第一章:日向の苦悩/取り残されし者の絶望 8
緊急連絡を受けた弓鶴とブリジットは、近場のホテルからAWSで円珠家へ向かった。通信は繋がりっぱなしであったため、状況は理解していた。ラファエルとオットーがやられたのだ。そして相手は第八階梯魔導師のエルヴィン・レーヴライン。ASU警備部特殊犯罪課きっての凄腕の臨戦魔導師だ。
つまり、今回の敵は身内だ。理解ができない。弓鶴は即座に無駄な思考を放棄。
円珠家を眼下に見下ろす。全員が書物を持った説話魔導師と思われる魔法使いたちが円珠家を取り囲んでいた。数は五人。エルヴィンを含めれば総勢六名だ。
「弓鶴、突入するぞ!」
ブリジットは既に魔法による変身を解いて本来の姿に戻っている。彼も本気ということだ。
空中を足で叩いて弓鶴たちが急降下。説話魔導師達がすぐさま気づく。全員がそれぞれ持つ書物から燐光が溢れる。
「遅いわ!」
ブリジットが叫んだ直後、説話魔導師達が勢いよく地に伏した。元型魔法の《観念力動》で真上から衝撃波を放ったのだ。
第八階梯になるブリジットの魔法発動速度は圧倒的だ。弓鶴でも初動が見えない。
地面に降り立った弓鶴が、苦痛でくぐもった声を出すひとりを取り押さえ、錬金魔法で手錠を作って両手両足を拘束する。これを全員分行おうかというところで、声がした。
「援軍が早いね。やっぱりASUは優秀だ」
振り返ると、円珠家の玄関から堂々と出てきたエルヴィンと、脇に抱えられた円珠庵が立っていた。彼女は申し訳なさそうな表情を弓鶴たちへ向けていた。
「エルヴィン・レーヴライン、魔法使い候補者を連れ去ろうなど一体何のつもりだ。犯罪者に身を堕とすつもりか?」
ブリジットがエルヴィンに問う。エルヴィンは優雅に微笑んだ。
「この世の地獄をボクらの楽園へと変える。そのために説話魔導師を保護して回っているだけだよ」
その意味にぞっとした。ブリジットの顔色が変わる。
「まさか、ASUに反旗を翻すつもりか⁉」
「かつてもそうだった。世は説話体系を冷遇し過ぎたんだ。なら、こうなるのはもう自明の理だろう?」
ふいに、周囲がにわかに騒ぎ出した。ここは住宅街だ。隣接する家に住む人々が顔を出して覗き始めたのだ。
「全員逃げろ! 戦場になるぞ!」
弓鶴が叫ぶと、野次馬たちが騒然となる。野次馬たちは、弓鶴が着ている深紅のローブで魔法使いだと気づいたのだ。そして、魔法使い同士の戦いがどれだけ激しいものか、去年のアーキ事件で知れ渡っている。全員がパニック状態となった。
その様を眺めていたエルヴィンがくすくすと笑う。
「悪の魔法使いを狩り、一般人を守る正義の味方は大変だね」
思わず弓鶴は怒鳴る。
「お前もそうだったはずだろうが!」
エルヴィンの表情は変わらない。第八階梯の威圧感を放ったまま微笑んでいる。
「言っただろう? 裏切ったのはASUであり、この社会だ。ボクらは必死に尽くしてきたのに、返ってきたのが絶縁状じゃあ堪らない。なら、革命でも起こすしかないよね?」
「そんな世迷言はどうでもよい。さっさとその子を渡せ」
ブリジットの怒りの声。エルヴィンが肩を竦めて円珠を見た。
「と、ASUは言っているがどうする?」
問いかけられた円珠が首を振った。目を疑った。
「私はこの人たちに付いて行きます。あの手紙をもらい、そしてあなた方から現実を教えて頂いたときに決心したんです。この世界は私たちには厳しすぎる」
ブリジットの顔面が蒼白となった。つまり、円珠の行動は彼が後押ししてしまったのだ。彼女のための言葉が逆に彼女を追い込んだ。
世の中、知りたくない現実など山ほど存在する。それが理解しておかねばならぬことであっても、目を逸らしたいという人はたくさんいるのだ。彼女は、彼が期待するほど強くはなかった。強くあれなかった。これが、生粋の魔法使いと魔法使い候補者の価値観の違いだ。それが今回浮き彫りになった。悲しいほどすれ違っていたのだ。
ブリジットがわなわなと震える。
「オットーの結界内にどうやって侵入した? あれは説話体系の魔法転移でもそう簡単には抜けられ……」
そこで、ブリジットの言葉が止まった。遅れて弓鶴も気づいた。
