだと村を二分して争うことになっちゃうって父さんが言ってたわ」

 アナンはもうこのままクリスと一緒に話しているのが苦痛だった。もう帰ろうと言い出して、この件は何とかするよとクリスに言い聞かせた。


 家に帰ると、クリスが言っていた事態が、かなり深刻化していることにようやく気付くことになった。西三番区の男どもがアナンの家の前で集まっている。アナンがクリスと帰ってくるところを見つけると、彼らは口々に叫んだ。

「おいアナン、ノートを出すんだ」

「ちょっと待ってください。僕は何も盗っちゃいません」

「そんなことが問題じゃないんだよ、アナン」

「俺たちゃ、あんたのことを信用してるさ、アナン。あんたは確かに何も盗んじゃいないかもしれない。しかし、今はザハールの言うことを聞いたほうがいい。小さな罪ならまだ傷口は小さくて済む。いまアーロンに長老から降りてもらうわけにはいかないんだ」

 アーロンが長老から降りるってどういうことだ、とアナンは思った。そんなところまで、アーロンは追い詰められているのだろうか。アナンをかばうことで、アーロンまで罪に問われてしまう。まさか、こんな事態になるとは思ってもいなかった。

 村の人にとっては、そんなに揉めるのなら、ノートを盗んでなくても、すいませんでした、と謝るほうが今の状況では正しいと思えるらしい。

 しかし、それは無理だ。現実にアナンはノートを持っている。すいません、というならノートを提出しなければいけない。贋物のノートを作ったらどうだろう、と一瞬アナンは考えたが、あのようなものをこの島で作るのは不可能だ。仮に作ったとしても、カレルがこれは違うと言えば終わりだ。カレルはアナンが持ち出すノートをしっかり見ているはずだった。


 アナンはまさかこのノートがこんなにも重大な状況を引き起こすなど、思ってもいなかった。アナンだけが黙っていれば、このノートに書かれた秘密は永遠に語り継がれないはずだった。

 もし、このノートを持っていることを自白したらどうなるだろう。恐らく、アナンは軽く罪に問われるかもしれないが、それは形式的なものに過ぎないだろう。アーロンが長老の座を失うということもないはずだ。それなら、いっそそのようにしてしまえば、とアナンは思った。そうすれば確かにアナンもアーロンも助かるだろうし、しばらくすれば平穏な暮らしに戻るかもしれない。

 しかし、アナンはあの日記の後半に書いてあったアンディのことを想い出した。信念を曲げたことで、精神のバランスを失いかけたアンディ。そのアンディの出した結論は、自殺することだった。信念を貫くというのはそれほど厳しいものではあるが、信念を曲げることにもそれ相応の苦痛があることを忘れてはいけない。

 家に帰ってから、アナンは自分のとるべき道を冷静に考えることにした。

 そのためには、大前提を決める必要がある。アナンにとって大前提は、ノートに書いてあったファーストビジターが起こした惨劇を、未来永劫決して村の人々に伝えてはならない、ということだ。あのノートを村人が見ることになれば、村はその精神的な支えを失い、存亡の危機に陥るかもしれない。それによってアナンは助かるかもしれないが、そのために失う村の損失は大きすぎる。アナンは自分が犠牲になっても、この村が今までと同じように平和な場所であってほしいと心からそう願っていた。

 そして、それを達成するための究極の方法は……ノートと、その内容を知ってしまったアナンが、この島に存在しなくなることである。アナンの気持ちはついにそこに行き着いてしまった。

 アナンもまた、アンディと同様に死ぬしかなかった。そう考えると、アナンは身震いしてしまった。本当に自分は死ななければならないのだろうか、その考えがアナンの頭の中を何度も何度も駆け巡った。


 死ななくてもここからいなくなればいい、ふとそんな考えがアナンの頭に思い浮かんだ。

 そう考えると、アンディの残した日記は、最後の悲惨な結末を除けば、アナンにとって刺激的なキーワードに満ちていた。シミック教授が世界を憂い、もう一度文明の進化時計の針を五千年元に戻すことから、この島の歴史は始まったのだ。つまり、五百年前の文化は、今の我々の文化と比べて五千年進んでいたことになる。

 あの紫の悪魔の脅威も、人間自身によって作られたと書いてあるではないか。海や空をエンジンの力で駆け巡る船や飛行機といった機械のこと。そして、遠くで見たり話したりしたことを、伝えてくれる電話やテレビといった機械のこと。アナンは、村に伝えられているそれらの機械に、そして日記に書かれていた機械に憧れた。恐らく、アナンが考えている風車などというものは、彼らの文明にとっては全く取るに足らない程度の機械かもしれないのだ。

 島の外にはまだ紫の悪魔がはびこっているかもしれない。しかし、逆にもう紫の悪魔など完全に消え去って、この世界のどこかで別の文明がひっそり暮らしているのかもしれない。アナンはその可能性にかけてみようかと考え始めていた。

 全く何も当てはなかった。ただ、どうせ死ぬのであれば、この島から出てみたらどうか、とアナンは思ったのだ。何の陸地も発見できずに海の上で死ぬかもしれない。あるいは、どこかの島を発見できても、紫の悪魔にやられるかもしれない。仮にそこで生き抜いたとしても、他の人間とは死ぬまで会えないかもしれない。しかし、もはやアナンにそんなリスクを恐れる必要はなかった。アナンはこのゴルトムント島で一度死ぬのだ。死のうとしている人間にもはや何の怖いものはない。

 そして、ついにアナンはアンディの残した日記を持って、この島から去ることを決意したのだった。

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