終章:すべては時流の彼方へ
空で行われていた戦闘が終わっていた。まさしく怪物同士の戦いともいえる大規模戦闘だ。
弓鶴その間、律法魔法によって修復された国際展示場の東棟で更科那美の治癒を見守っていた。人の掃けた静かな会場で、幼子の治療にアイシアが全力で当たっている。
傷口は腹部の刺し傷のみ。しかし、それは心臓を直撃していた。外傷は既に治っているが、アイシアの表情には焦りがあった。
「たぶん治った。けどこれは応急処置だから、すぐにでも魔法医に見せた方がいいよ。万が一があるから」
「ならASUに連絡を!」
そう言って端末を取り出そうとして、弓鶴の動きが激痛で止まる。戦闘の緊張が解けて左腕と両足が悲鳴を上げていた。
「キミも重症なんだから大人しくしてて!」
アイシアが弓鶴へ治癒魔法と鎮痛魔法をかけ始める。鎮痛魔法により痛覚が麻痺し、痛みが一気に引く。
「骨折と脱臼はなんとかなるけど左腕は私じゃ無理。キミも専門医に行って。まだ止血は保てそう?」
「なんとかな」
強張っていた身体がほぐれる。ようやく現状を正しく認識し始めたようだった。
更科那美は魔法使いではなかった。背後にいた白鷺小百合に変身した《ベルベット》のアーキが真犯人だった。すべては彼の気まぐれと魔法使い抹殺を目的とした行動。そんな下らないもののために全員が振り回され、日本の首都は滅亡の危機一歩手前にまで陥れられた。
そしていま、更科那美は生死の境を彷徨っている。人殺しではない無実の少女がだ。弓鶴がぼんくらだったから、彼女が魔法使いではない考えに至らず刺したのだ。浅慮にもほどがあった。あまりにも愚かで、自分で自分を殺したかった。
治療を続けているアイシアが弓鶴を呼ぶ。その額には魔法の連続使用で疲弊しているのか汗が光っていた。
「自分を責めちゃだめ。私も騙された。警察も、ASUも世界中すべてが騙された。あんなの分かりっこない」
「ヒントはあった。分かってやるべきだった。気づいてあげるべきだった。なんでだ? なんで更科那美ばかりこんな悲惨な目に合うんだ?」
それは現実に対する怒りと悲痛だ。
両親を事故で無くし、友人が犯され、自らも犯されかけ、魔法使いになったと勘違いして間近で人を死ぬ姿を見続け、マスコミに顔と名前を晒し自らを犯人と名乗らされ、国際展示場占拠事件のまで起こして、挙句がASUに殺されかけた。なんだこれは。すべてが更科那美をこの世から放逐しようとしているようではないか。
たった一人、誰かが気づいてやれればこんなことにはならなかった。それは弓鶴だってそうなのだ。気づけるチャンスはいくらでもあった。だが、思考を止めたことで正解に至らなかった。それは彼の怠慢だ。
更科那美の生きる道は暗い。全世界に名前が知られ、犯人だと思われてしまったからだ。事実、殺人幇助として罪に問われるのかもしれない。こんな結末は間違っていると思った。
アイシアは何も言わなかった。彼女も言うべき言葉が見つからないようだった。
世間において、更科那美は悪だった。被害者が容疑者とはいえ殺して回っていたからだ。だが、それは本人がそう思い込んでいただけで実際に犯行を行っていたのは別人だった。つまり、善悪が逆転したのだ。まるで波が上下に揺れるように。警察もASUも犯人ではない子どもを追い、あまつさえ殺し掛け、そしていま無様に結末を憂いている。なにもかもめちゃくちゃだ。こんな馬鹿げたことがあっていいのか。
すぐ傍で男が起きる声がした。気を失っていた稲垣だった。高位魔導師の魔法で連れまわされれば当然だ。はっとして起き上がった彼は、状況を確認し絶望の顔をした。
「全員無事か⁉ どうなった⁉」
「俺とアイシアは重症だけど生きてます。更科那美もなんとか命を繋いでいる状況。すぐにでも魔法医に見せた方がいいです。アーキはアイシアの両親が戦っていて、たぶんもう戦闘は終わってます」
「すぐにISIAへ魔法医の手配をする」
稲垣が端末を操作して魔法医を呼ぶようISIAへ指示をする。連絡を終えた彼が長い息を吐き出した。
「更科那美は魔法使いではない。これは確かだな?」
アイシアが答える。
「間違いありません」
「なぜ気づけなかった」
その問いに言うべき答えが見つからない。稲垣が顔を覆った。