説話体系による魔法転移は、《説話筆記》と呼ばれる手法で二種類存在する。ひとつは、書に転移先を記して移動する方法。これは異空間を挟んだ秘跡魔法の結界を突破できない。であればもうひとつ。二つの書に自らが転移することを記して書の間を移動する方法だ。これは書の物語の世界を繋げて転移するから、オットーの空間を歪めて作る結界すら突破する。円珠はさっき手紙と言った。エルヴィンは、それを媒介にしてオットーの結界内へ魔法転移したのだ。
すなわち、弓鶴たちは守るべき魔法使い候補者から裏切られたのだ。
ブリジットの表情が失意と後悔に濡れた。
「円珠、我らはキミを守っていたんだぞ?」
ブリジットの声は悲痛が混じっていた。だが、円珠も泣きそうになりながら言い返した。
「ブリジットさんが言っていたじゃないですか。私の未来は絶望的だって。なら、魔法使いらしくあらゆる障害を跳ね除けて、世界を切り開くしかないじゃないですか」
投げた言葉がそっくり返ってきた。まるで因果が巡って応報となって、罪人に舞い戻るように。
この世はままらないことばかりだ。魔法で便利になったというのに苦労ばかりで、競争がより過激になって生きづらくなった。その動乱の時代に翻弄される弱者の声が、いま弾けたのだ。
ASUは高位魔導師の集団だ。つまり、超エリートであり人生における勝ち組だ。そして、眼前にいるのは、言い方を選ばないのであれば負け組だ。絶対に分かり合うことのない二者が対面してしまえば、もはやぶつかり合うしかない。
最悪だ。魔法使い候補者が自ら犯罪集団に身を堕とした。これがどういう意味か、円珠庵はたぶん理解していない。
弓鶴は慎重に口を開く。せめて、彼女に一番近い立場の自分が声を掛けるべきだと思った。
「円珠、そいつの手を取るのだけは駄目だ。そいつはもう犯罪魔導師だ。ASUは犯罪魔導師を絶対に許さない。先に待っているのはASUに追われる未来だけだぞ。それでいいのか」
「ならどうすればいいんですか!」
円珠が叫んだ。それは、魂の慟哭だった。
「私の未来はどうすればいいんですか! 結局戦わなきゃいけないなら、同じ苦しみを共有できる人と戦いたい! こんな、こんなことになるくらいなら……魔法使いになんてなりたくなかった‼」
ひとりの未来ある若者が、己の未来に絶望して嘆いている。導くはずの大人が、そして社会が、こぞってお前なんていらないと、ひどい言葉を投げつけたからだ。だが、ブリジットが言うように、希望だけを持たせて後になって絶望するのも悲劇だ。魔法世界に進んでも、いずれ社会は円珠庵を弾き出す。この結末は遅かれ早かれ訪れるものだったのだ。
「円珠、一言だけだ」
唐突にブリジットが口を開いた。円珠が彼を睨みつける。
「一言こう言え、助けてくれと。それだけでいい。我らに向けて言ってくれ」
円珠の瞳に疑問。だが、現実に押しつぶされそうになっている彼女にとって、救いを求める相手などもはやなんだっていい。
「助けて下さい。私をこの理不尽な世界から助けて下さい!」
ブリジットが笑う。口端を吊り上げた、魔法使いらしい邪悪な笑みだ。
「よろしい、結構だ! 言質を取ったぞ! 弓鶴、いまこの瞬間、円珠庵は説話魔導師に捕らわれた被害者だ! 存分にやれ!」
弓鶴は思わず笑みを浮かべながら同田貫を抜いた。ブリジットは、円珠の口から助けを求める声を無理やり引き出すことで、犯罪魔導師から被害者へと立場をすり替えたのだ。
場は、制圧された者が一名。残り四名は昏倒状態。敵は眼前にいるエルヴィンのみ。相手が第八階梯魔導師であろうと、同階梯のブリジットと第六階梯の弓鶴の二名で詰めれば倒せる。
錬金魔法による爆破移動法を発動。足元に鉄板を仕込み、更にその下に精製した金属を即時気化。位相転移による急激な膨張で爆発した気化金属がエネルギーを放出。それを移動速度に変換し、弓鶴は一気に直進。
弓鶴の袈裟斬りは完全にエルヴィンの左肩を捉えていた。
そのとき、弓鶴の全身に怖気が走った。まるでこの世の地獄を見てしまったかのような、猛烈な悪寒。反射的に攻撃を取りやめ、爆破移動魔法を駆使してすぐさま飛びのく。直後、一瞬前まで弓鶴がいた位置に、巨大な犬が口を勢いよく閉じた。
