第三章:氷の園に這い出る悪魔 1

 かつて、広大な氷の大地で覆われていたグリーンランドは、開発に開発を重ね、世界でも有数の都市に変貌していた。ASUを領空に置く代わりに、巨額の資金と魔法資産を融通してもらったのだ。これにより、グリーンランドはデンマークから完全なる独立を果たし、一挙に先進国の仲間入りを果たした。


 いまではビルが立ち並ぶ立派な先進都市だ。都市内部に入れば、Sot機器による防寒結界によって温度が一定に保たれており、極寒の地とは思えないほど快適だ。そのせいか草木は青々と茂っていた。


 グリーンランドの首都ヌーク郊外に邸宅があった。その一室、広大なリビングのソファーにフェリクスはゆったりと座っていた。


 室内はその広さ反して、さして家具は多くはない。あってもどれも質素なものだ。ASU魔導師は高給取りだ。そして多くの魔法使いはプライドが高く見栄っ張りだから、調度品も高価なものを揃えることが少なくない。フェリクスはその資金を贅でなく、不動産につぎ込んだ。すべてはいずれ必要となるであろう説話魔導師のためだった。


 フェリクスが立ち上がる。彼の周囲には三冊の書が、この世のなによりも昏い輝きを放っていた。


「エルヴィン、ニコラ、カスパールよ。お前たちの命、確かに預かった」


 フェリクスは己が命を散らした配下たちへと黙祷を捧げる。A級を超える最高位の魔導書の中には、人の命を差し出すことでようやく幻想を召喚することができる危険な代物がある。彼が使用しようとしているのは、まさしく命を消費することで使える正真正銘のグリモワールだ。


 目を開いたフェリクスが顔だけを背後へ向ける。そこには魔法転移されてきた円珠庵の姿があった。彼女は何が起きたのか分からないのか、おろおろと視線をあちこちへ飛ばしていた。


「もはや時間がないゆえ、多くの説明はできん。これから俺はASUを直接叩く。この《レメゲトン》を使ってな」


「なにが、どうなってるんですか……?」


「お前はASUの名目上は攫われた被害者だ。ゆえに、連れてきた。世話人を用意している。ASU警備部が来るまではゆるりと過ごすが良い」


 フェリクスはそれだけ言うと、邸宅を後にした。玄関を出ると外は真夜中だった。日本とは時差が十一時間あるのだ。いまは宵闇が支配しているが、一か月後には太陽が沈まぬ白夜になるだろう。逆に、二か月前までは太陽が一切昇らない極夜だった。


 街灯に照らされた邸宅の前には、説話魔導師達が集まっていた。彼を慕って、民間企業から抜け出した世界中の説話魔導師らだった。その数は五十名を超える。当然ここにいる者たちがすべてではない。グリーンランドに来られなかった説話魔導師もいる。彼らは世界中でこの状況を見守っているだろう。


 そして、集う説話魔導師の中にひとりだけ一般人が混じっていた。


 杉下弘樹だ。アイシアによって感電させられ気絶していた彼も、フェリクスの魔法転移でグリーンランドへ移動していたのだ。


 弘樹は全身の服を焦がしながらも、説話魔導師に治癒されて無事だった。瞳にはもう憎悪以外の光が見えないほどだった。その様を見たフェリクスが問いを投げる。


「人間よ、まだ憎悪は晴れんか?」


「当たり前だ。俺はまだ戦う。お前と同じように、死ぬまでASU、そしてISIAと戦う」


「目的は果たしたのではないのか? 先の東京の一件でもISIAに対しては十分な打撃を与えたろうに」


「まだだ。まだ足りない。奴らを潰す。完膚なきまでに。あいつらは俺たち人間とは一生分かり合えない」


「我らもその魔法使いだぞ?」


「分かってる。だからこれはただの利害関係だ」


「ひとりで何ができる? 武器もラファランの娘に壊されたのだろう?」


「俺の命を使え。魔導書とやらの中には、命を使うやつもあるんだろ?」


「既に犠牲は事足りている。我ら同胞が三名命を捧げた」


 弘樹が顔を真っ赤にして怒鳴る。


「なら俺はどうすればいい⁉」


「見届けろ。その目でしかと真実を見ろ。お前たち人間社会にも光と闇が存在するように、魔法使いにも光と闇がある。片方だけを眺めていては何も変わらぬぞ?」


「なら、なぜ俺たちと手を組んだ⁉ お前たちだけでも全部できただろうが!」


「同胞らと同じ目をしていたからだ。すべてを憎む目だ。俺はその目の闇を晴らしたかった。こんな方法しか取れぬのは俺が凡愚ゆえ。戦い以外に道があれば、それも良かっただろう」


「後悔しているっていうのか⁉」


「まさか。戦こそが俺の花道よ。それに悔いはない。だが、人生はそれだけではなかろう。このような修羅の道、同胞らに歩ませることに後悔はある」


「なにを言いますかフェリクス殿!」


 いままで黙していた説話魔導師のひとりが声を上げた。


「あなたは我らの希望です! 希望があるからこそ生きられたのです! フェリクス殿が立ち上がったとき、我らは歓喜したのです! たとえそれが死の谷の影を歩むことになろうと、フェリクス殿がおられるのならば我々は万の勇気を得たも同然です!」