「いや、責めているわけではない。君らは命を賭してよくやってくれた。それは分かっている。あらゆる証拠が更科那美を犯人だと言っていた。超高位魔導師とやらが背後にいるなど想像すらできなかった」
弓鶴が首を振る。違う、違うのだ。
「俺たちが怠慢だったんです。もっとよく考えるべきだった。最初から白鷺小百合は怪しかった。なのに更科那美ばかりが目立ってそちらに目が向いて、本来考えるべき点を見失っていた。元型魔法じゃ鎧が那美と喋るなんてありえない。その時点で那美は鎧を使役してなかった。そんな簡単なことすら気づかなかった俺たちはただの馬鹿だ」
これは懺悔だ。いっそ稲垣に責めてほしかった。お前たちは無能で、お前たちのせいでこんな悲劇が起きたのだと罵倒してほしかった。
それでも、稲垣は弓鶴たちを責めはしなかった。
「君たちは本来担当外だったと聞いている。事件解決の専門ではない。犯人逮捕時に手を貸してもらうことだけが担当だったのだ。私たち警察とASU刑事課が真相に至るべきだった。互いに歩み寄ることすらできず、君たちを間に入れざるを得なかったのは我々の怠慢だ。責めを負うべきは我々警察とASU刑事課だ」
稲垣の声には悔しさと後悔が滲んでいた。国家と国際機関の治安維持組織が超高位魔導師ひとりにいいように弄ばれたのだ。
三人が黙したそのとき、急に不遜な声を投げられた。
「更科那美の身柄を頂こうか」
ASU刑事課ランベール・ディディエだった。彼は面倒そうな表情をしつつこちらに歩いてやってくる。反応したのはアイシアだ。
「更科那美は魔法使いじゃない。彼女は魔法犯罪者じゃない。ここから先は警察の管轄だよ。キミは出ていって」
はて、とランベールが首を傾げる。
「更科那美は魔法使いだ。そして即時抹殺命令が出ている。ならば殺す必要があるだろう?」
唖然とした。ランベールが何を言っているのか弓鶴は一瞬理解できなかった。
「なに言ってんだ? 更科那美は超高位魔導師に誘導されてただけだ。実際に人を殺しちゃいないし魔法だって当然使ってない。ASUが出る案件じゃないだろ」
「それが事実だとして、なにか関係あるかね? 更科那美は殺すべきだ」
「はあ?」
言っている意味が分からない。が、はたと弓鶴は気づく。真相解明の時、彼ら刑事課は意識を失っていた。ランベールは“更科那美が魔法使いではないという事実を知っているはずがない”。つまり……。
「お前、気づいていたな?」
「なにがかね?」
弓鶴が激昂した。
「気づいてたんだろ! 更科那美が操られてるだけだって知ってたな⁉ なぜ言わなかった‼」
弓鶴の怒声に顔をしかめたランベールが涼し気に言う。
「抹殺指令が出た以上殺す。どんな相手であろうがだ。違うかね?」
ランベールの物言いに、最悪な展開が弓鶴の脳裏に浮かんだ。ASUらしい最悪なやり方が。
「お前……まさか、更科那美が魔法使いだって事実を公表せずにこの子にすべての罪を被せる気か……?」
「魔法使いを魔法使いとして認定する客観的証拠は存在しない。あるのは当人の自覚と外から見た魔法を使う姿だけだ」
魔法適正検査の欠陥のひとつをランベールが言った。魔法適正検査は視覚や聴覚検査のように、自身が感じたものを答えてそれを基に決める。本人が言っている言葉が嘘であれば事実は簡単に捻じ曲げられる。だから更科那美も現時点では魔法使いだと彼は言っているのだ。
「アーキが自供した! 更科那美は魔法使いじゃない! 客観的証拠が存在する!」
「《ベルベット》の言うことを信用しろと?」
魔法使いは過激だ。犯罪魔導師だと判断すれば情状酌量の余地なく殺す。ISIAが止めなければASUは処罰し続ける。そして、世論はそれを是とする。狂っていると思った。
「ふざけるな! だったら本人の意識が戻ってからまた検査すればいい!」
「超高位魔導師だったらどうする? 簡単に逃げられるぞ? また刑事課を動員して事に当たれということかね?」
「そんな理由で無実の人間を殺すのか? なんだそれは! お前ら狂ってやがる!」
弓鶴の物言いにランベールが眉をひそめた。
「刺したのはキミではないか。狂っている? なにを言っている。キミの考えこそ頭がどうかしている。犯罪魔導師は即座に殺す。これが魔法使いのルールだ」
「犯罪魔導師っていう前提が覆されたんだぞ⁉」
「それは状況証拠に過ぎない。我々は更科那美が魔法を使う姿を見ているのだ。これ以上明確な証拠が必要かね?」
