十一

 九月八日

 眠れない。

 寝ようと思っても目は冴える一方だ。

 そして、眠ってもあの恐怖の夢が襲ってくる。


 さすがに一日の夜は、あまりの疲れに私は泥のように眠ったのだ。しかし二日の夜、私は村人が血だらけになったまま、刃物を持って私を襲う夢を見た。それ以来、目が覚めていても、私の意識はあの惨劇を繰り返し思い出させる。いつ、どこにいても、村人に向かって銃を乱射したあの光景が私の脳裏に再現される。

 いったいどういうことだ。

 理性ではあり得ないとわかっていても、後ろから不意に襲われるかもしれないという恐怖が絶えず私に襲い掛かってくるのだ。その度私は後ろを振り向かねばいられなくなる。誰かが私を殺そうとしている。誰、ユディ? ああ、あのユディの凄まじい形相が今度は頭から離れなくなる。

 私の精神はこんなにも脆かったのだろうか。他の皆は大丈夫なのだろうか。もちろん、あれ以来、皆は恐ろしく元気を無くしてしまった。苗木だって順調に大きくなっているというのに、それを喜ぶこともなく、ただひたすらいつもの仕事をこなしているように見える。

 時が解決してくれるのかもしれない。

 残念ながら私は睡眠薬のようなものを持ってこなかった。何かしらの精神安定剤があれば、少しは楽になるのかもしれない。でも、それだって所詮、文明の利器だ。これから我々が否定していこうとしているものの一つなのだ。


 九月十五日

 私の不眠症は尋常では無くなってきてしまった。

 ここ一週間ほど、まともに寝ていないのだ。さすがに、数日ほど前から周りの皆も私の様子がおかしいことに気付いた。食欲もあまりないので、食事を取らなくなり、わずかのうちに随分やつれた感じに見えるようになったらしい。それに何か話しかけても、上の空だったり、声に芯のある返事が返ってこなくなったらしい。

 もちろん自分にも自覚症状はある。

 人と話すのが億劫になってしまった。たわいもない話で笑ったりすることが、無性に腹立たしく感じるのだ。もちろん、今の暗い状態から皆が抜け出すには無理にでも楽しい雰囲気を作らねばならないだろう。特に、ピーターやキャシーは、少しでも皆を盛り上げようと無理に面白く振舞っているのが良くわかる。その度、私はその雰囲気に耐えられなくなって、一人で逃げ出してしまうのだ。

 キャシーは私のそんな様子を見て、何回か私に身体の具合を聞きにやってきた。しかし、キャシーのその不器用な優しさは、私の気持ちを包み込むほどのものにはどうしてもならなかった。今は母のようなもっと絶対的な優しさが私には必要なのだ。中途半端な優しさは、結局私をイライラさせるだけだった。そして、私はキャシーも避けるようになってしまった。

 キャシー、本当にごめんなさい。

 君は何にも悪くないんだ。私は君が嫌いなのではない。むしろ好意を持っているとさえ言える。でも、今の私の精神状況では、私を傷つけないでいることで精一杯だ。それが人を傷つけることになっても、今の私にはそこまで考える余裕がない。


 あれから私は、自分が行ったことの意味について繰り返し反芻している。

 村人五十人は本当に殺されねばならなかったのだろうか。もし私たちが彼らを殺さねば、いずれ食料が無くなっただろう。そのとき、島の外に食料を調達しに行くことができるだろうか。ユディが乗ってきたボートがある。しかし、もう島の外の状況はわからない。完全に紫の悪魔に汚染されているかもしれない。そのような状況で、食料を調達することは可能であろうか。これを期待するのは危険な賭けであるのは確かだ。

 もっと我々はお互いしっかり話し合って、共存の道を共に探るべきではなかったか。少なくとも、お互いが感じていた相互不信を払拭すべきではなかったか。しかし、言葉の壁は大きい。このような微妙な環境の中で、明確なコミュニケーション手段を持たないことはどうしても不信の種を撒きやすくなってしまう。話し合いの場が結局、お互いの気持ちをさらに先鋭化させてしまう可能性だってあるだろう。

 いっそのこと、我々は食料が無くなったら共に飢え、力の無くなったものから死ぬべきではなかったか。それでも何人かは生き残ることが出来るのではないか。しかし、農業の収穫が無ければ、いつかは全員が死ぬことになるだろう。魚は、そして野草は、食べられないか。人の数が少なければ何かしら食べて生き残ることは出来なかったか。

 そもそも、我々は一体何者なのだ。何の権利があって、この島に住むことが許されたのだ。船を破壊し、この島を孤立させる権利が我々にあったのか。ましてや、この島の人々を全員殺す権利が我々にあったのだろうか。ここに元々住んでいたのは彼らではなかったか。文明の進化を元に戻すなら、彼らではいけなかったのか。彼らに、島の外に出ないよう教え、彼らに自給自足の暮らしをさせるように仕向けられなかったか。しかし、老人ばかりのこの島ではそれは難しかったかもしれない。