 フェリクスが笑む。


「聖書の詩編か。説話らしい言い回しをする。良かろう、結構だ! これより我らはASU本部に弓を引く! 死出の花道よ。精々楽しもうではないか!」


 説話魔導師らが怒号を上げる。


 フェリクスが風を纏う。傍には風の妖精エアリアルの姿があった。彼の周囲を魔導書が燐光を放ちながら回っている。


「行くぞ同胞らよ!」


 フェリクスの身体が急激に上昇した。説話魔導師らもAWSを使用して彼の後ろ姿を追う。


「さあ、世界に数多と散る茶番。そのひとつくらいは片付けてみせようぞ!」


 グリーンランドの宵闇に、フェリクスの決意がしたたかに響いた。




 ◇◆◇




 秋葉原の手近なビル屋上に降りた弓鶴は、抱いたままのアイシアを離した。彼女は端末でどこかとやり取りしている。恐らくASUかISIAだろう。対エルヴィン戦でかなりの気力を消耗したせいで頭がふらふらしていた。


 しばらくして、連絡を終えたアイシアが弓鶴に声を掛けた。


「大丈夫? ISIAとASUに連絡を入れておいたよ。警察も呼ぶように言ってあるから、反魔法勢力は捕まえられると思う」


「で、状況はどうなってるんだ? 結局エルヴィンは倒せたのか?」


「端的に情報を伝えるよ。関東支部、天王洲側の戦闘は終結。戦線はグリーンランドに移った」


「はあ?」


 いきなり場所が飛び過ぎだ。突拍子が無さ過ぎて理解するのに時間が掛かる。アイシアが説明を続ける。


「フェリクスは直接ASU本部を叩く気だったみたいだね。こっちは完全に陽動」


「円珠の身柄は?」


「連れ去られたまま。たぶんグリーンランドにいるね」


「こういう場合はどうするんだ? グリーンランドの警護課に依頼するのか?」


「通常はね。ただ、今回はそれどころじゃない。ASUの主戦力の大半が日本に集結してるところに戦線の移動だから、現場がかなり混乱してる。グリーンランド側は当然ASU本部を守るから、警護課も総動員だと思うよ」


「つまり、動けるのは俺たちだけか」


 アイシアが頷き、深刻な顔をする。


「そこで問題。転送室がいま完全にパンク状態」


 嫌な理解が訪れた。転送室が使えないということは、つまり、グリーンランドに行けないということだ。暢気に飛行機で行くわけにもいかない。フェリクスの策に完全にしてやられたという訳だ。


 ふっとアイシアが微笑む。


「大丈夫、お父さんに話を通した。どっちにしろ重犯罪魔導師対策室が動く案件だから、一緒に連れてってもらおう。いまISIAを通して日本とグリーンランド両政府に転移許可を取ってる最中みたい」


 そこまで言って、アイシアが音も無く銃を握る右手を上げた。銃口が弓鶴の額に照準される。


「もう、弓鶴には関係がないけどね」


 一瞬、なにをされているのか分からなかった。


 アイシアの人差し指が引き金に触れる。彼女が引き金を引けば弓鶴は額を撃ち抜かれて死ぬ。彼女が悲しそうな瞳で彼を見つめていた。


「弓鶴、君は自分がやったことをちゃんと理解してる?」


 ああ、と弓鶴の胸の内に重い理解が落ちた。


 ASUにおいて、命令違反を犯した者は即座に処刑だ。つまり、ブリジットの命令を無視したから、代わりにアイシアが弓鶴を裁こうというのだ。さすがに助けたつもりの相手に命を握られるのはいい気分ではなかった。


「理解はしてる。だが間違ったことだとは思ってない」


「君、感情で動き過ぎだよ」


「人ってのは感情で動いてるんだ。緊急時はどうしたってそうなる」


「そうならないように、どこも緊急時用のマニュアルがあるんじゃない?」


「マニュアルに従って人が死ぬのを黙って見ているくらいなら、俺はそんなマニュアルは破り捨てる」


「それで自分が死ぬとしても?」


「できれば死にたくないけどな」


 アイシアが魔法を解いて拳銃を消し、泣き笑いを浮かべた。そして、そのまま弓鶴を抱き寄せた。急な彼女の行動に困惑する。ただ、女性らしい柔らかさと温かさだけ全身に灯る。


 頬を寄せたアイシアが弓鶴の耳元で柔らかく囁く。


「ありがとう。助かったよ。ホントは処刑だけど、聞かなかったことにしてあげる」


 弓鶴は思わず苦笑した。厳格なアイシアらしくない対応だ。


「どっちにしろブリジットに殺されるだろ」


「班長命令で処刑を取りやめるように言うよ」


「お前、出向中だろうが」


「まあね。でもなんとかする。パートナーだからね」


「なら頼む。まだ死にたくはない」


 うん、とアイシアが頷く。


「これから私はISIAに戻らないといけない。今回の私の戦場はここじゃなくてメディアだからね」


「そっちも大変そうだな。大人気だしファンもかなりいるだろ」


 アイシアの苦い笑い。


「それは勘弁してほしいなあ。知らない人に好意を向けられるのはあんまり好きじゃないから」


 弓鶴の背に回されたアイシアの腕に力が篭った。ようやく抱きしめられている異常さに理解が追い付く。心拍数があがる。こんな姿を彼女のファンに見られたら殺されるんじゃないかと変な方向に思考が回った。