「検証が必要だって言ってるんだよ! アーキに操られていた一般人だぞ? 更科那美から話を聞く必要があるだろ!」
「必要ない。更科那美は《ベルベット》アーキと共に大量殺人と国際展示場占拠事件を起こした。あまつさえ日本の首都上空で強力な魔法戦闘までする始末だ。ASUの精鋭部隊が来なければ危うく日本の首都が壊滅するところだった。これだけの事件を引き起こしておいて、即時抹殺以外に一体どんな処置がある?」
完全に話が平行線だった。ASUはどうしても更科那美を殺したいのだ。なぜか。一般人に翻弄されていたなど醜聞だからだ。だから超高位魔導師ならば仕方がないと納得したいために殺す。下らない魔法使いのプライドが更科那美を殺すのだ。相変わらず魔法使いの思考回路はイカれている。
「お前らは、一体なんだ⁉ 根本的に価値観が違い過ぎるだろ‼」
弓鶴の問いの答えは簡単だった。ランベールが何を言っているのだというように答える。
「魔法使いに決まっているだろう。キミもそうではないか」
「お前らみたいなクソ野郎と一緒にするな‼」
弓鶴の心からの叫びだった。魔法使いはどいつもこいつも狂っている。扱う魔法体系の魔法世界を知覚しながら生きているから、一般人とは根本的に価値観が異なる。だからといって、二十一世紀にもなって疑わしいから殺すなど、常軌を逸している。
稲垣は呆れて言うべき言葉が見つからないのか、魔法使いの理論に唖然としていた。アイシアもなにも言えないのか黙っている。
折角事件が解決しようとしていたのに、ランベールが現れただけで事態が狂いだした。いや、最初から狂っていたのかもしれない。魔法使いが世に現れたときから。そしてASUに弓鶴が入ったときから。嫌というほど見せつけられたではないか。魔法使いは頭がおかしいと。その極地がこれだ。
十一歳の女児の生死をこの場にいるものが決めようとしている。そこに人類が敷いた法などどこにもない。ただの私刑だ。
一体正義はどこにある?
弓鶴は、かつて魔法使いが憎かった。魔法使いによって父親を殺されたからだ。だが、魔法を使えると知って、アイシアに助けられて、正義の魔法使いに憧れた。魔法で人々を救うんだと心に誓った。そして悪い魔法使いをやっつけてきた。
それがなんだ。十一歳の魔法使いではない一般人を己の刀で刺し、魔法使いからはそいつを殺すから身柄を寄越せと言われている。これが目指した正義の魔法使いか?
怒りと憤りと失望で頭が沸騰していた。
「こんな、こんなのが魔法使いなのか? 俺たちがやってることは一体なんなんだ?」
弓鶴の声は震えていた。自身の言葉が制御できなかった。感情が爆発した。
「これが魔法使いのルールだっていうなら、魔法使いなんて滅んじまえ!」
「同感だな弓鶴」
そのとき、魔法使いが転移してきた。重犯罪魔導師対策室のラファランとアリーシャ、そしてジャンヌだった。
「魔法使いは狂ってる。滅べばいい。かつて俺が抱いた怒りだ。同じ想いを持ってくれて嬉しくおもうぞ」
ラファランが弓鶴を見て笑った。弓鶴にとって、ラファランは憧れの魔導師だった。その魔法使いに肯定されたことが嬉しかった。
「弓鶴さん、すぐに治療を!」
アリーシャがアイシアから治療を引き継ぐ。超高位魔導師の治癒は一瞬だ。瞬く間に左腕が生え、両足の痛みが無くなり完治した。並行で治癒していた更科那美を見たアリーシャがアイシアを見る。子どもの成長を誇る母親の表情だった。
「よくやりましたねアイシア。この子も無事です。応急処置が適切でした」
アイシアが頬を掻いて照れてみせる。
「そりゃあお母さんにしごかれたからね。ちゃんとやったよ」
場の雰囲気が変わる。急に空気が弛緩したのだ。そして、慌てたのはランベールだった。なぜなら、突如乱入したこの三人は、第九階梯の超高位魔導師だ。縦社会に生きる魔導師にとって、上位階梯の言葉は神の言葉そのものだ。つまり、この場で一番階梯が高かったランベールだが、いきなり上位の者が現れたから彼らに従うしかないのだ。
「超高位魔導師の皆さま。ご足労頂き感謝いたします」
「心にも思ってないことを言わなくていい。刑事課を連れてさっさと消えろ。ここは俺たちが持つ」
ラファランが冷たく言い放つ。ランベールの顔が歪んだ。
「ラファラン様、しかしこの娘、更科那美は魔法使いの可能性があります。起こした事件を考えればASUとしては抹殺が適当かと具申致します」