 シミック教授が言っている、文明を五千年元に戻すのは何のためか。戦争と欺瞞に溢れたこの世の中をもう一度作り直すためではなかったか。人々の憎しみが武器を作らせ、そのあげく罪の無い人たちが殺され、そしてついに人類を滅ぼすほどの力を手に入れてしまった。ならば我々は人類が犯し続けた罪を受け入れ、静かに滅亡するべきではなかったか。人類を正しい道に戻すために、大量に人を殺さざるを得なかったこの矛盾はどこから生じたのか。

 矛盾だ。私たちの行動は矛盾している。

 いまさら教会を建てて何になる。それで罪が贖えるのか。もし、我々の計画が成功して、ゴルトムント島の文明がこれから何百年も続いたとしたら、私たちの行為は許されることになるのか。この島の文明の始まりがこのような血塗られた惨事から始まっていることは、永遠に隠すべきことなのか。誰かが正しく伝えねばならないのではないか。

 シミック教授、私はあなたを憎みます。憎んで、憎んで殺したいくらいです。

 しかし、あなたを殺しても、もはや時は遅すぎる。教授を殺すということは我々の未来を奪うということと同じだ。結局ここに来ている皆の命を奪うことと同じなのかもしれない。

 本当に憎むべきなのはシミック教授ではないのかもしれない。全ては私自身が同意してきたことなのだ。自分が納得しなかったら辞めるべきだったのだ。自分がシミック教授に対して倫理的、道義的に感じてきた不安感は、ついに最悪の形で実現してしまった。私自身がこの手で殺人を犯すなど、ああ、今までの私には信じられなかったことだ。


 血だらけの村人が、今も私の命を狙っている。どこかに潜んで、この恨みを晴らそうとしている。こうして日記を書きながら、私は何度も後ろを振り返る。誰かが、私の背後で斧を振り上げていないか、それだけが気になる。

 ああ、誰か、助けてください。

 このままでは私は狂ってしまいそうです!


 九月二十日

 ついに今日は皆にとって待ちに待った田植えの日だ。

 苗は立派に育った。

 我々が作り上げた水田は、苗が植えられるのを今か今かと心待ちにしている。

 私は、皆には体調が悪いからといって、今日田植えに行くのは断った。無論、皆は私がかなり弱っていることを知っているから、ゆっくり休むように言ってくれた。今頃はキャシーも泥だらけになって、ワイワイ言いながら田植えを行っているだろう。想像するだけでも、なんて素晴らしい光景なんだ。


 私は死ぬことにした。

 皆に宛てた遺書はたった今書き終えた。そこには、何一つ恨みつらみなどは書いていない。ただひたすら、皆の世話になったことに感謝の意を表したものだ。

 しかし日記だけにはもう少し正直になろうと思う。

 私は二日前に死ぬことを決心した。私はようやく、自らの信念を曲げたためにここまで自分が苦しんでいることに思い至ったのだ。

 私は、島の人々を殺すべきではなかった。少なくとも私だけはその意見に反対すべきだった。今となっては、ブラウン助教授が発言したあの雰囲気で反対意見を言うのは難しかっただろうし、言った場合に私自身にどのような制裁が加わったか想像も出来ない。しかし、私はそれでもそう主張するべきであった。

 また、全員で村人を殺すことを決定した後でも、自分はその計画に加わるべきではなかった。いや、私が反対意見を主張するのなら、皆の和を乱さないように即刻島から退去すべきだった。

 それが出来なかったのは私の弱さのせいだ。私は自らの信念を無意識に押し込めて、自分の弱さを正当化し続けていただけだったのだ。

 しかし、私の信念は正直だった。押し込めたはずの信念はどこまでも私の無意識内で抵抗し続け、ここ二週間ほど私を苦しめ続けた。しかしついに私は、私の信念に気付いた。そして、私の信念の声に基づき、私は責任を取って自ら死を選ぶことにしたのである。

 そのように決心した二日前から、驚くほど私の気は楽になった。久しぶりに六時間も眠ることが出来た。もう村人の亡霊に悩まされることがなくなった。私の信念はついに勝ったのだ。

 何と皮肉なことだろう。自分が死ぬことを決心したときから、私の狂気は収まった。これこそが罪を贖うということなのだ。私は自分自身の命をもってしか、村の人々の命を贖うことができない。それが私の結論だ。


 今日は皆が田植えでいなくなる。誰にも気付かれることなくゆっくりと儀式を行うにはもってこいの日である。ここに来たときに持ってきた大学の教科書やこの日記を箱に詰め、この箱を台にして首を吊ろうと思う。なるべく見つかりにくいように島の北側の山の、森の奥まで行くのがよいだろう。私の痕跡を全てこの島から消し去るのは、シミック教授へのささやかな敬意のつもりだ。

 私の存在が永遠にこの島で語られることがないことを、私は祈る。


 終

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