エルヴィンの周囲の空間が赤黒く歪んでいる。赤茶色の体毛に覆われた巨大な犬が、その空間から首だけを出していた。目算で頭だけでも二メートル近い。想像すると、全長で十メートルを超すのではないか。閉じられた猛犬の口にずらりと並んで見えるのは、凶悪な牙の群。引かなければ確実に頭から食われていた。
「ああ怖い。さすがこの世の地獄だ。なら、ボクも地獄をもってお相手しよう」
エルヴィンの胸の前には、いつの間にか書が宙に浮かんでいた。書がひとりでに開き、猛烈な勢いで頁を捲り始める。
ブリジットが怒鳴った。
「引け! 《新曲》のケルベロスが出るぞ!」
命令通り弓鶴は更に距離を取る。
そのとき、世界が軋んだ。
――汝、この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ。
人のものとは思えぬ、魂を死の恐怖へ突き落とす声。唐突に巨大な門が現れた。それは、この世と地獄を繋ぐ門。決して開けてはならない災厄を内包せしもの。実体はなく、影のように滲み出した門は、見ているだけで心臓を鷲掴みにされているかの恐怖で弓鶴の身体を縛る。
門が開く。
中から現れたのは、先刻、首だけを出した赤茶色の猛犬。異様さはその巨大さだけではない。胴体から伸びる首が三つあったのだ。そのどれもが、獰猛な二対の瞳を嵌めこんでおり、金剛石すら砕くと思わせる太く長い牙からは、大量の粘液が滴り落ちていた。威嚇するように喉を鳴らした三頭犬が、弓鶴たちを見下ろす。
《神曲》という本がある。イタリアのダンテ・アリギエーリが十三世紀~十四世紀に執筆した叙事詩だ。このケルベロスは、《神曲》の時獄篇に登場する怪物である。エルヴィンは、説話体系の《幻想召喚》によって、ケルベロスを書から現実に引きずり出したのだ。
「住宅街でA級魔導書を使うなど正気か⁉」
ブリジットの声には驚愕が含まれている。
説話魔法は魔法の基盤が本だ。だから本を魔導書と呼ぶ。この魔導書は、時を経るごとに、そして多くの人に読まれるごとに力を増す。規格外である神話等の超高位魔導書を除き、その力をA~Dの等級で分けているのだ。当然、上位になるほど危険度が増し、制御力が甘いと暴走する可能性がある。
ダンテの《神曲》は最上位のA級だ。少しでも常識を持っている魔法使いなら、街中で使用することなどあり得ない。
だが、ブリジットへ返されたエルヴィンの声は苛立ちが篭っていた。
「ボクがこの魔導書を制御できないとでも? 舐めてくれるねブリジット」
魔法使いはプライドが高い。高位になるほどそれは顕著になる。ブリジットの科白は、エルヴィンの高いプライドに火を付けたのだ。
三頭犬が口を開く。三頭の口に巨大な炎の玉が溢れ出る。それは現実の炎ではない。まるで粘性でも持っているマグマのように滴る地獄の炎だ。放たれれば最期、弓鶴たちを燃やしても止まらず住宅街を焼き尽くす威力だ。
「バカが! この一角を消し炭にするつもりか⁉」
ブリジットが元型魔法による結界を展開。同時に、エルヴィンの左手に二冊目の書が開かれる。淡い燐光。
「侮るなよブリジット! 消し済になるのはお前だけだ‼」
三頭犬が咆哮と共に三発の火炎弾を放出。ブリジットへ目がけて一直線に疾走。火炎弾が結界に着弾。そのまま爆発するかと思いきや、球形を維持したまま結界を削り始める。
ブリジットの口元が歪んだ。結界の背後に更に結界を追加。直後、第一結界が破壊された。そのまま第二結界へと接触。明らかに物理法則を反した動きをしている。二冊目の魔導書によって何かしらの効果を付与されたのだ。
ブリジットの顔に焦燥。第三結界の展開が間に合わない。上空に逃げれば直撃は避けられるが、住宅街への被害は甚大だ。絶対に止める必要があった。
第二結界が破ける寸前、弓鶴が動いていた。
爆破移動魔法によって瞬時に火炎弾へと肉薄した弓鶴は、同田貫を突き出す。切っ先には光すら分解する黒点。
あらゆる存在を“物質”として知覚し強制分解する《断罪の輪》が、火炎弾を殺していく。火花ひとつ残さず三つを消し去り、弓鶴が地面に足を滑らせ爆破移動魔法を発動。一気にエルヴィンの首を取りに行く。