「俺が持つって言っただろ。魔法使いならこの言葉の意味が分かるだろ? お前がよく言う低階梯はさっさと消えろって言ってるんだ」
ランベールが奥歯を噛む。彼は魔導師階梯で上から二番目の第八階梯だ。第九階梯魔導師など数えるほどしかいないから、命令される経験が少ないのだ。
「承知しました。撤収します」
頭を下げたランベールが踵を返して去っていく。その後ろ姿を憎らし気に見つめていた弓鶴は、彼がいなくなったことを確認するとほっと息を吐き出した。
「助かりました。本当に更科那美を殺されるところでした」
気にするな、とラファランが肩をすくめた。
「こっちも大体状況は把握してる。ブリジットが妖精で教えてくれたからな。あいつ、仕事になると急に真面目になるよな。そういうところはシャーロットと似てるよなあ」
シャーロットとはブリジットの叔母だ。
「とにかく、超高位魔導師相手によく戦ったな。俺たちが来るまで耐えてくれて助かった」
ラファランが弓鶴の肩を叩く。浮かべた表情はどこか誇らしげだった。
「いえ……結局、俺たちは見当違いな相手に刃を向けていました。最後もラファランさんたちに助けてもらっただけです」
うなだれる弓鶴にラファランが温かい声を掛ける。
「なに、適材適所って言葉があるだろ。今回弓鶴たちは専門外の仕事なのによくやったよ。ああいう規格外の化物を相手にするのが俺たち重犯罪魔導師対策室なんだ。気にするな。どうせすぐに弓鶴も強くなる」
「えーっと、私は?」
弓鶴ばかりが褒められていることにアイシアが拗ねていた。
「お前もよくやったよ」
ラファランが苦笑して娘の頭に手を置いた。髪の毛をくしゃくしゃにされながらも、アイシアの顔は嬉しそうに綻んでいた。
そこで稲垣がラファランへ向く。
「埼玉県警の稲垣と申します。更科那美の身柄は警察で引き受けたいのですが、構いませんか?」
「ああ、挨拶が遅れました。ASUのラファラン・ラロです。うちの者が大変失礼しました。更科那美の件ですが、まずは念のため魔法適正検査を行っていただけませんか? もし本当に魔法使いだった場合、警察に被害が及ぶ可能性がありますので。検査には我々が立ち会うのでご安心を。その後、魔法使いではないと判明した場合は警察へ正式に身柄を渡します」
「分かりました。それでお願い致します」
稲垣が安心したように息を漏らした。いままで弓鶴とアイシア以外にまともな魔法使いと話してこなかったのだろう。ラファランへ親近感を向けていた。
ようやくこれで事件は収束した。反省点も多く、更科那美の未来のこともあるが、それでも一応の幕は引かれたのだ。
◇◆◇
あのあとすぐにISIA職員を呼んで、意識を取り戻した更科那美の魔法適正検査が行われた。結果は陰性だった。やはり彼女は魔法使いではなかったのだ。本人は急に魔法が使えなかったことに驚き狼狽えていたため、一度警察病院に送還されることになった。落ち着くまでしばらく様子を見るという警察側の配慮だった。
今回の件は超高位魔導師が誘導していたとはいえ、殺人幇助にあたる可能性があるらしい。国が国選弁護士を立てて慎重に事を進めることとなった。
警察が開いた記者会見によって事件の全容が公表された。警察もASUも大バッシングを受けた。無実の十一歳の少女を追い回していたのだから、当然の報いだった。だが、これによって世間が抱く魔法使いへの心象が更に悪くなった。ISIAは完全に頭を抱えることになった。
児童買春顧客リストに載っていた容疑者たちは全員逮捕された。総勢五十名を超えるそのリストの中には、政財界や大企業の幹部など、数少ない大物が名を連ねていた。これもまた大問題になり、マスコミがこぞって児童買春について論じることとなった。
そして、弓鶴たちは翌日からすぐに現場に復帰した。まだ魔法適正検査の警護が終わっていなかったからだ。地獄を潜り抜ける忙しさを過ぎた頃には、もう年が明ける寸前だった。
カレンダーの日付は十二月三十一日大晦日になっていた。
「あー疲れた。我、もうしばらく仕事したくない……」
刑事課のオフィスで椅子に寝そべったブリジットのぼやきは、アイシア班全員が共有する思いだった。なにせ最後の警護が先ほど終わって帰ってきたばかりなのだ。休日もなく、クリスマスですら警護していたくらいだ。だが、班長であるアイシアはそんな連中の手綱を締める長だ。