「ひとつ、言っておくよ」


「なんだ?」


「たぶん、弓鶴のことが好きになったよ」


 瞠目する。言葉の意味を咀嚼して再び驚く。身体がびくんと動いたせいか、アイシアが楽しそうにころころと笑った。


「うん、正確には違うかな。やっぱりずっと前から好きだったのかな。初めてだからよく分からないや」


「あやふやな告白だな」


「魔法使いだからね。告白の仕方もきっとおかしいんだよ」


「そう言われれば納得するしかないな」


「うん。自覚できたからとりあえず言ってみた」


 そういえばと弓鶴は思い出す。アイシアは突発的に行動を起こした過去がある。中学生でありながら、父に憧れ突如家出をしてフランスの外人部隊へ入隊したことがあるのだ。彼女は思い立ったら即行動する性質がある。今回の告白もたぶんその類だ。


 とはいえ、これから大規模な戦場となるグリーンランドへ向かおうというのに、急に色恋沙汰の話になって完全に頭が切り替わらない。


「悪いがすぐには答えが出ないぞ?」


「分かってる。お互い忙しい身だからね。でも、弓鶴はまだ私のことが分かってないね」


「どういうことだ?」


 アイシアが回した手を弓鶴の肩に持っていき、顔を離して目を合わせた。彼女と見つめ合うことになって、かっと顔が赤くなった。彼は色恋沙汰に縁がなかったから、女性とこんな距離感で話すことは初めてだ。だからどういう顔をしたらいいか分からなかった。


 とろりとアイシアの瞳が蕩け、弓鶴に顔を近づける。彼女の端正な顔から目が吸い寄せられて離せなかった。


「弓鶴、私はね、欲しいものは自分で取りに行くんだよ」


 唇に温かい感触。全身に電流が走ったような衝撃。背筋がぞわぞわして弓鶴は思わず目を見開く。顔を離したアイシアがふわりと笑った。


「うん、こんな感じなんだ。もうちょっと早く知りたかったかな」


 弓鶴を離したアイシアが一歩離れる。


「そろそろお父さんが来る頃だね」


 アイシアが口に出したところで、ラファランとアリーシャが転移してきた。


 ラファランが弓鶴を見て目を細めた。顔を真っ赤にして放心している男が突っ立っていれば気にもなるだろう。


「なにかあったのか?」


 ラファランの問いにアイシアが首を振る。


「なんでもないよ」


 そうか、と返したラファランがアイシアへ視線を向ける。父親の目ではなく、ASU超高位魔導師としての強い光を宿した目だった。


「これから俺たちはグリーンランドへ飛ぶ。ブリジットたちはジャンヌが連れていく手はずだ。お前はISIAへ向かって世論の風向きを変えるんだ」


「分かってるよ。白昼堂々騒動起こしちゃったからね。なんとかする」


 アイシア、とアリーシャが頬に触れる。


「無事でよかった。まずは着替えて下さい。そんな姿で表に出ては駄目ですよ」


 はっとしたアイシアが自分の身体を見下ろす。服が血に塗れているのだ。こんな姿を観衆にさらせば確実に魔法使いのイメージは落ちる。


「広報はイメージが大事です。こんなこともあろうかと服を持ってきたので、後でちゃんと着替えて下さいね」


「お母さんが選ぶ服って紺色のものばっかりだからなあ」


 ぶつくさと文句を言いながらも、アイシアはアリーシャが差し出した紙袋を受け取る。そういえばと、ようやく現実復帰した弓鶴は思い出す。いまはASUのローブ姿のアリーシャだが、私生活では基本的に紺のワンピースを愛用しているのだ。むしろそれ以外の姿を見たことがなかった。


 紙袋の中を覗いたアイシアが目を剥いた。


「これお母さんのセンスじゃない」


「アイシア、お母さんはセンス悪くないですよ? 単に昔の癖が抜けないだけです」


 呆然と呟くアイシアに、アリーシャは微笑みながらも怒りの孕んだ声を投げる。


 こほん、とラファランが咳払いをした。さっさと行くから無駄に時間を使うな、ということだろう。


「じゃあ行くか。弓鶴もいいか?」


「はい、頼みます」


 ラファランが魔法を展開する。因果魔法による魔法転移は、《因果改竄》により“ある地点に自分がいるはずだ”という結果を無理やり世界に押し付け、現在位置の因果関係を改竄することで結果として瞬間的に地点移動をする。相対距離と方向さえ分かっていれば、どこであろうと転移できる便利な魔法だ。


 視界が入れ替わる瞬間、アイシアが弓鶴に微笑んだ。


「必ず帰ってきてね」



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