三頭犬が首を伸ばす。三つの凶悪な口腔が、弓鶴の身体を食い散らかさんと狙いを定めていた。だが、三つの首がいきなり右に吹っ飛ばされる。ブリジットが《観念力動》による衝撃波で横合いから殴りつけたのだ。
弓鶴はケルベロスを無視してエルヴィンを狙う。
直感。
条件反射で足を叩く。爆破移動魔法で上空に飛び上がった。虚空から生まれた鎖が寸前まで弓鶴がいた場所を囲んでいた。眼下に夜よりもなお昏い光が生まれる。その周囲には、赤黒い空間が滲んでいた。《神曲》からまた何か怪物を呼び出したのだ。
天を引き裂くほどの咆哮が住宅街を迸る。闇からぬるりと這い出てきたのは、巨大な白い何かだ。それは人型をしていた。顔はのっぺりとして鼻が存在せず、粘土細工のようにこしらえられた穴が目と口の代わりをしていた。磔刑を体現するように人型が宙で両手を伸ばし、手首と足首らしき部分には無数の鎖が結ばれていた。その先端は未だ渦巻く赤黒い世界に繋がっていた。元々は高貴な色であったであろう人型の白は、ところどころが赤と黒に汚れている。そして背には、それがどんな存在であったのかを示すように一対の穢れた翼が伸びていた。
堕ちた天使だ。
穿たれた穴の口から極光が走った。狙いは弓鶴だ。予想外の事態に空白ができた彼は絶好の的だった。
直感で死ぬと悟った。
横殴りの衝撃。極光が弓鶴の目と鼻の先で天へと昇り、雲を突き破った。
弓鶴は空中で何とか態勢を立て直す。ブリジットが《観念力動》で彼を吹き飛ばしたのだ。そうでなければいまの一撃で死んでいた。
「なに……これ……?」
一撃で命を刈り取る魔法使いの戦場で、ひとりの少女の声が響く。それは、円珠庵の慟哭にも似た呟きだった。
そして現実を罵る叫び。
「なんなんですかこれは⁉」
誰もが答える余裕などない。そんな隙を見せれば殺される。エルヴィンは本気で住宅街ごと弓鶴たちを殺しに来ているのだ。
唐突に銃声。
ただ一発のライフル弾が三頭犬の一頭をぶち抜き、虚空を泳いでいた鎖を微塵に砕き、わずかに弾道が逸れて、エルヴィンの左太ももから先を吹き飛ばした。鮮血と共に肉片が飛び散る。彼の表情に驚き。円珠の悲鳴。
「遅れました……!」
消えゆくような透明な女性の声。ラファエルだ。因果魔法の《時流制御》によって加速し、ライフルで狙撃したのだ。
「我ら秘跡魔導師以外が、堕ちたとはいえ神の御使いを操りますか。無礼者が! その罪科は万死に値する!」
オットーの声と共に、円珠家から薄青い燐光の領域が一気に広がった。半径百メートルまで広げられたその領域は、神の威光によって塗りつぶされる。
人は潜在的に神を畏れている。それゆえ、人は神を感じた瞬間その場から立ち去る。それが創られし者の定めであるかのように。
秘跡魔法による《秩序体系》は、神への畏れによる行動を人々に強制させる。高位の魔導師には効かなくとも、一般人はその畏れから領域外へ無意識に逃げていく。乱心していた円珠ですら無表情となり、のろのろと後ずさりしていく。
この瞬間をもって、この場から一般人が完全に退避を始めた。ここは神の威光が降り注ぐ聖域であり、魔法使いだけの戦場となった。
オットーによる魔法が場を支配したのだ。
「虫けら風情が、随分と調子に乗ったな! 神の威光の前にこうべを垂れよ!」
円珠の周囲に更に濃い青の燐光。オットーが結界を張っていた。
そして、左足を失ったエルヴィンへ、三人の攻撃が斉射される。弓鶴の錬金魔法によって精製された十本の刀が、ラファエルの因果魔法で超加速したライフル弾が、ブリジットの元型魔法による不可視の衝撃波が、たったひとりの魔導師へ向けて殺到した。
突如、魔法の軍隊が消え去った。音を立ててオットーの《秩序体系》が壊れる。聖域が人の領域に堕ちる。
頁。
桜の花びらのように、頁が舞う、舞う。偉大なる超高位魔導師を讃えるようにはらはらと。渦を描き膨れ上がる。
そして、頁の群から一人の大男が足を踏み出した。鷹の瞳が鋭い光を湛える精悍な顔には、激戦を潜り抜けてきたことを彷彿とさせる無数の傷跡が走っていた。太陽がごとき威容を背に背負った超高位魔導師が、自らを知らしめんと高らかに名乗りを上げた。