「まだ終わったのは埼玉だけだよ。来年からはすぐに群馬、栃木、千葉、東京、神奈川が始まるよ。ぼさっとしてられないからね」
「地獄です……」
ラファエルが嘆きながら自席に突っ伏す。弓鶴も同じ気分だった。これがあと四県一都あると思うと気が重かった。
「折角活躍したのに弓鶴さんに見てもらえませんでしたよ。これでは私の威厳が保てないのでは……?」
オットーは相変わらず意味不明なことを言っていた。初日の魔法適正検査のとき、彼は他校へ応援に行ってそれはそれは大活躍をしたらしい。らしいというのは、当然アイシア班の誰もその姿を見ていないからだ。他の班の魔法使いは、他班に助けられたなど大声で言えるはずがないから、すべて彼が自分で語った内容だ。普段の言動や行動のせいで全然信じてもらえていないのだが……。
だらだらしていたら時刻は午後三時になっていた。今日はもう仕事が終わりだから帰宅しても問題ない。
弓鶴は重くなった身体を起こして立ち上がる。それにアイシアが気づいた。
「ん、帰るの?」
「ああ、疲れたから帰る」
「今日は忘年会開くけど来るよね?」
「行くよ。ちょっと病院に寄ってくるだけだ」
「ああ、噂の彼女だね」
「違うっての」
くすくすと笑うアイシアの笑顔を見ながら弓鶴はため息する。どうやら本格的に誤解を解かなければならないらしい。それもいまは時間があまりないから今度にしなければならない。色々と課題は山積みだった。
挨拶をしてオフィスを出た弓鶴は、転送室から大宮へ転移。その足で病院へ向かう。
あれから弓鶴は一度だけ更科那美に会った。警察病院の病室にいた彼女は、なにか無理をしているかのように微笑んで迎えてくれた。危害を加えたことを謝罪したのだが、返ってきた言葉は「止めてくれてありがとう」だった。聡明な彼女は正気に戻っていた。自身が犯した罪の大きさに慄き、夜中になると泣き叫ぶこともあるのだと担当者が言っていた。あまりにも不憫でならなかった。
なんの罪もない子どもが魔法使いに利用されても、世の中は魔法インフラを基盤になりたっている。魔法を憎み拒絶しようが、便利になった世の中に人は慣れてしまった。この慣れから逃れることはできない。魔法使いが魔法から逃れることができないように。
世界は矛盾に満ち溢れている。そんな世の中でも、守らなければならないものはある。せめて、弓鶴は悪い魔法使いをやっつける正義の魔法使いになりたかった。
病室に入ると、ベッドで寝転んでいたホーリーがテレビを見ているところだった。プラチナブロンドの髪がシーツの上に乱れ散っている。彼女は誰も見ていないときは、いや、見ているときでも大分だらしない。
「よう、久しぶりだな」
「んー弓鶴? 久しぶりー」
ひらひらと手を振るホーリーへと近寄り、弓鶴は近場の椅子を取って腰かけた。彼女は上半身を起こして彼に向き合う。
「お疲れ。なんか色々大変だったみたいじゃない」
「大変どころの話じゃない。まるで悪夢だった」
「国際展示場占拠事件のときテレビに映ってたわよ。まあ、中に入るときだけだったけどね」
「ああ、あのときか」
そういえばと、マスコミにカメラやマイクを向けられていたことを思い出す。
「で、二週間以上もほったらかしにした言い訳はなにかあるの?」
はっとしてホーリーを見る。彼女は微笑んでいた。なのに、後ろに般若の姿が幻視できるのはなぜなのだろうか。
「すーっごく暇だったんだからね! おかげで恵子に遊び相手になってもらうしかなかったじゃない!」
うわあ、と弓鶴が頭を抱える。またこの疫病神を専門とする哀れな生贄看護師が被害にあったのだ。壮絶な戦いが繰り広げられたのは想像に難くない。今度は菓子折りを持って行かないとな、と弓鶴は真剣に考える。
すぐに反応を返さない弓鶴にホーリーが怒って枕で叩きつけてくる。
それを復活した左腕で受けながらも、弓鶴はこんな平和がいつまでも続けばいいと思った。
かつて、弓鶴は魔法使いを憎んでいた。それでも、アイシアに憧れて正義の魔法使いになろうと誓ったのだ。
いまの自分は正義の魔法使いになれているのだろうか。
それは、一生自らに問い続けなければならない、永遠の課題だった。
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