「我はフェリクス・デュラックなり。こたびの戦はここで終いだ」
弓鶴は絶句した。フェリクス・デュラックとは、彼でも知っている有名な説話体系の超高位魔導師だ。かつてエルヴィンと同じ部署の課長を務めあげ、数多くの凶悪な犯罪魔導師達を処罰してきた英雄。A級魔導書はおろか神話級の魔導書すら軽々と制御し、神話の武器を扱うその様はまさしく英雄の一言に尽きる。説話体系で最も偉大な魔導師は誰かと問われれば、大抵の魔法使いは彼を指す。つまり、生ける伝説だ。
数年前に突如ASUを辞め、世界各地を放浪していると噂で聞いていたが、まさかいきなりここに現れるとは思わなかった。
だが、感心できたのはほんの一時だ。フェリクスは明らかにエルヴィンを庇うように立っているのだ。そしてそれは、この場においては敵対を意味する。すなわち、超高位魔導師であり英雄、生きた伝説が敵に回ったのだ。脅威を通り越して絶望的ですらあった。
あのブリジットすら慄いている。
「フェリクス殿……今回の背後にいたのはあなたですか!」
ブリジットの敬語など弓鶴は久しぶりに聞いた。フェリクスはそれほどの兵なのだ。
フェリクスが口を開く。ただそれだけで殺されるのではないかと恐怖が全身を襲う。
「我ら説話魔導師はISIAとASUに弓を引く。こたびはその幕開けだ。同胞を警護した汝らよ、我の顔に免じてここは引け。かような平穏な地で無用な被害を出す必要もなかろうて」
フェリクスは常識的な魔法使いだったと弓鶴は聞いている。よりにもよってその彼が、説話魔導師を率いてISIAとASUに宣戦布告をしたのだ。なにが起きたのだと問わずにはいられない。
「なぜあなたのような偉大な魔法使いがこのようなことをするのですか!」
ブリジットの声には動揺があった。
鷹の瞳がブリジットへ向く。それだけで彼は背筋を震わせた。
「知れたこと。世にはもはや説話が生きられる場所などない。ならば、我ら自身が世界を作り出すしかないではないか」
「あなたは最前線で活躍しておられたではないですか! 犯罪魔導師を狩り続けたあなたが犯罪魔導師に身を堕とすのですか!」
「己だけがその立場に甘んじ胡坐を掻けと? 冗談ではない。同胞らが苦しんでいる姿を見続け、なにもできぬこの凡愚。せめて命を散らすのであれば、一花咲かせるべきであろうて。こたびの戦は強敵揃いよ。それを打ち砕き、我らは念願を叶える」
理性的に狂っている。そう、フェリクスは敢えて狂うことも厭わずに自ら足を踏み出したのだ。絶対的な信念のもとに動く彼を、もはや言葉で止めることなど不可能だ。
いよいよ事態が深刻化してきた。アーキ事件以来の、否、それよりも深刻な災厄がこれから始まるのだ。
ブリジットが一歩足を踏み出し懇願する。
「フェリクス殿、ともかくその子、円珠庵の身柄をこちらに渡してください。彼女は魔法使い候補者です」
「ならぬ。説話の同胞を地獄へ送るなど、どうしてできようか。この娘は責任を持って我らが預かる。ASUは引け」
「引けません。その子を守るのが我々の仕事です」
「説話の同胞を守るのが我が使命だ」
お互いに一歩も引かない。互いが互いに信念を持っているからだ。
肝心の本人である円珠は完全に腰が引けていた。いきなり魔法使いの戦場に飛び込めば誰だってそうなる。平和な世界に安穏と生きてきた魔法使い候補者は、攻撃魔法が飛び交う戦場を前にして同じ価値観を持っていられなくなる。どれほど己の命が軽いかを知るのだ。生半可な覚悟で飛び込める世界ではない。
頁が吹きすさぶ。フェリクスが転移魔法を展開し始めたのだ。説話魔導師らと円珠庵の身体が淡い燐光に包まれる。
「フェリクス殿!」ブリジットの叫び声。
「こたびはこちらが引こう。次、我らが相まみえるとき、真の死闘を繰り広げることになろう。覚悟せよ。我らが引いた弓は、なまなかな矢ではないぞ?」
フェリクスが口元に笑みを浮かべた途端、魔法転移が発動。全員の姿が掻き消えた。取り残されたのはアイシア班の四名だけだった。
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